坂下津産業団地(予科練跡)

坂下津産業団地(予科練跡)の最新ニュースをまとめて検索!

坂下津産業団地 (予科練跡)(さかしづさんぎょうだんち・よかれんあと)とは、宇和島道路宇和島坂下津ICの北側に広がる産業団地。敷地約15万m²余。


目次

[編集] 日振新田~工場誘致

旧宇和島海軍航空隊跡石碑
板島橋の残存親橋・昭和十四年三月の文字が
旧火薬庫

藩政時代に「日振新田」として干拓、昭和9年宇和島市九島村との合併を成立させ、所有者の伊達家より買収して埋め立てて昭和11年に「近江帆布」(後に戦時統合で敷島紡績と改名)を誘致し操業させた。 昭和19年に海軍に接収され「松山海軍航空隊宇和島分遣隊」となった。 現在の「産業団地」に姿を変えたのは、1967年、宇和島市が敷島紡績から買い戻し、北の坂下津岸壁(木材などの荷揚港)と共に整備されてから以後である。

[編集] 予科練

戦時中は「予科練(宇和島海軍航空隊)」として接収された。終戦間際の1945年8月8日、兵舎に落とされた爆弾は、翌日長崎市に投下された原爆と同サイズのため、原爆投下の訓練ではなかったかと言う指摘もある。これにより練習生5名を含む多数が死亡した。爆弾が湿地帯に落とされたため、くぼみに水がたまり、1970年代に整備されるまで現存し、地元では「爆弾池」と呼ばれた。(現在の南予ガス協業組合あたりと思われる) 予科練としての面影は、現在はほとんど残っていないが、丸幸家具の敷地に記念碑と、伊達温泉自動販売機の裏に旧火薬庫が現存している。また予科練のシンボルであった旧「板島橋」の親柱が産業団地側にそのまま残っているが、対岸の柱は、宇和島水産高校前の川底に沈んでいたが引き上げられ現在「宇和島市立歴史資料館」に保管されている。

[編集] 終戦直後~産業団地

戦後、海軍航空隊が解体された後も、帰ることができなかった練習生(台湾や朝鮮半島など外地から来た練習生)が司令官鵜飼大佐の指導の下、しばらく農業をしながら自給自足の生活をしていたり、また空襲で焼けた鶴島国民学校、中央国民学校、宇和島商工学校(県立)の臨時校舎として使われ、そのまま戦後の学制改革を迎えた。 (故に宇和島市の城南、城北中学校開校の地はここである。) その後も戦後四半世紀の間放置されて当時の原型を留め、そのため通学通勤の近道、子供の遊び場、昆虫採取、潅木の採取(燃料として)など長く市民が自由に立入ることができた。湿地帯が多かったため食用蛙やアカネトンボの生息地でもあった。 そのためか、地元の古老の中には、今でもこの地域を親しみをこめて「予科練」インター近くにある「板島橋」を「予科練橋」と呼ぶ人も存在する。

[編集] 関連書籍

  • 板島橋―宇和島の予科練と平和への軌跡 木下 博民著

最終更新 2009年11月7日 (土) 06:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【坂下津産業団地(予科練跡)】変更履歴

ご利用上の注意