堀部金丸
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堀部 金丸(ほりべ かなまる(あきざね)(弥兵衛(やへえ))、寛永4年(1627年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、赤穂四十七士の一人。赤穂藩では前江戸留守居、前300石、隠居料20石。父は堀部勝綱。母は不詳。本姓は源氏(近江源氏)。家紋は四ツ目結二ツ。
[編集] 生涯
浅野長重の家臣堀部弥兵衛綱勝の子として常陸国笠間に生まれる。堀部家は祖父助左衛門以来、浅野家に仕える譜代の臣下の家である。幼少の時に父が死に若年より浅野長直、長友、長矩(内匠頭)の三代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となる。妻に山田氏の女、さらに後妻として忠見氏の女わかを迎えており、先妻の山田氏の女との間には弥一兵衛とほりの一男一女をもうけたが、元禄5年(1692年)12月に長男弥一兵衛が男色関係のもつれから妻の縁戚の本多喜平次に殺された(本多は弥兵衛が討ち取ったという)。嫡男を失った弥兵衛は後妻わかの実家忠見氏から堀部文五郎言真を養子に迎えたが、藩主浅野長矩から却下されたため、赤穂藩の家禄を相続させる養子とすることはできなかった。
元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人中山安兵衛を見込み、娘ほりと娶わせ婿養子に迎える。この養子縁組は長矩も許可し、弥兵衛は隠居して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった。
元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は改易となった。弥兵衛は藩邸を引き払い、馬淵一郎右衛門と変名して江戸に隠れ住む(堀部氏は近江源氏佐々木氏の馬淵氏支族であったので、先祖も称した本家の名字を使用したものと思われる)。
弥兵衛は婿養子の安兵衛とともに仇討ちを主張する急進派の中心となった。元禄15年(1702年)大石内蔵助は仇討ちを決定して江戸に下り、弥兵衛は「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。討ち入りの前夜、吉田忠左衛門らを招き酒宴を催した。
12月15日未明、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士は吉良上野介の屋敷に討ち入る。弥兵衛は表門隊に属し、槍を持って門の警戒にあたった。2時間あまりの激闘の末に浪士たちは吉良上野介を討ち果たして本懐を遂げる。
討ち入り後は細川越中守屋敷にお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により、切腹した。享年77。戒名は、刃毛知劔信士。同志のうち最年長者だった。
なおもう一人の養子堀部文五郎も討ち入りへの参加を望んだが、浅野家臣ではなかったので弥兵衛から拒否され、討ち入り直前に連座を避けるため忠見姓に戻して忠見家へもどされた(弥兵衛の日記によると文五郎がどうしてもと望むので吉良邸前までは弥兵衛のお供をすることを許したという)。忠見家に帰されたあとも文五郎は堀部姓を名乗り、弥兵衛と安兵衛の切腹後はかわって堀部家を継ぐ。元禄16年(1703年)赤穂義士に深く感銘していた熊本藩主細川綱利に召抱えられ、その子孫は熊本藩士として存続する。
[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
最終更新 2009年10月10日 (土) 23:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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