土方歳三

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土方 歳三
1835年5月31日 -
1869年6月20日享年35〈満34歳没〉)

渾名 鬼の副長
生誕地 武蔵国多摩郡
死没地 蝦夷地箱館(五稜郭)
所属組織 江戸幕府
蝦夷共和国
最終階級 新選組副長
陸軍奉行並
箱館市中取締裁判局頭取
部隊 新選組、旧幕府軍
戦闘 戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い
甲州勝沼の戦い
宇都宮城の戦い
会津戦争
箱館戦争
碧血碑
石田寺 土方歳三義豊之碑

土方 歳三(ひじかた としぞう、天保6年5月5日1835年5月31日) - 明治2年5月11日1869年6月20日))は、新選組副長、蝦夷共和国陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取。は義豊。雅号は豊玉。幕末期の幕臣。新選組鬼の副長として皆に恐れられた。戊辰戦争では幕府側指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮している。家紋は左三つ巴。

目次

[編集] 生涯

[編集] 多摩・試衛館

武蔵国多摩郡石田(いしだ)村(現在の東京都日野市石田)に生まれる(6人兄弟の末っ子とされてきたが、近年になって発見された資料により、実は10人兄弟の末っ子であったことが判明した)。土方家は、多摩に広がる豪農の家系で「お大尽(だいじん)」とよばれる大百姓であった。出生前に父を失っており、6歳の時に母も失い次兄の喜六夫妻に育てられる。

これまで11歳の時に江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現在の松坂屋上野店)へ奉公に出、すぐに番頭と喧嘩をし、日野に戻ってきてしまった、と伝えられていたが、先頃発表された石田村の人別帳控により、数えの11歳時は石田村に在住しており、奉公には出ていないことが判明。欠損もあるが、この人別帳から、歳三が奉公に出ていたのは数えで14歳~24歳の10年間と考えられるようになった。17歳の時には松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋(上野店の鶴店に対し、亀店(かめだな)と称された)に奉公に出され、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こして(番頭衆道関係を迫られたとも言われている)日野に戻った、という伝説もあるが、前述の人別帳の存在から、現在ではその信憑性が疑問視されている。

その後は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだと言われる。日野の佐藤道場に出稽古に来ていた天然理心流4代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこの頃出会ったと推測され、安政6年(1859年3月29日天然理心流に正式入門した。

歳三の姉のぶは姉弟の従兄弟でもある日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたと言われている。彦五郎は大火に乗じて命を狙われたことがあり、それを契機に井上源三郎の兄、井上松五郎の勧めで天然理心流に入門、自宅の一角に道場を開いていた。そんな縁から彦五郎は近藤と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した人でもある。歳三もこの道場で腕を磨いたと伝えられている。

近藤道場(試衛館)の仲間とともに、歳三は文久3年(1863年)2月、幕府征夷大将軍徳川家茂警護のための浪士組に応募し京都へ赴く。

[編集] 新選組副長

高幡不動にある銅像

文久3年(1863年)8月18日八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組が発足。その後新見錦切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。権力を握った近藤勇が局長となった。歳三は副長の地位に就き、局長近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたった。新選組は助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。

元治元年(1864年6月5日池田屋事件の際は、半隊を率いて長州土佐藩士が頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組ただ一隊の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものであり、勇名も一気に天下に轟いた。さらに幕府から、近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、歳三は近藤を諌め与力よりも狙いは大名と、次の機会を待つよう近藤を説得したとされる。新選組内部では、常に新選組の規律を隊士らに遵守させ、規律を破った隊士に対しては例え幹部の人間であろうと切腹を命じており、隊士から恐れられていたとされる。そのため、新選組隊士の死亡原因第1位は切腹であったと言われている。また脱走者は切腹または斬殺後見せしめにすることもあった。

その後、副長の山南敬助を総長に据え、副長は土方1人となる。隊の居場所がなくなり山南が脱走して切腹となった事件では、山南と土方との対立があったとされるが、実際は仲が良かったとする説もある。山南に宛てた句もあり水の北 山の南や 春の月これは土方の好きな春の月が入っており、山の南や=山南とされて仲の良かったことを示しているとされる。その後も隊の規律を守るために河合耆三郎谷三十郎武田観柳斎らを切腹あるいは斬殺させた。伊東甲子太郎御陵衛士にスパイの斎藤一を送るなどして伊東の近藤暗殺計画を未然に防ぎ、伊東、藤堂平助を暗殺し御陵衛士達を壊滅させた(油小路事件)(御陵衛士、及び伊東に関しては異説有り)。

[編集] 戊辰戦争

慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。しかし同年10月14日徳川慶喜征夷大将軍を辞し大政奉還12月9日王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊。慶応4年(1868年1月3日鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した局長近藤勇の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃戦の前に敗北する。歳三は鳥羽・伏見の戦いで敗北する以前の慶応元年頃から、これからは刀で戦ができない時代であると悟り、洋式の軍備を進め始める。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大阪から江戸へ撤退した後、近藤は大久保大和、歳三は内藤隼人と一時名乗って甲斐国に向かう。しかし3月6日勝沼の戦いに敗退。歳三は戦争前に急ぎ援軍要請へ向かったが成功しなかった。その後、流山で再起を謀っていたが、4月3日、新政府軍包囲により局長近藤勇が新政府軍へ出頭。この時歳三が近藤の切腹を止めて出頭を勧めたと言われる。歳三は江戸へ向かい勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋近辺(現JR板橋駅前に墓所有り)にて処刑(斬首)される。

近藤出頭後、助命嘆願のかたわら新選組を斎藤一(山口二郎)に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府脱走軍と合流。4月11日江戸城無血開城が成立すると江戸を脱走し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を勤めた。下館下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。しかし壬生の戦いに敗走、新政府軍と再度宇都宮で戦った際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなった。会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、この間に近藤勇の墓を天寧寺に建てたと言われる。

全快して戦線に復帰した後は会津の防戦に尽力するが、8月母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化。歳三は援軍を求めて庄内藩に向かうが、既に恭順体制の庄内においては入城さえ叶わなかった。歳三は会津から仙台へ向かうことを決めた。同じように戦列を離れた大鳥圭介に対して山口二郎(斎藤一)らは会津藩に忠誠を尽くすべきだと訴えたという事が、箱館戦争後に現在の青森県で記録された古文書にある。土方は、会津藩領では新選組に復帰してはいなかった。そして、城下に残る山口達と、仙台へ天寧寺から離脱した隊士達とに新選組は分裂する。

仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。榎本と共に奥羽越列藩同盟の軍議に参加し、同盟軍総督に推薦されたが[要出典]、まもなく奥羽越列藩同盟が崩壊、同盟藩が次々と新政府軍に屈服した後は、戦う地がある限りどこまでも戦うことを決意。新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて大江丸に乗船し、榎本武揚らと共に10月12日仙台折浜(現:宮城県石巻市折浜)を出航、蝦夷地に渡った。

[編集] 箱館戦争(戦死)

函館市 土方歳三像
土方歳三最期の地碑

10月20日、蝦夷地鷲の木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。新選組は大鳥圭介総督の下本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたと言う。箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍し松前城(福山城)を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、開陽丸で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。江差を無事占領した歳三は、一度松前城へ戻り、12月15日榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする蝦夷共和国(五稜郭が本陣)が成立、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったと言う。箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は騒ぎ浮かれる時ではない」と言っていたと伝わる。

1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加、作戦は失敗し多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。

明治2年(1869年4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとり、自軍が包囲されたと思った土方軍は動揺した。これに対し歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする。」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。また、戦いの合間に歳三は部下達に自ら酒を振舞って廻った。そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったので、部下は笑って了承したと言う。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝。しかし、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還した。

そして明治2年(1869年)5月11日(旧暦)、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、新選組隊士島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。新政府軍艦朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。歳三の命によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは一時勢力を盛り返していたが、突然乱れて大野の必死の指揮にも関わらず総崩れとなった。大野がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三の戦死を知らされたと言う。歳三の遺体は小芝長之助らに引き取られて、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われる。その場所は特定されていない。享年35。

辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。また「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わる。

墓所は、

[編集] 小姓市村鉄之助

歳三は死の直前に小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じる。それに対し市村は「私はこの地で討ち死にする覚悟でやってきました。誰か別の者に命じて下さい」と拒否する。それを聞いた歳三は「断るとあらば、今この場で討ち果たす」と鋭い眼光を向けて言い放つ。その歳三の気迫に圧されて市村は首を縦に振った。日野に旅立つ時、市村は窓に人影が写っていることに気づく。「誰かは解りませんでしたが、おそらく土方さんだったのだと思います」と語り残している。その後市村は日野宿の佐藤彦五郎の元に無事届けている。

愛刀は太刀・和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)、小太刀・堀川国広(ほりかわくにひろ)。

[編集] 逸話

  • 幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたと言う。その柱は現在でも残っている。
    →土方家の伝承。土方愛著『子孫が語る土方歳三』参照。柱は土方歳三資料館に現存。
  • 甥(佐藤彦五郎の3男・為吉)が庭先で転んで額を切った時にはすぐさま駆け付けて「男の子の向かい傷だ。めでたいめでたい」と笑ってあやしたという。
    →佐藤家の伝承。佐藤昱著『聞きがき新選組』参照。
  • 天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったようだ。しかし、実戦では滅法強かったと言われている(斬り合いの時、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したりなど、縦横無尽に戦闘をしていたという)。
  • 後の洋装の写真などから、歳三は合理主義者で便利なものは便利と受け取る柔軟さを持っており、舶来懐中時計なども持っていたという。また、戊辰戦争において、宇都宮城を一時ながら陥落させたり、二股口を守備した時も、味方が敗走を続ける中で勝利を重ねるなど、近代戦術にも理解を示して実践し、成果を挙げている。
  • 隊内の気の置けない仲間には、「自分は、信長の生まれ変わりだろう。」と言ったことがある。
  • 陣中法度、局中法度などの厳しい隊規を考案したとされ、裏切り者やはみ出し者に容赦の無い刃を浴びせた歳三は、鬼の副長と呼ばれ、普段は冷酷な人物とされる。しかし、箱館戦争にまで従った新選組隊士中島登によれば、箱館戦争当時には「温和で、母のように慕われていた」という。この頃には若い隊士を度々飲食に連れ歩いたり、相談事に乗ったりするようになったとも言われている。ただしそれも、年齢を経た結果というよりも、自分の死に場所を見つけたという悟りに近い気持ちと、明日にも闘いで命を落とすかも知れない隊士の士気を上げるための、計算の上であったとする説もある。
  • もともと色白で引き締まった顔立ちをしており(当時としては)長身であった為、京都にて新選組副長として活動していた時などは、日野の仲間に向けて多数の女性からの恋文をまとめて送って自慢するほどであった。
    • 上洛間もない頃、小島鹿之助へ(一説に近藤道場の弟子たちにとも言われる)宛て大きな荷物が届く。京土産でも送って来たかと開けてみると、彼を慕う芸者・舞妓からの恋文がびっしり詰められており、以下の和歌が手紙に添えられていたという。
      報国の心ころわするゝ婦人哉
    小島家の伝承。小島政孝著『新選組余話』参照。
  • 宇都宮の戦いで足を負傷していた歳三は、慶応4年(1868年)閏4月頃から7月頃(異説あり)まで、会津若松城下の宿で病床に伏していた。ある日、同じ宿にいた幕臣で文官の望月光蔵が訪ねて来たが、歳三は寝ころんだまま「俺達と共に戦え」と言った。その傲慢な態度にムッときた望月は「自分は文官だから戦う事はできない」と拒否。すると歳三は「じゃあお前は何をしにこんな遠くまで来たんだ。臆病者め」と言い放った。望月も黙っておれず「幸いにもあなた達は宇都宮城を奪ったが、それをすぐに奪われたではないか。再び奪うことはもう難しいだろう。実に惜しいことだ。あなたもまた臆病者と言わざるを得ない」。望月にそう言われた歳三は「うるさい、俺の病床に障る。もう聞きたくない。出て行け」と叫んだため、望月は部屋を去った。この時歳三は怒りのあまり望月に枕を投げつけたそうである。
    →望月光蔵著「夢乃うわ言」および望月始著『告白の告発』参照。
  • 江戸で定宿としていたのが幕府御用達釜屋。品川宿の中でも大変賑わっていた茶屋で「慶応三年卯十月廿一日登(上)新撰組土方歳三御家族 門人共上下三十一人(休)釜屋半右衛門 九貫三百文」と言う記録が残っている。現在、釜屋の跡地(品川区青物横丁駅)には新撰組の記念碑が建てられている。

[編集] 趣味

和歌俳諧などを嗜むなど意外と風流人の面もあった。「豊玉発句集」などを自分で書して残すほど書き溜めていた。

  • 公用に 出て行く道や 春の月
  • 三日月の 水の底照る 春の雨
  • さしむかふ 心は清き 水かゞみ
  • 水音に 添てきゝけり 川千鳥
  • 山門を 見こして見ゆる 春の月
  • 梅の花 一輪咲いても 梅は梅
  • 春の草 五色までは 覚えけり
  • うくひすや はたきの音も つひやめる
  • あはら屋に 寝て居てさむし 春の月
  • しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道(この句には、丸く線囲みがしてある。俳諧の世界では丸の線囲みは取り消しを意味し失敗作と思われる)
  • しれば迷い しらねば迷ふ 法の道
  • 水の北 山の南や 春の月
  • 行く年の 月日の流れ 蚊帳の外
  • 故郷に向かって 進む 五月雲
  • ふりながら きゆる雪あり 上巳こそ
  • 横に行 足跡はなし 朝の雪

[編集] 演じた俳優、声優

昭和40年代には『新選組血風録』や『燃えよ剣』で栗塚旭の好演して以降、国民的な人気を得た。ドラマ『新選組血風録』の製作開始時に隊士服を着た栗塚旭を見た司馬遼太郎が絶賛したというエピソードが知られている。

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[編集] 土方歳三が登場する作品

[編集] 映画

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[編集] ラジオ・ドラマCD

[編集] 土方歳三を主人公とした作品

土方歳三が登場する作品は、新選組#新選組を題材にした作品Category:新選組を題材とした作品も参照のこと。

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[編集] 小説

[編集] 漫画

  • 斎藤岬 『ひなたの狼』
  • 望月三起也 『俺の新選組』
  • 盛田賢司月明星稀 - さよなら新選組
  • 秋月こお 『青春新撰組BARAGAKI!』
  • 神田たけ志 『北の獅子 真説・土方歳三伝』 - 箱館戦争に焦点を絞って描かれている。
  • 菅野文北走新選組』 - 収録されている短編のうち『殉白』は土方歳三を主役とし、蝦夷共和国の陸軍奉行をつとめた大鳥圭介とのからみを描く。
  • かれん『歳三 梅いちりん』-「新選組剣豪秘話」(流泉小史 著)の花魁黛をめぐっての吉原田圃の大喧嘩のエピソードをベースに土方の試衛館時代を描く。
  • 『願わくば花のもとにて』(一條和春 ラポート『月とノスタルヂヤ』収録 1994年)土方歳三と伊庭八郎の友情を、試衛館から箱館時代まで壮大に描く

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年11月21日 (土) 05:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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