夏侯尚

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夏侯 尚(かこう しょう、?-225年)は、後漢末期から三国時代武将。魏の宗族で、曹操夏侯淵にあたる。は伯仁。諡号は悼侯。

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[編集] 人物

計略・智謀に優れていた。若くして曹操に仕え、冀州平定に際して軍司馬として騎兵を率いて従った。その後、五官中郎将曹丕の文学となり、魏国成立時に黄門侍郎となった。曹操の死後、平陵亭侯に封じられ、中領軍となる。文帝即位後は郷侯に昇格、征南将軍・荊州刺史・仮節都督南方諸軍事となる。劉備軍の別働隊を奇襲することを提案し、徐晃とともに劉備軍の別働隊を撃破し、上庸・西城・房陵の三郡九県を魏の版図に収め、征南大将軍に昇進した。孫権が曹丕に臣従を申し込んで来た時、彼はこれを信用せず、に対する軍備を怠らなかった。こうした功績もあり、曹丕からの信頼は非常に厚かったが、杜襲のように「彼は人を益しない友人である」と評する者もいた。

222年に文帝が呉を攻めると、夏侯尚が諸軍を統括し、曹真と共に江陵を包囲して、呉軍の大将であった諸葛瑾と対峙した。長江の中州に陣取った呉軍に対し、夏侯尚は下流から夜襲をかけ、併せて敵の水軍を火攻し、大いにこれを破った。しかし、江陵城の陥落寸前、軍に疫病が流行したため、退却せざるを得なかった。帰国後、夏侯尚は軍功によって荊州刺史に昇進した。当時、荊州は漢水を挟んで呉と国境を接しており、異民族も多かったため、ほとんどの住民が江南へ逃げていたが、夏侯尚は上庸から新たに道路を通して開発を進め、軍を率いて西方を鎮撫した。このため、山岳や平地の異民族で降る者多く、僅かな年数で数千戸の住民が帰順した。224年、昌陵郷侯に改封される。

夏侯尚には愛妾がおり、正妻に目をかけなかった。正妻は宗室の出身であったため、不快に思った文帝は人をやって妾を殺させた。夏侯尚は悲嘆のあまり精神を病み、埋葬した愛妾を懐かしがって墓を掘り起こすことまでした。これを聞いた曹丕は腹を立てて「杜襲の言葉はもっともであった」と言ったが、やがては後悔して、元の通り夏侯尚を厚遇した。夏侯尚の病が篤くなると、たびたび見舞っては流涕したという。225年に死去し、息子の玄が跡を継いだ。

小説『三国志演義』では、黄忠と戦って敗れて捕らえられ、敵将の陳式との捕虜交換時で彼は背後に黄忠から射撃され背中に重傷を負う。また兄として夏侯徳が登場している。

[編集] 宗族

[編集] 妻妾

  • 徳陽郷主(曹真の妹)

[編集] 子女

[編集] 従弟

[編集]

  • 夏侯奉(弟の子)

[編集] 従孫

  • 夏侯本(弟の孫で、昌陵亭侯を継ぐ)

最終更新 2009年10月23日 (金) 08:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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