夕餉前
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| 夕餉前 | |
|---|---|
| ジャンル | テレビドラマ |
| 放送時間 | (15分) |
| 放送期間 | 1940年4月13日 |
| 放送国 | |
| 制作局 | 日本放送協会 |
| 演出 | 坂本朝一 川口劉二 |
| 出演者 | 原泉 野々村潔 関志保子 |
| 外部リンク | NHKテレビ番組の50年-HISTORY |
『夕餉前』(ゆうげまえ)は、1940年にNHKで実験放送として製作された、日本初のテレビドラマ。伊馬鵜平(のちの伊馬春部)脚本による15分ほどのホームドラマで、適齢期の娘の縁談を中心とした内容になっている。
同年4月13日と14日にNHK放送技術研究所のスタジオから生放送され、NHK東京放送会館や、現在のNHK放送博物館である愛宕山の常設テレビ観覧所にある受像機に送られた。さらに20日には、当時開催されていた「輝く技術博覧会」の会場である、上野の産業会館に設置された受像機にも送られ、一般に公開された。
目次 |
[編集] ドラマの解説
舞台となっているのは、父をすでに亡くし、母と息子と娘の3人で暮らしている母子家庭である。娘が縁談を経て嫁ぐこととなったある日、家族3人で食卓を囲んで、夕食の前にこれまでの生活を振り返る。実際に登場する人物はこの3人のみだが、途中で豆腐屋の声も入る。
作品の母子家庭という設定は後の単身家庭ドラマの原型となり[1][2]、家族で食事を行う場面はホームドラマの定番となった[3]。伊馬がこのような場面を作品に盛り込んだ理由としては、テレビドラマが聴衆に対して音声と画像を届けられる特性を生かし、「肉が焼けるジュウジュウなんて音も入り、おいしそうな湯気の立つ鍋、楽しそうな家族の表情」[4]を撮影することで「すき焼きのテーブルを囲んで、家族が食事をするなごやかなひととき」[4]を演出できると考えたことにある。
また作中には、息子が放送当日の新聞を見て、トップ記事の見出しを読む場面がある。これは、録画手段がなかった当時における、テレビの生放送が持つ共時性・同時性を表した演出である[2]。
[編集] キャスト・スタッフ
[編集] キャスト
- 母:原泉
- 篤(兄):野々村潔
- 貴美子(妹):関志保子
[編集] スタッフ
- 演出:坂本朝一、川口劉二
- 効果:吉田貢、菱刈高男
[編集] 製作の経緯
[編集] テレビドラマ製作への挑戦
NHKは1930年に、世田谷で放送技術研究所を設立し、1940年には、テレビ実験を成功させた高柳健次郎を招聘して実験放送を開始した。スタジオの設備の都合で、当初は職員がテニスをしている様子を実況放送する程度だったが、やがてスタッフの間でテレビドラマを制作しようとする流れが沸き起こり、その熱意が上層部を動かした[5]。後の毎日放送取締役となる川口をチーフとし、後のNHK会長となる坂本など、当時30歳前であった若手を中心としたスタッフが、製作に携わることになった。
川口はかねてから親交のあった伊馬に脚本を依頼した。これは伊馬と仲が良かったからというだけでなく、伊馬が当時人気のあったラジオドラマ『ほがらか日記』を手掛けていて、頻繁にNHKに出入りしていた事情もある。また、テレビドラマの制作が実験的な試みであったため、映画の脚本などの経験があって映像に馴れている伊部が適していると判断したことにもよる[4]。伊馬はこれを快諾し、1ヶ月近く費やして4月3日に脚本を脱稿した[4][6]。なお川口は、このテレビ用ドラマ台本を、シナリオに対して「テレリオ」と呼んだ[6]。
出演者については、演技を経験した者が向いていると判断した坂本が劇団員を打診したところ、報酬も安く衣装が自前であったため、相手にした俳優はあまりいなかった[5]。しかし、「新協劇団」の俳優だった原、野々村、関の3人が応じ、出演に至った。
[編集] 技術・演出における試行錯誤
当時のスタジオは130m²と狭く、セットも容易に組むことはできなかった。カメラの感度が悪いために10万ルクスほどに上げないと撮影できず、ズームレンズもないので、クローズアップを行う場合には1台のカメラがあらかじめ被写体に近寄らなければならなかった。そのような設備の中、技術面でも演出面でも試行錯誤を繰り返しながら撮影を行うことになった。
舞台で演奏者たちが乗る山台を2つ並べた上にゴザを敷いて部屋の模様にして、研究所の用務員室から調達した茶箪笥や長火鉢、壁の額などで簡単なセットが組まれた。カメラは、クローズアップ専用とロング専用の2台を用意した[7]が、カメラの焦点深度が浅いので、あらかじめ俳優やカメラを動かす位置を決めて、床に白墨で印をつけるなどの工夫を凝らした[5]。また、画面切り替えにおいても、1つの画面しか操作できないダイヤルを2つ同時に操作して真空管のバイアスを素早く切り替えるクロスフェード(ディゾルフ)という方法しかなかったために困難が生じ、演出の指示どおりにはうまくいかなかった[8]。しかしながら、この画面切り替えは画期的なことであり、高柳はこのことを喜んでいた[9]。
ライトは、3キロワットが4台と5キロワットが2台の計6台を使った[10]。しかし、照明があまりにも強烈で出演者の髪や衣装が焦げてしまうことから、芝居を行う時間も15分が限度とされ[7]、テスト中はパラソルを差し[7]、本番でも特定の出演者にライトを集中させないようにと指示が出た[5]。このようにして放送時間が15分と決められ、時間内に調理を行って食事をすることが不可能なため、当初予定されていた「すき焼きを食べる場面」の撮影は取り止めることになった[5]。
[編集] 製作後の反応・影響
本番6日前の4月8日からは稽古が[6]、12日からはリハーサルが行われた[11]。当日は、研究所の近くにある東宝の撮影所にいた、滝沢修や宇野重吉、信欣三などの新協劇団の人々や、徳永直、中野重治も興味を抱いて見学にやって来るほどであった[5][9]。
滞りなく放送は終わったが、「逓信大臣が放送会館に来訪したので再演して欲しい」と連絡を受けて再演することになった[12]。また、「紙芝居に毛の生えたドラマであった」[5]とドラマの出来栄えを分析する川口は、見学に来ていた滝沢や宇野についても「ごくお座なりに『まあしっかりやんなさいよ』と肩を叩いて帰っていった」[5]と証言している。
しかし、この挑戦がスタッフのテレビドラマに対する製作意欲を高めた。同年10月8日には、中村メイコや坂本猿冠者、荒木道子が出演する『謡と代用品』(演出:川口劉二、演出補助:永山弘、脚本:越重男)を製作し、第2作目のテレビドラマとして実験放送が行われた。こうして、テレビドラマの実験を含めたテレビ研究は、同年12月に太平洋戦争の勃発によって全面的に中止となるまで、熱心に行われることとなった。
[編集] 脚注
- ^ 『テレビ文化を育てた人びと』 17頁。
- ^ い ろ 『日本テレビドラマ史』 17頁。
- ^ 『放送80年 それはラジオからはじまった』 71頁。
- ^ い ろ は に 『テレビ文化を育てた人びと』 16頁。
- ^ い ろ は に ほ へ と ち 読売新聞夕刊、第6面 1982年4月3日付。
- ^ い ろ は 『日本テレビドラマ史』 13頁。
- ^ い ろ は 『テレビ創世記』 8頁。
- ^ 『テレビ博物史』 53頁。
- ^ い ろ 『日本テレビドラマ史』 14頁。
- ^ 『放送の20世紀-ラジオからテレビ、そして多メディアへ』 47頁。
- ^ 『テレビ文化を育てた人びと』 19頁。
- ^ 『テレビ創世記』 9頁。
[編集] 参考文献
- 読売新聞夕刊 1982年4月3日付。
- 白井隆二著 『テレビ創世記』(紀尾井書房、1983年。ISBN 9784765610322)
- 鳥山拡著 『日本テレビドラマ史』(映人社、1986年。ISBN 4871002136)
- 荒俣宏著 『テレビ博物史』(小学館、1997年。ISBN 409348001X)
- NHK放送文化研究所監修 『放送の20世紀-ラジオからテレビ、そして多メディアへ』(日本放送出版協会、2002年。ISBN 9784140072035)
- NHKサービスセンター編 『放送80年 それはラジオからはじまった』(NHKサービスセンター、2005年。ISBN 4871080641)
- 志賀信夫著 『テレビ文化を育てた人びと』(源流社、2007年。ISBN 9784773907049)
[編集] 外部リンク
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