大口屋暁雨

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大口屋暁雨(おおぐちや ぎょうう)は十八大通の筆頭といわれた江戸時代の通人。本名は大口屋治兵衛(じへえ)で家業は札差。暁雨は号で後に暁翁と号す。生没年不詳。

札差株仲間享保9年 (1724年) に結成された当時から営業している起立人の1人である。天王町組に属して43年間営業し、のち廃業している[1]

目次

[編集] 大通としての逸話

自ら通人の筆頭をもって任じる暁雨は、芝居の『助六』そっくりの風態をして吉原に遊び悦に入っていた。

小袖小口の紋付を着流し、鮫鞘の一腰に印籠一つ、下駄を履いて吉原大門を入ると、仲之町両側の茶屋の女房が出てきて、暁翁の着る小袖の大黒の紋を見れば、「そりやこそ福神様の御出」と、わやわや騒いだ故、いつしかこの姿を「今助六」というようになったという。

暁雨が吉原通いの際に着た大黒紋を色さしにした紋付は、二代目市川團十郎が助六を演じたとき、杏葉牡丹を色さしにしたのを真似たのである。

二代目團十郎が70歳を越えて『男文字曽我物語』の名題で、中村座で三度目の助六を一世一代として演じたとき、下桟敷の西半分は大口屋暁翁が、東半分は小田原町の魚問屋で同じく十八大通の一人・鯉屋恋藤が買い取った。

怪力で有名であり年齢を重ねた後も、着ていた小袖に米糠がかかった事に怒って米を搗いていた男の首筋を掴んで臼に押し込み杵で打ち殺そうとした、町内でけんかをして暴れていた鳶職の男を手先を取ってねじ上げ簡単にねじ伏せてしまった等の逸話が残っている(後者の話は、けんかの原因が金を貸した貸さぬという事だと聞いて、男の手に金を握らせてからねじ上げたのだという)。

[編集] 濡衣

彼が吉原通いの際にいつも差料としていた脇差は、相当な業物であったという。

ある初夏の晩、吉原土手を歩いていると、一人の乞食坊主に会った。この坊主が「早く死にとうござり升」と言うので、好物だという饅頭を蒸籠一荷分買って若い者に運ばせ、2~30個食べさせた後、この世に長く生きても好みの饅頭を思うままに食う事もできなかろう、死にたければその命俺が貰うと言い、手を合せ首を差し出す坊主を一刀のもとに「水もたまらず衣の上より袈裟がけに」斬り捨ててしまったという。

これにちなんで、この名刀を「濡衣」と名付けたというのである。ここにも、名刀友切丸をさがす助六と自分をなぞらえようという意識があるようにみえる。

ただし、一介の町人にすぎない暁雨が、人を斬り殺して何の咎めも無いとは考えられず、この逸話はどこまでが実話でどこからが創作であるのか不明である。

[編集] 晩年

一代の豪遊を誇った大口屋暁雨も、明和4年11月(1767年12月)、伊勢屋太兵衛に札差の株を譲り廃業。晩年は落魄し、厩河岸で間口二間の侘しい住いのうちに死亡したと伝えられる。

台東区の了源寺という浄土宗の寺に大口屋暁雨の墓といわれる碑が残っている。ただし、墓碑に刻まれた死亡年月日は「享保十五年庚戌十二月八日」(1731年1月15日)となっており、この墓が実際に大口屋暁雨のものであるかどうかは疑問視されている。

[編集] 侠客春雨傘

この大口屋暁雨を芝居の主人公にした歌舞伎の演目に福地桜痴作の『侠客春雨傘』(おとこだて はるさめがさ)がある。明治30年 (1897年) 4月、歌舞伎座において、九代目市川團十郎によって初演された。初め小説『侠客春雨傘』(きょうかく はるさめがさ)として春陽堂書店から発行したが、好評を博したので自ら脚色して歌舞伎化した。演劇改良運動の先鋒を自負する福地は、この作品を町人の武士に対する反抗と封建社会の階級制度に対する批判とした書いたといわれるが、その実は江戸歌舞伎の伝説的存在だった大口屋暁雨を九代目たっての願いで英雄譚に仕立て上げたものに他ならなかった。初演では九代目の暁雨と七代目市川八百蔵の釣鐘庄兵衛が絶讃を博し、興行は日延に日延を重ね、未曾有の大入となった。またこのとき暁雨(團十郎)の差した渋蛇の目が評判となり巷に大流行した。

この九代目の暁雨はその高弟七代目松本幸四郎に継承され、今日『侠客春雨傘』は高麗屋の襲名披露興行では必ず上演されるお家芸の一つとなっている。

[編集] 参考文献


[編集] 脚注

  1. ^ 『江戸の高利貸 旗本・御家人と札差』の巻末「江戸札差一覧」によると、片町 六番組となっている。

最終更新 2009年8月7日 (金) 12:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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