多賀城
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多賀城(たがじょう、たがのき)は、日本の律令時代に、陸奥国に設置された城である。現在の宮城県多賀城市に位置し、国府・鎮守府などに使われた。国の特別史跡に指定されている。
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[編集] 概要
奈良の畿内政権が、「蝦夷」(エミシ)と呼び異民族視していた東国住人を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。
多賀城創建以前は、郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。
創建は724年(神亀元年)、大野東人が築城したとされる。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。
これにより当時の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城をおくこととなった。
多賀城政庁に隣接し、陸奥国内100社を合祀する「陸奥総社宮」を奉ずる。陸奥国一ノ宮鹽竈神社を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竈湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市(のちに多賀国府(たがのこう)と呼ばれる)が築かれ、砂押川の河川交通と奥大道の陸上交通が交差する土地として長く繁栄した。
建武新政期と南北朝時代初期、多賀城には陸奥将軍府が置かれた。奥州将軍府は多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将、伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転した。
[編集] 歴史・沿革
- 724年(神亀元年)創建。陸奥国府が郡山遺跡(現在の仙台市太白区)より北進移転。なお、文献上の出現は『日本後紀』の839年(承和6年)の記事である。
- 762年(天平宝字6年) 藤原恵美朝狩によって修繕されている。
- 780年(宝亀11年) 伊治呰麻呂の乱で一時焼失した後に再建された事が書かれている。
- 802年(延暦21年) 坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられる。
- 869年(貞観11年) 陸奥国で大地震が起こり、多賀城でも多くの施設が被害を受けた。この後復興していったが十世紀後半頃には維持、管理されなくなり、多賀城は次第に崩壊していった。
- 中世の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、1097年(承徳元年)にも陸奥国府が焼失している。南北朝時代には、後醍醐天皇の建武の新政において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城へ赴き、多賀城に東北地方、および北関東を支配する東北地方の新政府、陸奥将軍府が誕生した。
近年では、曲水宴遺構が出土し、その編年の再検討も含めて注目されている。現在は特別史跡に指定され、政庁跡や城碑、復元された塀などが残されている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(7番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
[編集] 現地情報
[編集] 所在地
- 宮城県多賀城市市川字城前ほか
- (政庁跡)北緯38度18分23.5秒東経140度59分18.5秒
[編集] 交通アクセス
- 政庁跡へは、JR東北本線・国府多賀城駅より徒歩約10分。
- (予定)遺跡群の西側にある宮城県道35号泉塩釜線(都市計画道路玉川岩切線)と三陸自動車道との交差部に(仮称)多賀城ICが設置予定[1][2][3]。
[編集] 周辺の文化施設・観光名所
東北歴史博物館には出土物の多くが収蔵されている。
- 多賀城碑
- 多賀城神社
- 末の松山
- 鹽竈神社
- 沖の石
- 野田の玉川
- おもわくの橋
- アラハバキ神社
- 杜の都信用金庫「モリリン加瀬沼公園」
[編集] 脚注
- ^ 多賀城市都市計画マスタープラン「第4章 地域別構想」(多賀城市)
- ^ 多賀城インターチェンジ予定地の利用について(多賀城市)
- ^ 泉塩釜バイパスあす開通 仙台―多賀城の利便性良く(河北新報 2009年4月21日)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 多賀城市観光協会
- 東北歴史博物館
- 多賀城史跡めぐり(多賀城跡解説/周辺敷地図)
- 国指定文化財等データベース
- 多賀城市埋蔵文化財調査センター
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