多摩川スピードウェイ

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多摩川スピードウェイメインスタンド跡

多摩川スピードウェイ(たまがわスピードウェイ)は、かつて神奈川県川崎市中原区多摩川河川敷に存在した常設サーキット東急東横線東横線多摩川鉄橋北側付近に相当する。

目次

[編集] 概要

1936年開業。一周1,200m、幅20mのオーバルダートトラックコースに、多摩川の堤防土手を利用したメインスタンドを持つ構造となっていた。収容人数3万人という記録が残るが、メインスタンドの収容人数は数千人程度の規模であり、コースの周囲に何重にも観客が重なった際の数字と考えられている。

[編集] レースの記録

1936年6月7日には第1回全国自動車競走大会が開催され、日産自動車など戦前から自動車の工業的生産を行っていた大企業も参加したが、優勝したのは無名の町工場、オオタ自動車工業が手作業で組み上げた「オオタ号」であった。このレースには、後に本田技研工業を創設する本田宗一郎も自製の「浜松号」で参戦したが、事故によりリタイアしている。なお、当日、スタンドからレースを観戦していた日産社長、鮎川義介は敗北に激怒、社員に号令をかけ3ヶ月後の第2回大会に雪辱を期したという話も伝わる。やがて日中戦争の戦局悪化に伴い、自動車レース自体が縮小し、1937年5月16日を最後に、ついに自動車レースは行われなくなった。

オートバイのレースは、第二次世界大戦開戦後も草レースが開催されていたものの、やがては終了を余儀なくされたが、戦争が終了しガソリンが市中に出回るようになると、ほどなくオートバイのレースが行われるようになった。その後も草レースの会場としてしばらくの間使用され続けたが、レース場として廃止された時期は不明である。

[編集] 公営競技場建設計画

戦後、この場所を公営競技場として使用する計画が持ち上がり、1949年にはオートレースの創設を目指して結成された日本小型自動車振興会の主催により、戦後初の『全日本モーター・サイクル選手権』が開催されている。しかし当時既に競輪が創設されていたため、競輪場を建設する方向で神奈川県などの自治体が動きを見せていたが、河川敷における水害の心配や、地理的に近隣他場との競合が懸念されたことから、結局この話が実現することはなかった。

[編集] 現在の跡地

跡地の中央には日本ハム球団多摩川グランド(グランド自体は現在も存在)が造成されたが、メインスタンドは多摩川の土手にコンクリートで直接造られたこともあり、現在も護岸のような形で座席の跡や階段が現存する。トラックは最後まで舗装されずダートであったため、現在もコーナーの様子などが野球グランドの敷地の隙間などで線形を伺うことができる。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年9月30日 (水) 14:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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