増山正賢
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増山 正賢(ましやま まさかた、宝暦4年10月14日(1754年11月27日) - 文政2年1月29日(1819年2月23日))は江戸時代の大名。伊勢国長島藩第5代藩主。長島藩増山家6代。
第4代藩主・増山正贇の長男。母は正室・細川利恭の娘・美代姫(法輪院)。正室は稲垣定計の娘・道姫(法園院)。継室は高須氏(麗容院)。官位は従五位下、河内守。文人大名して知られ、多数の書画を画いている。諱は選、字を君選、号は雪斎。隠居後は単丘山人と号し、その他にも括嚢小隠・玉淵・灌園・雪旅・松秀園・蕉亭・愚山・石顛道人・長洲(長州)などがある。
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[編集] 生涯
1754年10月14日、正贇の長男として江戸に生まれ、1776年、父・正贇の死去により、23歳で長島藩2万石の家督を相続する。大坂城御加番などを歴任。政治面では無能な藩主であったといわれているが、文化面に関しては当時において一流の人物だったと言われている。 1785年8月には儒官十時梅厓に命じて藩校 文礼館を創設し、孔子廟も創設している。また、多くの文化人を招聘して文治の発展に尽力した。正賢自身は山水画や花鳥画など書画に優れ、囲碁や煎茶などにもその芸域が及んだ。文芸に秀でた文人大名として尊敬を集めた。著書には『松秀園亭舎記』、『煎茶式』などがある。
1801年7月5日、48歳にて隠居し、長男の正寧に後を継がせた。その後は江戸巣鴨の下屋敷に住んで悠々自適の生活を送っていたが、このように文化に溺れていったことが、幕府の奢侈禁止令に違反したとして1804年7月に謹慎処分に処されている。1819年1月29日に江戸築地で死去。享年66。
法号:慈雲院殿雪斎道知大居士。墓所:東京都台東区上野寛永寺(勧善院)。 現在、中野「蓮華寺」に墓所が移されている。
[編集] 文人大名
風雅を愛でた文人大名としては、雪斎の号でよく知られる。書は趙陶斎から唐様を学び、画は木村蒹葭堂を師とした。南蘋派の精緻な画風は大名の余技とは思えぬほど優れており、田能村竹田などは気韻生動があるとして絶賛している。花鳥画を得意とし、特に虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』は本草学的にも貴重な資料となっている。また文人画風の山水図も画いた。
藩士の十時梅厓や春木南湖は雪斎に文人としての力量を見込まれてスカウトされた。両名をそれぞれ長崎へ遊学させ、清人から画技を学ばせた。また幕臣の大岡雲峰や上條犀淵は雪斎の画業の弟子だったといわれる。
文人墨客との交わりを好み、その庇護者ともなった。酒造統制違反となり大坂を追われた木村蒹葭堂を自領に招き、窮地を救ったことは有名である。
その他に大田南畝、菊池五山、宋紫石、渡辺玄対、同じく文人大名で知られる福知山藩主朽木昌綱などと交流した。
[編集] 系譜
- 父:増山正贇
- 母:細川利恭の娘・美代姫(法輪院)
- 妻:正室は稲垣定計の娘・道姫(法園院)、継室は高須氏(麗容院)。
[編集] 兄弟
- 弟:増山正邦。
- 弟:白須政雍。
- 弟:小出英俊。
- 弟:増山正聴。
- 弟:松平定慮。
- 弟:松平定諡。
- 妹:千勢(高木貞威室)。
- 妹:菊(戸田氏紹正室のち酒井忠敬室)。
- 妹:定(増山正備正室)。
- 妹:富(佐藤信顕正室)。
- 妹:季支(白須正擁養女、都築安富室)。
[編集] 子女
2男3女。
[編集] 作品
[編集] 著作
- 『観奕記』享和3年 (囲碁について)
- 『松秀園亭舎記』寛政5年 (書画について)
- 『煎茶式』文化年刊 (煎茶道について)
[編集] 出典
- 山口泰弘『増山雪斎の中国趣味』『図録 江戸の風流才子 増山雪斎展』三重県立美術館、1993年。
- 中村真一郎著『木村蒹葭堂のサロン』 新潮社 、2000年、497 – 498頁、ISBN 4103155213 。
- 大槻幹郎『文人画家の譜』ぺりかん社、2001年、261 - 262頁、 ISBN 4831508985。
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最終更新 2008年9月27日 (土) 05:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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