大和型戦艦

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大和型戦艦

宿毛湾沖標柱間にて公試中の大和
1941年10月30日撮影
艦級概観
艦種 戦艦
艦名 旧国名
前型 長門型戦艦
次型 -
同型艦 大和武蔵信濃(空母に改装)、111号艦
竣工 1941年12月16日(大和)
1942年8月5日(武蔵)
1944年11月19日(信濃)
開戦後建造中止、解体(111号艦)
沈没 1945年4月7日(大和)
1944年10月24日(武蔵)
1944年11月29日(信濃)
性能諸元(計画値)
排水量 基準:64,000t
公試:68,200t
満載:71,100t
全長 263.0m(279.0mとも)
全幅 38.9m
平均喫水 10.4m(公試状態)
主缶 ロ号艦本専焼式12基
主機 艦本式タービン4基4軸150,000馬力
速力 27.0ノット(約50km/h)
航続距離 16ノット(29km/h)で7,200(13370km)
乗員 約2,500名
兵装 45口径46cm3連装砲 3基
60口径15.5cm3連装砲 4基
40口径12.7cm連装高角砲 6基
25mm3連装機銃 8基
13mm連装機銃 2基
カタパルト 2基
零式水上偵察機零式水上観測機他、最大7機
(数値はいずれも竣工時)
装甲 舷側 410mm
甲鈑 230mm
主砲防盾 650mm
(数値はいずれも最大)

大和型戦艦(やまとがたせんかん)は、大日本帝国海軍(以下海軍)が建造した戦艦の艦型。海軍が建造した最後の戦艦である。戦艦としては、排水量と搭載主砲口径は現在に至るも世界最大である。

目次

[編集] 概要

ワシントン海軍軍縮条約明けに際し、艦艇数で勝る米英を質で凌ぐため、第三次海軍軍備補充計画の際に建艦技術の粋を集めて建造された。当時欧米諸国はワシントン海軍軍縮条約で規定された35,000t前後の戦艦を建造していたが、これらを凌駕する46cm砲を装備した結果、基準排水量は64,000tとなり、世界最大の戦艦として建造された。大艦巨砲主義の最高傑作といわれている。日本海軍は戦艦に対し日本の旧国名を命名していたが、「大和」とは奈良県の旧国名(大和)というばかりでなく、「日本」を象徴する意味合いもあったと思われる。同様の命名として建造当初世界最大の戦艦だった扶桑山城(長く都の置かれた京都府の旧国名)がある。 一番艦大和及び二番艦武蔵が大戦中に就役している。

史上最大の威容を誇りつつも悲劇的な最期を迎えたゆえか、数々の媒体(映画、漫画、アニメや、プラモデルなど)で幅広い年代によく知られている。今でこそ戦艦大和は日本国民に最も知られる軍艦と言っても過言ではないが、太平洋戦争中はその存在自体が最高軍事機密とされたこともあり(海軍関係者には、名前だけはいつの間にか広まっていた)、当時の国民には長門型戦艦長門陸奥が海軍の象徴として親しまれていた[1]

[編集] 主要諸元

[編集] 艦体形状

大和型戦艦の艦型の母体となったのはYourkevitch船型である。艦型試験を繰り返しこれを軍令部の要求した戦艦向きに仕立て上げる事で大和型の艦体が計画された。

大和型と他の船舶や建造物との比較。一番上からフリーダム・オブ・ザ・シーズエンタープライズヒンデンブルク号大和エンパイアステートビルノック・ネヴィス、バックに描かれた5角形はペンタゴンである。
球状艦首
日本戦艦では初めて球状艦首(バルバス・バウ)を採用した。これは、船体が水を押しのける時の波と球状艦首が作った波が相互干渉して、造波抵抗を減衰させる効果を持つ。これを採用した事で、有効馬力で速力27ノット時で8.2%程度の抵抗を減らし、排水量換算で約300t、水線長で3m艦体を短くする効果を得た。これは、軸馬力に換算すると11,000馬力出力が大きい機関を搭載したのと同じ効果をもたらした。さらに、シャフトブラケットの船体取付角度、ビルジキールの船体取付位置と角度を検討した結果、バルバス・バウの効果と併せて15,820馬力の節約となった。これは排水量に換算すると1,900トンの節約となり、大型駆逐艦1隻の排水量に匹敵した。
同時期に設計された翔鶴型航空母艦のものと大きさがかなり異なるが、これは翔鶴型が34ノット、大和型が27ノットにおいて造波抵抗が最小になるよう最適化されているためである。
なお、球状艦首の艦底には、潜水艦対策で水中ソナーが設けられていた。これは30個の水中マイクを長径約4m、短径約3mの長円形に配列したもので、その中には海水が満たされていた。性能としては、大和が全力航行中に主砲射撃試験を行った際に、30,000 - 40,000mで砲弾が水面に衝突した時の音を探知できたという。ただし、艦内各部から発生する騒音により、聞き取りにくくなることも多く、特に主砲塔回転時の水圧機の騒音は妨げになったと言われている。また、この水中聴音機装備により、水線下の艦首部よりの艦底部が「蛇が蛙を飲み込んだような形状」となったことで、最高速力が0.3ノット程度低下したとされている。
主副舵の構成
通常の2枚舵は並行に設置されているが、これでは戦艦ビスマルクのように魚雷1本を被雷しても操舵不能に陥る可能性がある。これを避けるため、当初は舵の1枚を艦首に装備する案(実験結果は不良)もあったが、結局艦の中心線上に前後に15mの間隔を開けて主舵と副舵を設置した(金剛型などでも並列2枚舵の前例はある)。なお、舵形状は英巡洋戦艦フッドに極似していた。
両舵を同時に使用した成績は良好であった。しかし、副舵だけだと一応旋回は可能だが、大和型の惰力は予想以上に大きく、当舵が全く利かないので艦を直進に戻すことができず、操艦は不能であった。艦首部に引き込み式の平衡舵を追加装備する対応策が考えられたが、戦局悪化のため工事はされなかった。海軍技術研究所造船研究部は戦艦用ダブルスケグの研究も行なっていたが大和型には装備されなかった。
運動性能
艦船の基本的な操縦性能は次の3つの観点から評価されることが多い。
  1. 追従性:操舵に対する船の回頭の容易さ(タイムラグと考えてよい)
  2. 旋回性:定常旋回の円運動が小さい円を描き早く旋回するか
  3. 針路安定性:少しの間当て舵をとらなくても舵中央のままで船が直進する「すわりの良い船」か
大和型戦艦は肥大船型のため旋回性は列強の戦艦中最良の部類に属するが、舵に関する研究が十分でなかった為、追従性に関しては最低レベルであり、肥大船型故に針路安定性も本質的には良い方ではない。「大和型はずんぐりした船体からは想像もつかないほど良好な運動性能を発揮した」というのは専らこの旋回性について述べられた物である。海軍では旋回性能の標準を「旋回直径÷艦の水線長」で現している。この数値には縦と横で若干の違いがあり、横の旋回性能標準は戦艦3、大型巡洋艦4、軽巡洋艦5、駆逐艦6、縦で戦艦3、大型巡洋艦3.5、軽巡洋艦4、駆逐艦4.5とされていた。大和型の旋回性能は、横で2.43、縦で2.23と優れたものだった(一般に、同一排水量の場合、細長い船体のほうが旋回性能は悪化するとされている)。
また、旋回半径自体も他の戦艦より優れていた。大和型の旋回直径は26ノットで横640m、縦589m(横2.43、縦2.23)である。長門型戦艦は横530m、縦631m(横2.36、縦2.81)、金剛型戦艦は横826m、縦871m(横3.7、縦3.91)だから、船体の大きさを考えるなら、非常にコンパクトな旋回性能を持っていた。さらに、旋回時の船体の傾きも大和型9度、長門型10.5度、金剛型11.5度であり、安定性も優れていた(他国戦艦の旋回圏はノースカロライナ級526m (2.36)、キング・ジョージ5世級850m (3.74))(但しどの速力での旋回圏かは不明。速力が大きくなれば比例して旋回半径は大きくなる)。
回避運動中の大和を上空からとらえた写真をみると、周囲の海面が盛り上がっているのが分かる。巨艦の小回りの効きの良さを裏付ける写真である。マリアナ沖海戦レイテ沖海戦呉軍港空襲で大和は米軍機の投下する魚雷、爆弾の多くをかわす事に成功している。
一方で追従性に関しては転舵後に艦首が振れ出すまでの時間が非常に長く、90秒を要した。また回頭すると速力は急激に落ちる。公試では12ノットで転舵を命令しても艦首が動き始めるまでに約40秒が必要であり、急降下爆撃機や潜水艦魚雷の回避には1分前から転舵する必要があると問題視された。艦型は簡単に変えられない以上、舵の性能に頼るしかないが、舵面積は排水量に比較して相対的に小さく、牧野茂は面積の増大を行わなかった事を悔いている。針路安定性については不明。なお、上記の3要素に港湾などでの取扱い易いさを示した低速での操縦性能や停止性能などの要素を加えて艦船の運動性能は評価される。
最上甲板
最上甲板を真横から見ると、第1主砲塔前を底とするなだらかな波型をしているのが見てとれる(いわゆる「大和坂」)。これは艦上構造物で最も重量のある砲塔の位置を下げ、艦首部に大きなシア(甲板の反り)をつけることで、艦の重心降下と良好な凌波性という相反する性質を上手く両立させるためである。また高い乾舷は予備浮力を多く保持する事に役立った。信濃、111号艦では凌波性を重視してこの反りは緩い物に設計が変えられた。
復元性
友鶴事件第四艦隊事件の教訓を反映して設計された大和型は復元性、凌波性共に優れていた。スラミングが多発する波長や大抵の荒波の波長より全長が長い事もあり、強風や荒波での戦闘は特に有利だったと思われる。
檣楼(艦橋)
従来の日本戦艦と異なり塔型(パゴダ・マスト)となった。この塔は13階建てで、中心に三菱製の3人乗り(又は1人乗りなどの説があるが、終戦時に図面が焼却処分されていることもあり、関係者の証言のみで詳細は不明である)エレベーターが通っている。エレベーターは上級士官のみ利用できたが、例外として艦橋横の機銃座(13ミリとも25ミリとも言われている)の銃弾運搬員は利用を許された。檣楼上部が第一艦橋、檣楼下部に操舵室と隣接して第二艦橋(夜戦艦橋)。屋上部分には航空機からの攻撃に備えて艦の全周が見える防空指揮所(露天)を設けている。なお、大和型では閉鎖式の筒となっているが、ドイツ海軍ではグラーフ・シュペーの戦訓[2]から、一般に戦闘艦橋を開放式となし、シェーアなどでは改装もしているが、同時期のアメリカ新造戦艦もすべて閉鎖式である。檣楼の最上部分には、主砲用の15.5メートル測距儀が設置された。

[編集] 主砲

45口径46cm3連装砲塔を艦橋の前に2基、後ろに1基の計3基9門搭載。詳細は後述

[編集] 副砲

配置
60口径15.5cm3連装砲塔を、2番主砲塔後方及び3番主砲塔前方と左右両舷に1基ずつ、計4基12門を装備していた。12門の内、9門を片舷に指向できる配置となっていた。
戦局が航空戦に傾倒するに及んでレイテ沖海戦直前に左右両舷の2・3番副砲塔が撤去され、大和は12.7cm連装高角砲6基に換装された。武蔵は高角砲の搭載工事がレイテ沖海戦までに間に合わず、25mm3連装機銃6基が追加されたと言うのが通説になっている(噴進砲が搭載されたなど、異説もある)。大和型の艤装改良は幾度も行われているが、最も外観が変化したのはこの左右副砲の撤去前と撤去後といえる。
性能
最上型軽巡洋艦重巡洋艦に改装された際に撤去された主砲の砲身を再利用し、砲塔は新造している。性能が向上した駆逐艦に対処するために、近代戦艦としてはリシュリュー級ヴィットリオ・ヴェネト級ビスマルク級と並び、最大級の口径であった。
当初、戦艦の副砲であるため、その最大仰角は30度にすることとなっていたが、対空射撃を可能とするために、最上型と同じ55度までを可能とした。これに伴い、建造中に射撃装置の改正を行っている。
ただし、大和型戦艦に搭載した15.5cm砲は、仰角75度/毎分7発の発砲(最上型では仰角55度/毎分5発)が可能だったという説も見られる。この15.5cm砲は対空射撃を念頭に置いたもので、最大仰角75度/射撃速度毎分7発で設計されていたからである。これは、当初の砲塔構造図に高角弾用揚弾機が見えることからも、確かである。なお最上型新造時には、砲塔の重量軽減が求められた結果、対空用揚弾筒の装備が取りやめられており、簡易両用砲となっていた。こうしたことから新造時には対空用砲弾も準備されていなかったが、1939年度(昭和14年度)の演習以降、平射砲でも対空射撃を行うこととなり、吹雪型駆逐艦での演習結果から、対空用砲弾として零式通常弾三式通常弾が開発された。
この15.5cm砲の最上型での実績は「斉発時でも斉射時と同程度に散布界が狭く、射撃指揮も容易だが、内部が狭く、斉発時の射撃維持速度が8インチ砲以下に落ちることがあった。また、機構が脆弱で故障しやすかった」と評価されている。大和型戦艦への搭載時にこうした問題を解消したという可能性はあり、大和型副砲は搭載時に対空見張り用として使用できるよう、砲塔容積を増して、対空揚弾筒や信管秒時調定機の装備、砲塔測距儀の改修が行われていたという説も見られる。実際、レイテ沖海戦後の戦闘詳報で他艦で見られる「砲塔測距儀(もしくは観測窓)の最大見張り可能仰角が足りないため、対空射撃に不適」という指摘は、大和型副砲には見られない。
実際、大和から降ろした副砲は、呉市の南方、阿賀町冠崎の丘上にB-29迎撃用の高角砲として設置された(最上型の試作砲塔との説もある)。この砲は呉市大空襲時に、市内の高射方位盤射撃指揮装置が破壊されたため、発砲せずに終戦を迎えているが、この際には最大仰角75度が可能だったとされ、75度で発砲した場合、最大射高18,000mに達したとされている。また他にも、この15.5cm砲は陸上砲台として多数が単装砲に改装され、中には最大仰角60 - 70度の高角砲台とされたものもあった。
上記のように対空射撃も可能であり、レイテ沖海戦では、副砲は主砲と共に高角砲の射程外にある敵機編隊に対する長距離対空戦闘用として使用された。1944年(昭和19年)10月24日の対空戦闘では、武蔵の副砲は203発もの対空射撃を行っており、これは同じ日に大和が行った高角砲射撃の頻度を上回るものであった(武蔵の副砲が1門辺り33.8発(203発/6門)、大和の高角砲が1門辺り32.6発(784発/24門)。同海戦で行われた大和型戦艦副砲の対空射撃は、武蔵が上記の通り203発、大和が383発(異説あり)の計586発にも及んでおり、レイテ沖海戦後には対空用砲弾として用いられる零式通常弾の搭載定数が50発から100発に増加されている。
また俯仰・旋回速度にも優れていたため、編隊を分離して攻撃態勢に入った敵航空機に追従できた。このことから、近距離で副砲を対空射撃に使用した結果、その爆風により特設機銃に被害を与えた形跡もある(最上型軽巡時代でも、背負式の2番砲塔を仰角12度以下で発砲すると、1番砲塔内部が破損するので発砲が禁止されているほどの爆圧があった)。海戦後の戦訓報告でも、25ミリ単装機銃について「主砲副砲の爆風もあって、装備可能な位置が少ない」とされている。こうしたことから、当時の武蔵搭乗員の回想では「主砲発砲の爆圧で目の前が真っ赤になり」という証言が見られるが、その時実際に発砲していたのは副砲だった可能性もある。

[編集] 対空兵装

大和型の対空兵装は、最終時においては証拠となる資料が発見されていない。終戦時、大和型に関する資料がほぼ全て焼却されたことによりこのような問題が起きた。大和に関しては、1945年(昭和20年)4月5日に停泊中の姿を米軍偵察機から上空撮影した写真が21世紀初頭に発見され、その解析結果によっては最終時の対空装備が確定する可能性がある。

高角砲
1944年(昭和19年)に対空兵装強化が各艦艇に実行されたが、この時、大和型戦艦に対しては副砲全てを撤去し、代わりに12.7cm連装高角砲を合計40基(80門)とする案が研究された。しかし、兵器の準備が不可能なことから、両舷の副砲のみを取り去って高角砲6基12門を増強することになった(このさいに爆風避け楯の準備が間に合わず、大和では搭載高角砲の爆風楯を増設高角砲に移している)。しかし、武蔵はこれすらも間に合わなかった。
副砲撤去の部分に、大和は12.7cm高角砲を両舷に各3基計6基増設したことが明らかとなっているが、武蔵に関しては工事が間に合わなかったという説が多い。しかし、その代わりに25mm機銃を載せたという説や、多連装噴進砲を載せたという説、何も載せなかったという説等があり今の所確定はしていない。
性能面では、八九式12.7cm高角砲は旋回速度・俯仰速度に時間を要する上に、射撃速度があまり速くなかった。カタログ上では最大毎分14発を発射可能であり(20発発砲したという例も報告されている)、1933年(昭和8年)の『砲術年報』でも「訓練すれば毎分12発で撃てる非常によい砲」と評価されているが、雷撃機の撃退を主眼とした長距離対空砲として設計されたこともあり、最大射撃速度を発揮できるのは仰角30度の状態で、仰角がそれ以上でもそれ以下でも射撃速度は低下した。1939年(昭和14年)に実施された対空演習の実績でも、本砲は1分間に7、8発発射できればよい方であり、信管調定機の誤差が大きいことも問題とされていた。実際に大和の戦訓報告では、砲の射程や威力に不満はないものの「砲が重すぎるため、高速機への対応が不十分」であり「できれば一〇高(秋月型駆逐艦で採用した長10cm高角砲)程度のものを両舷2群ほど増設してほしい」と要望されている。
搭載機銃
大和最終時には13mm機銃を艦橋両舷に配備していたという説や、単装機銃を配備していたという説があるものの、門数や配置は不明である。今のところ、写真解析により判明した「25mm3連装機銃52基(156門)、同単装機銃6基(6門)、13mm連装機銃2基(4門)」というものが有力視されている。
機銃群指揮用の機銃射撃指揮装置に関しても、増設されたのは確実だが、数や位置は不明である。
性能面では、25mm機銃については旋回・俯仰が比較的容易で、3連装型でも高速目標の機動に追随して射撃できたとされている。レイテ沖海戦や沖縄戦での戦訓報告でも「敵機に多数の命中弾を与えた」と記載されているが、その一方で「有効射程が 1,500 - 3,000m程度と短く、射撃速度もやや遅いこと」また「小口径のため、敵機に命中した場合の実害が少ないこと(撃たれた側の米軍は高く評価している)」を問題視されている。
3・4番艦
大和型3番艦信濃、4番艦111号艦に関しては、高角砲に長10cm高角砲を搭載する予定だったとする説は多い。但し、空母として竣工した信濃には、砲の生産能力や予算面から回航時に八九式12.7cm連装高角砲が搭載されていたと言われている。ただし、信濃の高角砲は搭載されていなかったとの説もあり、信濃の対空装備の詳細も不明である。

[編集] 航空兵装

大和型は日本戦艦で唯一、建造時より航空機搭載が考慮された艦型である。

搭載機は弾着観測用の零式水上観測機(零観)及び索敵用の零式水上偵察機(零式三座水偵)で、搭載可能機数は計6機(一説には格納庫に5機+露天繋止2機の計7機)とされている。これらは、主砲発砲時の爆風対策のため、全機が艦内に格納できた。6機もしくは7機とされるのは、搭載機材の違いが影響としていると考えられる(機材のサイズとしては、搭載機が零式観測機のみなら、格納庫内に6機、カタパルト上に2機の8機が搭載できる)。しかし、機材調達や用法の問題により大和、武蔵共に定数を載せたことはなかった(レイテ沖海戦では2機搭載していた)。

発艦の為に呉二号五型カタパルトが艦尾両舷に1基ずつ、計2基設けられていて、揚収用の大型ジブクレーンも艦尾に1基搭載している。このクレーンは、使用加重6トン、最大使用半径20メートル、旋回角度300度、巻き上げ速度(6トン時)15メートル/分の性能を有しており、飛行機の揚収以外にも、物資の積み込み、通船の揚収に使用された。

大和型戦艦の当初計画であるA140では、艦の後部に搭載機格納庫が描かれ、そこには主翼を後方に折りたたんだ6機の航空機が存在する。この航空機は、1930年(昭和5年)の『所要航空機種及性能標準』に「偵察兼攻撃機」として記載されている、水陸互換の艦上攻撃機を水上化した三座水偵(後の九四式水上偵察機)と考えられる。当時、後の零式水上観測機のような複座の専用観測機は試作発注もされていないことから、大和型戦艦の原案では、三座水偵6機搭載を予定していたことは、ほぼ確実である。実際に建造が開始された1937年(昭和12年)には、前年の『航空機種及性能標準』を反映して、搭載機は十試観測機(後の零式水上観測機)に変更されている。

主力艦(戦艦)搭載の水上観測機と平行して、急降下爆撃も可能な十二試二座水上偵察機の開発が指示された。また1937年(昭和12年)3月25日に行われた十二試二座水上偵察機と十二試三座水上偵察機の計画要求審議によれば、水上観測機と二座水上偵察機の機種統合を前提に十二試二座水上偵察機6機を大和型戦艦に搭載できないか、という問答が行われている。ここでは、大和型戦艦の格納庫は(機体の折りたたみサイズが小さい)九四式水上偵察機6機を想定しており、収納庫入口の大きさを大きくすると、爆風の圧力に対する強度の保持が困難なことから、5機までしか搭載できない、という結論が出ている。つまり、大和型戦艦の航空艤装は、九四式水上偵察機、及び零式水上観測機の搭載を基準に計画され、十二試二座水上偵察機搭載を予定して小改修を施したものである。なお、十二試二座水偵は要求性能を満たすことが出来なかった。水上爆撃機と偵察機の統合は、後の瑞雲において実現する。

実際に搭載された零式水上観測機は、九五式水上偵察機と同程度の折りたたみ寸法を得られるため、このような問題は起こっていない。ただし零式水上偵察機については、三座であることなどから、機体の折りたたみサイズが大きく、大和型戦艦格納庫への搭載はあまり適していなかったとされている。なお、竣工後の大和に最初に搭載された機材は九五式水上偵察機である。これは第二一航空廠あてに「一号艦用に、至急九五式水上偵察機を2機、12月10日までに組み立てるように」という内容の電文と、その返信が残っているからである(この九五水偵はカタパルトの試験に使われたと考えられる)。また制限一杯に水上機を搭載した事はなく、対空兵装が強化された後はそれらの乗員の居住区に一部格納庫が充てられた。またトラックに赴く際には格納庫に物資を満載して倉庫として使用された。

建造中止となった3番艦信濃以降の新戦艦は、瑞雲とその後継機を搭載する予定であった。また、航空本部は1944年(昭和19年)10月に大和型戦艦への瑞雲20機搭載を計画したことがあるが、捷号作戦の開始と、それに伴う武蔵の喪失などにより実行されなかった。

[編集] 防御

集中防御
大和型戦艦は史上最大の戦艦だが、技術的洗練度が高いため、世界最大の主砲と防御力を持つわりには小さく作られた艦とされ、技術者もそれを誇りとしていた。
軽量化のため、バイタルパート(主要防御区画)を最小化するという集中防御方式で設計されている。これはアメリカのサウスダコタ級やフランスのダンケルク級と同じ設計思想で、横から見たシルエットは前者に、内部構造は後者に似ている。これにより主要防御区画は全長の53%に抑制され、防御の冗長化を回避している。主要防御区画の防御力は、砲戦距離2万 - 3万mで自身の46cm砲に耐え得るものとされた。
なお米国のアイオワ級モンタナ級(未成)、英国のヴァンガードなどは推進軸4軸のうち内側と外側の各2軸に対応する機関室とタービンを各々前後に分離するシフト配置を採用し、大被害を受けた時にも航海能力を失わないように配慮されている。そのため少し間を置いた直立二本煙突を有し、その周囲に艦上構造物が積み上げられており、視認性、被弾率、小型軽量化という点では一歩譲る(シフト配置はその性質上、艦の全長が長くなりやすい)。アイオワ級に至ってはエンジンルームだけで全長の1/2を超える長さとなっており、コンパクト化を優先しなければならなかった大和型では無理な話であった。
またマレー沖海戦プリンス・オブ・ウェールズのように内側推進軸にダメージを負った場合、長大な推進軸にそって大量の浸水が発生する事もあるため、この両者の構想のどちらが優位であるかは、議論が分かれる。なお、大和型に関して言えば、推進軸4軸をそれぞれ独立した4組の缶・機械で駆動しており、さらに缶・機械はすべて独立した区画に設置されている。この構造から、防御上シフト配置に対して全く不利はないとも指摘されている。現在の原子力空母でもシフト配置は採用されていない。
実際に武蔵は魚雷20本、急降下爆弾10発以上を受けても、中央の2つの機械室には浸水は無くコロン湾への退避行動を行えた(運転できたのは1軸のみ。第二機械室は蒸気管破損のため、機械室に人間が入れない状態になった。残る第三機械室は沈没直前に浸水拡大のために停止)。大和型戦艦の沈没原因となった多数の被雷に対しては、如何なる防御方式を採用しようと、沈没は避けられなかったが、航行能力を末期まで残したのは、4列にした機関配置と集中防御によるところが大きい。
なお航空攻撃で大和型戦艦が沈んだことから、「大和型は集中防御方式のため、無防御区画が長く、航空攻撃に適応しない防御構造だった」という説がある。しかし、「広く、薄く」防御された独巡洋戦艦シャルンホルストは、英駆逐艦による魚雷1本の命中で右舷軸と中央軸の2軸が停止し、大きな浸水を起こしている。爆弾に対しても、同艦は1,000ポンド (454kg) 航空爆弾の命中で主水平装甲を貫通され、主要防御区画内を破壊された実例がある(ビスマルクも同一構造。事実として分散配置を採用した同艦は集中防御を採用した他国戦艦より約7,000トン重いにも関わらず、各部の装甲厚は薄い)。こうした戦例が示すように、大和型戦艦が分散防御方式を採用していたなら、航空爆弾や魚雷の多数命中に対し、より早く戦闘・航行能力を喪失していたものと考えられる。ただし、分散防御とした場合(主要部貫通で爆沈しなければ)、非防御区画への浸水速度が低下する可能性があるため「無力化されてから、沈没するまで」の時間が長くなった可能性はある。
また装甲配置とは別に、水防隔壁をより細分化したり、浮力増大のための工夫を行うべきだったという論者も見られる。実際、建造時に、水密鋼管やスポンジを艦首部艦尾部の倉庫に充填することが、大和艤装員長より進言されたが、採用されなかった(これを行った場合、艦政本部は防御重量が増加するため、速力が低下するとしている)。また、予算と資材についても、不足していたため、実施は困難であったとされている。後の信濃では、バルジの一部分にコンクリートを充填したが、これは軽量な空母だから出来た処置かもしれない。
水密区画数は長門型戦艦の1,089区画に対し1,147区画と、排水量の増加の割に区画数は増えていないが、これは長門型においては大改装時にダメージコントロールの思想が取り入れられたのに対して、本型は設計時点から検討されたためである。また主要防御区画も最小限にまとめられ、そこだけで必要浮力が確保できた。主要防御区画以外がすべて破壊、浸水しても、なお艦舷が水面上を保つということである。
水平防御
上記のように、大和型の主要防御区画は200 - 230mmという史上最も厚いMNC甲鉄で守られていた。この区画は航空爆弾に対し、以下のような防御力を備えていた。「2トン爆弾なら高度2,200m以下」「1.5トン爆弾なら高度2,600m以下」「1トン爆弾なら高度3,400m以下」「800キロ爆弾なら高度3,900m以下」。上記の投下爆弾に対しては、充分な防御力を発揮するとされていた。また、主要防御区画外の最上甲板にも、35 - 50mmの装甲が施されており、50mmの部分では200キロ爆弾による急降下爆撃に耐えるとされていた。
水中防御
日本海軍は水中弾の効果を重視しており、これに対応するため、大和型戦艦では水面下に至るまで装甲板を伸ばした(既存戦艦も改装時に設置している)。水線下装甲の設置は第一次世界大戦後に建造された米英仏の戦艦と同様である。つまり、本型で語られることが多い「日本海軍のみが水中弾効果を知っていた」は誤りである。
なお1943年(昭和18年)12月20日に大和に潜水艦魚雷1本が命中した際、衝撃で舷側装甲取付部分が緩み、数百トンという予想外の大量浸水被害を受けた。直後の原因調査で舷側装甲板の継手構造に設計上の問題があると判明した。大和に関しては補強工事が行われたが、武蔵に関しては行われなかったと思われる(諸説ある)。
戦後、米国調査団は大和型の分析を試みたが、この点に関しては「大和型のアキレス腱」と評している(米国のサウスダコタ級戦艦が大和型とほぼ同一構造であり、問題とされた。アイオワ級戦艦で改正されたものの、不十分とされ、未成となったモンタナ級戦艦ではノースカロライナ級戦艦類似の構造に戻す予定となっていた)[3]
しかし、大和型戦艦の防御力要求である「魚雷2、3本の命中を受けても、必要な応急処置の後に戦列を維持できるもの」という防御力要求は、ほぼ満たされていた。レイテ沖海戦において、武蔵が戦線離脱を命令されるまでに受けた魚雷は5、6本であり、想定より多かった。大和も沖縄特攻時に、左舷前部、中部、後部への航空魚雷3本の命中を受け、左舷に8度傾いたが、右舷タンクに3,000トンの注水で復元している。この後、左舷に2本の命中魚雷を受け、傾斜15度になるものの、速力はまだ18ノットを維持していた。
ただし、大和型戦艦の水中防御区画の横幅自体は約5.2mと、米新型戦艦と比較しても決して広くはない。伊勢型戦艦・長門型戦艦でも約9m、テネシー級戦艦でも改装後は7m取っていることを考えると、水中防御では余裕が少ない設計と見ることもできる。
これは搭載機関を4列に並列設置していることが原因であった。ただし、4列の並列配置は「内側の機関室はきわめて破壊されにくい」という利点があった。魚雷19本以上を受けた武蔵においても、機関が停止したのは魚雷の命中から数時間経過して以降で、他区画からの間接的浸水によるものであった。大和においても、片舷の機関室は傾斜復旧のために注水、反対側外側の機関室は魚雷によって浸水したが、その内側の機械室は、転覆時にもまだスクリューは回っていたという証言もある。また5.2mの水中防御区画には、他艦には無い50 - 200mmのNVNC甲鉄の厚みの装甲板が艦底まで延びて設置されており、外側の機関室やボイラー室も魚雷の直撃を受けても、一発では浸水に至らなかったケースもあり、他の艦と比較して決して脆弱とは言えない。
又、大和型戦艦は喫水線上より喫水線下の方が防水(水密)区画の数が少なくなっており、結果、水中防御能力は長門型戦艦と同等(長門型では、喫水線下の方が多くなっている)であったという説も存在する。
予備浮力
長門型戦艦(改装後)の予備浮力は29,292トンで、排水量の67.6%だったのに対し、大和型戦艦の予備浮力は57,450トンで、基準排水量64,000トンの90%にも及ぶものだった。
大和型の艦体は多数の水密区画に区切られ、その一部に浸水しても浮力を失わないようになっていた。また、自動注水装置が搭載されており、魚雷などの攻撃を受け艦に浸水があった場合、対舷側にある注水タンクに浸水したのと同じ量の海水を注水し傾斜を防ぐようになっていた。また燃料の移動によっても、傾斜を修正することが出来た。
しかし、大戦末期に大和が沖縄に向け出撃した時は、アメリカ軍が武蔵攻撃の経験から大和への魚雷攻撃を片舷に集中させたため、反対側の注水タンクが満杯になってしまい傾斜、その後横転して沈没に至った。なお米海軍技術調査団の報告では、命中魚雷数は左舷8本(+不確実3本)、右舷2本とされているが、日本側士官の証言に偏ったため、米軍攻撃記録にある左舷前部への命中魚雷が記録されていないなど、命中数には食い違いがある。
装甲
大和型戦艦の船体は、舷側上部は410mmのVH甲鉄、舷側下部は50 - 200mmのNVNC甲鉄、甲板は200 - 230mmのMNC甲鉄で覆われていた。また砲塔前楯及びバーベット部は650mmのVH甲鉄(ただし大和型砲塔用の装甲に関与した、佐佐川清元技術大佐は560mmと証言)、天蓋は270mmである。これは全ての軍艦の中で、最も強固な直接防御である。
VH甲鉄は長門型まで用いられてきたクルップ式浸炭(炭和)甲鉄 (KC) にかわって採用されたもので、炭素ではなく窒素を使って甲鉄の表面を硬化させている。浸炭甲鉄より撃力に対して優れているとされ、ヴィッカース式硬化甲鉄の頭文字をとってVHと呼ばれる。なお、VH甲鉄の意味はKCに対して生産性が向上していることにある。
集合煙突の採用
前述の小型化成功の一因には、煙突を傾斜させて一本にまとめた集合煙突の採用がある。もっとも、集合煙突は排煙能力が低いため、日本と仏海軍以外はあまり採用されなかった(強制排煙装置を設置すれば補うこともできたが、大和型には強制排煙装置は設置されていない)。
煙路防御
蜂の巣状に180ミリ(諸説あり)の穴をあけた厚さ380ミリの蜂の巣装甲板を煙突内部、装甲甲板の高さに設置することで煙路防御を行った。煙路防御自体は長門型戦艦の世代から行われており、従来型の戦艦でも煙突内部に断片防御格子を設置することで、爆弾は防御されていたが、戦艦主砲弾に対応した蜂の巣装甲の採用は世界初であった。
煙突自体にも、根本部分の一部に50ミリCNCの防御が施されていた。これは米ネバダ級戦艦の343ミリ装甲などに対して厚いとは言えなかった(煙突基部は上甲板の低い位置にあるため、武蔵の事例のように沈没の際に傾斜で浸水が最上甲板に達したさいに、穴が空いた煙突基部から機関部に浸水する危険性があったが、そもそも浸水が最上甲板に達するというのは沈没状態なので意味を成さない。こうした危険性や航空機の機銃弾が煙路に入ることを防止する装甲であるため、ここを薄くしたことを批判する論者もいる)。
機関配置
各ボイラーが1基ずつ防水区画を持つという、他に例をみない贅沢な配置をしている。これは一つの罐が損害を被っても、他の罐に損害をあたえないために1基1室としたためである。タービン自体は、昭和6年度(1931年)計画の初春型駆逐艦に搭載された、艦本式高低圧タービン(1軸当り21,000馬力)を、長期信頼性向上のため約90%にディレーティング(derating, 定格下げ)し、1軸に3組としたものである。これを4軸組み合わせて、12缶搭載で合計150,000馬力としていた。もし出力制限をしていなければ、168,000馬力となるが、これは大和型の過負荷全力時出力とほぼ一致している。
なお翔鶴型航空母艦と同じボイラーなので、搭載缶数の多い大和型(翔鶴型8缶、大和型12缶)は240,000馬力が可能だったという説が見られるが、大和と翔鶴の主缶はバーナー力量、燃室容積、蒸発伝熱面積、過熱伝熱面積、重量が異なるため、これは誤りである。
ただし、大和型戦艦の缶室は9.5×7.1mが6室、9.5×7.2mが6室、翔鶴型空母の缶室は10.08×7.4mと、大きさにおいて大差ない。実際、重量当り出力において、大和型が200 (shp/t)、翔鶴型が364 (shp/t)と、後者の重量効率が大きく上回る。こうした観点から、大和型の機関計画は保守的に過ぎたという評価が為されることが多い。
なお、仮に大和型の主缶とタービンを翔鶴型と同じものにして、翔鶴の8缶に対して12缶搭載したとしても、240,000馬力とはならない。戦艦の搭載機関は水平装甲が設置されているため、問題が起こったさいの交換が困難という観点から、空母や巡洋艦と同じ条件設定での使用はあり得ないのである。蒼龍型航空母艦や最上型軽巡洋艦の152,000馬力機関は、金剛型戦艦搭載時に出力90%として、136,000馬力で使用している。240,000馬力が可能なボイラーを搭載したとしても、前記と同条件とすれば、216,000馬力となるはずである。
大和型の機関については、当初ディーゼル機関のみという計画案も見られたが(A-140 B2のディーゼル14万馬力)、概ねディーゼル/タービン併用艦として計画された。航続力に対する燃料経済の問題として、併用が望ましいとされていたからである。しかし、剣埼型潜水母艦などに試験的に搭載されたディーゼル機関が、不完全燃焼や異常振動のために度々問題を起こすなど信頼性が低かった。最終的に「国運を左右する重大な艦に何かの間違いがあってはならない。機関トラブルで機関換装のため長期間ドック入りするようでは困る」という意見もあり、低圧設定の蒸気タービンとして、信頼性を重視した[4]
過剰航続力による船体大型化
完成した大和型は、基準速力公試の結果から、満載燃料6,300トン(英トン。日本で多く使われるメートルトンでは6,401トン)の状態では16ノットで11,000浬以上の航続力を持つと計算された(19.2ノットで8,221浬、全速27ノットでは2,956浬というデータもある)。
大和型戦艦の機関は、公試基準速力15.91ノットの状態で毎時重油消費量7.71トンの性能を有している。満載重油庫量は前述の通り6,300.14トンだが、庫内の燃料全てを使うことは構造上できないため、実際に使える燃料は算定標準重油庫量で定められた、5,985.133トンである。この5,985.133トンを毎時重油消費量7.71トンで割った、航続可能時間は776.2時間。これに公試基準速力15.91ノットをかけた航続力は12,350浬となる。これが16ノットで11,000浬以上という数値の内訳である。
つまり、設計上求められた16ノットで7,200浬の航続力を満たすには、4,200トンの搭載燃料で充分ということが判明したのである(事実なら沖縄特攻時の大和は4,000トンの燃料を搭載していたため、ほぼ“満載”だったということになる)。これは、万が一航続力に不足が生じては大問題という判断から、艦艇基本設計責任者である福田技術大佐の知らぬところで、機関設計者の首脳陣が「余裕」を持たせた結果であった。この結果、艦が必要以上に大きくなった。過剰な航続力については、これを予備浮力とする対応が取られ、燃料搭載量の減少が図られている。
ダメージコントロール
大和型には被弾時に於ける浸水や対応として、注排水区画の多さが挙げられるがこれは集中防御式にした結果である。そういった非防御区画に区画を設けて文字通りの不沈艦という形にしようとしていた。
一方で艦内被弾や、爆弾投下に於ける被弾の復旧や消火に関しては、泡状の消化剤の噴射や、各種消火水に、防火防壁に加え、強制注排水により、弾薬庫の引火を抑えるシステムは設けていたが、肝心の被弾時に於ける艦内出火に関する対応では、列強に劣る部分が多く見受けられる。
アメリカの戦艦類と比べた場合、アメリカ戦艦はスプリンクラーや消化剤と隔壁の他に、不燃化ガスを多数送り込んで、延焼を防いでいたが、開戦当時の日本艦船にはそういった技術的余裕が無く、ミッドウェー海戦に於ける4空母の損失でも、日本艦船の構造的な問題点が見受けられ、それ以降、日本の軍艦には可燃物が艦内には持ち込まれず、可燃性の塗料も使われなくなった。ただしミッドウェー海戦後に建造された空母の格納庫には不燃化ガスによる消火装置が設置された。 
一般に日本艦船のダメージコントロールは列強海軍に比べて劣っていると言われるのも、被弾時に於ける損傷を食い止める技術に関して積極的に取り組もうとしなかったといわれる。沖縄特攻時の大和の後部副砲付近被弾による出火、炎上が最後まで止まらなかったのも、こういった部分と無関係ではないとされる。
なお、武蔵の事例では、水平装甲板上で炸裂した航空爆弾による爆風が、通気孔を通じてタービン室に突入し、蒸気管が破損した。このため、内側の1つの機械室内が高温となって使用不能となっている。武蔵に限らず、搭載機関は通気孔がなければ回せないため、これはやむを得ない被害ではあったが、主要防御区画内に被害が及んだのは事実であり、問題視する論者もいる。実際、ミッドウェー海戦における空母でも、同様の機関被害が発生したため、既存艦艇に複数の通気孔を設けることが検討されたが、これは実施困難とされている。ただしアメリカ軍においても、沖縄で特攻機の攻撃を受けた空母において、同様のことが発生し、推進力を一時的に損失した事例があり、原子力推進艦船で無い限り同様のリスクから逃れることは出来ないと考えるのが妥当である。

[編集] その他

  • 建造費は当時の国家予算の3%に及ぶ1隻あたり1億3780万円。現在の価値で東海道新幹線の建設金額にほぼ等しいとされる、あたご型護衛艦二隻分とも言われる。
  • 当時の一般的艦艇とは違い、木甲板には台湾檜が使用された。しかし、天一号作戦前には対空偽装のため黒色に塗られた。
  • 大和型は用兵思想や燃料問題から、主要な戦闘に参加せず、泊地に留まることが多かった。日本軍艦としては居住性が高かったため、「大和ホテル」や「武蔵御殿(又は武蔵屋旅館)」と皮肉られることもあった。実際、弾薬庫用冷却機の利用により士官用居住区には冷暖房設備(エアコン)が完備しており、冷蔵庫東京芝浦電気製)の装備により、備蓄食糧も多彩かつ豊富だった(アイスクリーム製造室があったことも確認されている)。そして連合艦隊旗艦だったこともあり、厨房には料亭レストランなどで働いていた人間を優先的に配属している。居住設備についても、他艦より兵員一人あたりの居住面積が広く、また他艦の乗員が使用する寝具は主に釣床(ハンモック)だったのに対し、大和型は兵卒に至るまで寝台(ベッド)を使用していた。ただし海軍士官の教育課程として釣床の展開や収納も必須であったため、士官候補生のみは釣床使用であったし、毎朝毎晩、釣床作業は行われた。
  • 艦内に消火用炭酸ガスを利用したラムネ製造設備があった。ただし、大和型のみというわけではなく、巡洋艦以上の大型艦には搭載されている。
  • 大和型に設置されたトイレは洋式であった。当時洋式便所は珍しくまた、それまでの艦は和式であったため用の足し方を間違える乗員が多発した。
  • その他、生活区には大型の洗濯機が備わっており、専門の担当員(実際に洗濯屋をやっていた人を海軍が雇っていた)が洗濯を行っていた。
  • 大和型の設計図面は戦後に艦政本部の庭で焼却された。現存する図面は米軍によって集められた設計者が引きなおした概略図や、工員が個人的に保管していた原本の写しが主体である。風呂、トイレの位置などは現在も不明であるが、これは他の日本艦艇でも同様であり、殆ど残っていない。

[編集] 46cm砲

大和型の46cm砲弾(通常弾)。模造品であり、外観が実物と全く異なる。靖国神社にて展示。

大和型最大の特徴と言える46cm砲は、海軍の要求や海外の情報から様々な案が検討された。

[編集] 搭載の経緯

ワシントン海軍軍縮条約で日本戦艦の保有数が対米英比6割に抑えられたため、日本海軍は46cm砲搭載戦艦を建造を搭載し、質的対抗を図った。この46cm砲はそれまで最大の戦艦主砲だった41cm砲を凌駕する、世界最大の主砲であった。しかし、機密保持のため「九四式四〇センチ(サンチ)砲」と呼称した。

[編集] 特徴

[編集] 射程

大和型戦艦が搭載した46cm45口径砲の最大射程は42,026mで、米国の同世代戦艦ノースカロライナ級サウスダコタ級の搭載する40.6cm45口径砲 Mk.6の射程距離33,740m、40.6cm50口径砲 Mk.7を搭載したアイオワ級の射程距離38,720m、英国のキング・ジョージ5世級が搭載した35.6cm45口径砲の射程距離37,100mなどを上回っていた。ただし、後述するアウトレンジ射撃の項目に書かれている通り、実質的な射程距離では大差なかった。46cm砲弾は初速780m/秒 (2,808km/h) で発射され、距離20,000m(仰角12.43度、落角16.31度)では522m/秒、30,000m(仰角23.12度、落角31.21度)では475m/秒(時速1,710km/h。音速の1.4倍)で命中した。主砲を最大仰角45度で発砲した場合、弾丸の高度は距離25km付近で11,900mに達した。砲塔の旋回速度は毎秒2度(3度説もある)、砲の俯仰速度は毎秒10度(8度説もある)とされている。なお、凌波性向上のために、艦首に強いシアーを付けたため、1番砲塔は前方射撃(正面より左右へ各30度)では、仰角5度以下での発砲が行えなかった。

46cm砲に対応した防御を備えた戦艦は他国に存在しないため、通常の戦闘距離で発射された砲弾が命中したなら、いかなる敵戦艦の防御をも貫通し得た。なお、日本海軍は46cm砲命中時の廃艦所要弾数について、大型巡洋艦で4ないし5発、戦艦で9 - 16発と考えていた。

世界最強の艦載砲といわれる46cm砲だが、サマール沖海戦後の戦闘詳報によれば、それまでは「平素1門あたり4ないし5発の教練射撃でも、故障が絶無なることは希なるを常とする」という状態であった。同詳報はサマール沖海戦について「今回は海戦期間中、一度の小故障も起こさずに使用できた」と記載していることから、信頼性に問題があると認識されていた。しかし、戦艦クラスの大口径砲では諸外国でも同様に故障が発生しているので、これをもって重大な欠陥とするのは誤りである。

[編集] 発射速度

46cm主砲の装填速度は29.5 - 30.5秒とされている。つまり最大仰角45度で発砲した場合は、装填角度の3度から45度に砲身を上げるのに4.2秒、下ろすのにも4.2秒かかるため、次弾発射までに単純合計で37.9 - 38.9秒を要する(これが通説における発射速度40秒/発である)。これが想定戦闘距離である30,000mであれば、砲身の俯仰にかかる時間が減るため、34 - 35秒程度(通説による発射速度1.8発/分である)、20,000mであれば32 - 33秒/発程度で発射可能と考えられる。しかし、遠距離射撃においては着弾観測における修正必要度が高いため、この速度で砲撃を行うわけではない。

大和型戦艦の装填速度29.5 - 30.5秒/発は、ビスマルク級戦艦の26秒/発(仰角4度。ただし、装填角度は2.5度)や米新型戦艦のマニュアルにある30秒/発と大差ない。とはいえ、米戦艦ノースカロライナは訓練により、マニュアルの半分である15秒/発を実戦で記録している(ナウル島への艦砲射撃のケース。だが人身事故の発生もあり、瞬発信管装着の際には特に「安全上の見地から、発射時間を遵守」の旨の指示が砲術長より出されてもいる。また機構的には長門型戦艦も16秒/発で装填することは可能)。こうしたことからも、発射速度は訓練度や戦況で左右される可能性のあるものであり、目安でしかない。

現実に、実戦において各国戦艦はカタログ上最速速度ではなく、1分/発程度で砲撃を行っていることが多い。つまり、通説で語られる「米国のアイオワ級戦艦の射撃速度が30秒/発(下記)とされているので、40秒/発の大和型戦艦よりも手数で有利」のように、単純に論じられるものではないが、大戦中にそれだけ使用できなかった事も事実である。

Firing cycle at +3° elevation[5]

  1. Open breech : 2.0-2.5sec
  2. Move shell loading bogie forward : 3sec
  3. Ram shell : 3sec
  4. Withdraw rammer + return bogie : 5sec
  5. Moving vharge cylinder + rammer load position : 3sec
  6. Ram charge : 3sec
  7. Withdraw rammer : 3sec
  8. Return charge cylinder + rammer : 3sec
  9. Close breech : 2sec
  10. Recoil and run-out : 2.5-3sec

Total : 29.5-30.5sec

Elevating speed max : 8°/sec
Training speed max : 2°/sec

[編集] 砲弾

大和型戦艦を含む当時の日本戦艦・巡洋艦は、対艦用として九一式徹甲弾およびその改良型である一式徹甲弾を、対空用(および対地・対軽装甲艦船用)として零式通常弾および三式通常弾を搭載していた。46cm砲の場合、砲弾全長は九一式が約2m、三式弾が1.6m。砲弾重量は九一式および零式弾が1,460kg、三式弾が1,360kgであった。1門の搭載定数は当初100発、1砲塔300発が考えられたが、実際の設計では1門あたり120発+訓練用砲弾6発に変更された。

九一式徹甲弾は水中弾道を考慮して開発された物だが、実戦での水中弾発生確率は通常弾と大差なかった。また弾体強度の不足から、砲弾径の9割以上の厚みがある表面硬化装甲に対し、撃角25度以上で命中した場合に破砕されてしまうという問題があり、大和型戦艦では被帽の取り付け方法を是正している。

一式徹甲弾では、上記の被帽取り付け方法の改善に加え、弾頭部への染料充填を行ったとされている。このほかに弾体強度を強化したという説もあるが、定かではない。また染料の充填は、一式徹甲弾以前の砲弾でも広く行われていた。

零式通常弾は榴弾、三式通常弾は榴散弾である。信管はいずれも調停秒時を0秒(瞬発)から55秒まで可変で設定可能な零式時限信管を使用した。炸裂時の危害半径は零式弾の方が大きく、どちらがより有功かについては当時の資料でも意見が分かれている。零式・三式通常弾とも、制式採用は1944年(昭和19年)であったが、1942年(昭和17年)中期以降から、限定的に実戦使用されていた。

大和の主砲弾は、日本各地に数は少ないが保存されており、実物をみることも出来る。しかし靖国神社に展示されているものは模造品であり、実物と全く異なる概観のものが”大和の主砲弾”として展示されているので注意が必要である。

[編集] 照準機構

日本光學製の、艦載用としては世界最大の15.5m測距儀を、艦橋頂上、各主砲塔と合計4基搭載し、これにより得られた敵艦の情報を九八式射撃盤(歯車式計算機)に入力して照準をつけていた。艦橋・砲塔双方の15.5m測距儀で測定し、その平均値を求めることもあった。装備位置の関係から、戦闘時の測距は概ね艦橋装備のもので行われた。双方の速度、距離、方角、地球の自転速度、風速、気温、湿度、装填される火薬量などの数値が機械的な計算機に入力され、最終的な砲身の方向と角度が決定された。なお予備として後部艦橋に10m測距儀も1基設置されていた。艦橋トップの測距儀が破壊されても、主砲塔か後部艦橋の測距儀で射撃を続けられた。なお、搭載した九八式射撃盤は射程距離40,000m、敵艦速力40ノット、自艦速力35ノットまで対応していた。ただし、地球の自転に対応する関係から、作戦海面を北緯55度、南緯20度以内(サハリンの北端からニューカレドニア島まで)として調整されていた。

射撃盤は衝撃に弱く、勿論衝撃対策を施してあったにも拘らず実際レイテ沖海戦で武蔵の前檣楼トップの主砲指揮所の射撃盤は魚雷命中の衝撃により旋回不能になっており、レイテ沖で武蔵と運命を共にした艦長猪口敏平少将の遺書にも耐衝撃性を上げるよう改善する必要があると記されている。武蔵においては故障した後は、各砲塔及び後部測距儀で測距作業をし射撃を行ったが、仮に戦艦同士の砲戦があった場合の被弾の衝撃に対しての脆さを覗かせる一面を示してしまっている。しかし大和においては、沖縄戦では沈没間際まで稼動状態は良好であったことが報告されている。

[編集] 搭載レーダー

大和型が電探レーダー)を搭載したのは、1942年(昭和17年)7月に大和が二号一型電波探信儀(二一号電探)を搭載したのが最初である(武蔵は新造時から装備)。この電探は陸上用の対空見張り用電探である一号一型電波探信儀(一一号電探)を艦載用としたもので、1941年5月から開発が開始され、1942年5月に戦艦伊勢に仮装備された。この際には単機の艦上攻撃機を55kmで、姉妹艦の日向を20kmで探知でき、制式兵器として採用された。1942年7月に大和に搭載されたものは、対水上射撃兼用の性能試験のために仮装備されたものであった。しかし超短波レーダーのため海面クラッター(海面による乱反射ノイズ)が強く、対空見張り用として使用された。この電探の量産1号機は、9月に武蔵に搭載された。性能は波長150cm、出力5kW、重量840kgで、航空機編隊を100km、単機を70kmで探知する能力を持っていた。しかし、1トン近い重量や15mに達するアンテナのため、大型艦艇にしか装備できず、しかもすぐ故障したことから、性能が大差なく、軽量小型の一号三型電波探信儀(一三号電探、後述)がより重宝された。もちろん真空管で構成されたものであるが、初期のものは試作品の域を脱しておらず、主砲発射の爆風で破損したり、15メートル測距儀に精度面で劣っていた(有視界の状態で)。

また対水上見張り用として、10センチ波を用いた艦載マイクロ波レーダー、二号二型電波探信儀(二二号電探)を1943年7月、大和に搭載した(武蔵も同年中に搭載)。これも二一号電探と同じく、水上見張り兼水上射撃の性能試験のためであったが、受信機の作動が不安定であり、空中線の切替装置も不完全であったため、整備が先送りされた。

この電探は超短波レーダーほどの出力を得られないため、航空機探知は困難であったが、海面クラッターが弱いため、艦艇発見に適していた。1942年5月に戦艦日向に装備され、戦艦を35kmで探知できたが、航空機を探知できず、動作が不安定なために不採用になった。しかし、ミッドウェー海戦時に霧中で味方艦艇を発見でき、小型艦艇の哨戒用電探の要望があったこと、また今後の電探はセンチ波に移行するという判断から、開発が続行された。結果、アンテナをラッパ型に改良し、送受信機は別置きとして小型化したものが制式採用された。

二二号電探は1944年3月に、オートダイン式受信機と故障対策として変圧器を加えた「改四」が完成し、ようやく実用兵器の域に達した。さらに同年7月にスーパーヘテロダイン式受信機が完成し、自己検査装置内蔵の性能向上型が登場した。この型に指示装置を付加すれば、対水上射撃用電探の代用として使用できるとして、急遽捷号作戦に間に合わせるべく、南方泊地で諸艦艇に搭載された。二二号電探の性能は、波長10cm、出力2kW、重量1,320kg、戦艦を35km、駆逐艦を17km、潜水艦の潜望鏡を5kmで発見する能力を持っていた。当初、測距精度500m/測角3度の精度だったが、南方泊地で装備された二号二型改3受信機改付では、測距精度100m、測角精度0.5度と性能向上し、遠距離での光学測距儀の精度を上回ることから(大和以外の日本戦艦が装備した10m測距儀は、最大誤差1,200m、公誤450m)光学測距儀と併用の上で、対水上射撃にも使用された。

レイテ沖海戦までは「電探射撃は、距離測定はともかく、方位角測定が当てにならないので、難しい」とされていた。だが、サマール沖海戦後の戦闘詳報では、航空機、もしくは味方水上艦艇の観測補助があるという前提の上で、大和の電測射撃について「主砲の電測射撃は距離20キロ程度にあった目標(護衛空母または駆逐艦)に対して実施、精度良好(方位誤差3度以内)で射撃手段として有効と認められる」との戦訓が出されている。同海戦に参加し、電測射撃を行った戦艦金剛の戦闘詳報では「煙幕内にいる目標に対しても、電探により距離測距を行うとともに、我が方と異なる敵の砲口煙を眼鏡観測すれば、有効な砲戦は可能」とした上で、「敵巡洋艦の電探射撃精度は我が方と大差なく、敵の電探恐るるに足らず、近日中に我が方が精度面でも優位にならん」と強気の所見を出している。

とはいえ、対空見張り用電探である二一号、一三号電探の性能は、米海軍が1938年に試作した対空レーダーXAFと大差ないかやや劣る程度である。また水上射撃用レーダーでは、米海軍が1942年に実用化していたMk.3の精度で測距精度40ヤード (36.6m) であり、二二号改3受信機改付を上回っていた。日本海軍は本格的な水上射撃用電探として三二号電探を開発したが、測距精度500mと二二号改3受信機改付よりも低水準であり、実用化の段階に達していなかった。なお1943年には製造開始していた新型のMk.8は、Mk.3より性能が向上しており、測距精度15ヤード (13.7m) となっていた。ただし、砲の散布界など別の要因もあるため、単純に測距精度の高さ=命中率の高さではなく、実戦でも米艦が異常な高命中率を出したわけではない(後述)。米海軍は大戦中にMk.8の後継機であるMk.13も実用化しており、測定器の性能という面では日本側は水を開けられていた。

なお、サマール沖海戦において大和は煙幕越しに電測射撃を行っている(主砲射撃手の村田兵曹長の手記に記載あり)。しかし、村田においても大和においても、初のレーダー単独測距の射撃であり、戦果の確認方法が無かったため、数回の砲撃で攻撃を中止している。砲弾が至近距離に落下したという米側の記載もあり、精度はある程度出ていたという説もある。ただし、上記からもわかる通り、日本の大型水上艦艇の電探射撃は「光学観測及び友軍の補助観測と併用」して運用され、レーダー単独測距での射撃は試行錯誤の域であり、米海軍のMk.8及びMk.13の水準には到達していなかった(なおMk.3は煙幕越し射撃を行う性能を持たない)。

さらに大和型は、対空見張り用として1944年初頭に一号三型電波探信儀(一三号電探)2基を後檣部に設置した。この電探は構成部品を小型にし、分解すればリヤカーでも運べる程度に小型化したのが特徴で、陸上用として開発された。しかし八木・宇田アンテナの採用と、2m波のため信頼性が高く、コンパクトだったため、艦載用としても採用され、1943年秋から駆逐艦に搭載されはじめた。性能は波長200cm、出力10kW、最大有効距離は航空機編隊100 - 120km、単機50 - 60km、測距精度2 - 3km(諸説ある)、測角10度、重量110kgであった。

しかしながら、レーダー単体ではアメリカ軍と日本軍との間に性能差があったのは否定できないが、エンガノ岬沖海戦でも米海軍は駆逐艦初月1隻を撃沈するのに、2時間の時間と1,200発の砲弾を必要としており、サマール沖海戦と比較して命中率が優れているとは言い難い。戦艦山城扶桑霧島の事例でも、一方的に砲撃できるような状況であっても、砲撃のみでは沈没に至らしめることが出来ず、最終的に至近距離からの魚雷によって沈没に至っている。したがって米軍のレーダー射撃が非常に高精度であると実証されているわけではない。しかし、レーダー搭載の遅れが、近代戦を重視していなかった日本軍を象徴しているのも否めない。

[編集] 冷却設備

大和型はその巨砲相応に巨大な弾庫、火薬庫を持つため、その冷却用に大出力の冷却機を搭載していたが、この余力を使用して弾薬庫冷却のための冷蔵庫[6]や艦内空調設備を動かしている。

[編集] 主砲配置

主砲配置に対して、さまざまな案が検討された。大別すると

  • 前方集中配置
  • 連装主砲による前後配置
  • 3連装主砲の前後配置

の3種類である。

前方集中は装甲を集中配置できるため、重量的に有利と考えられた。しかし、実際に検討して見ると分散配置と大差なかった。現実に集中配置を採用したネルソン級戦艦では、前方に重量物が集中したことにより、極端に操縦性が悪化し、艦隊所属のタンカーであるネルソル、ロドルの名前で揶揄されるほどであった。また、ネルソン級では発砲の爆風により、後方射撃時に艦橋など上部構造物にダメージが及んだとの報告があり、主砲射界の問題点もあるため、集中配置は採用されなかった。とはいえ、集中配置を採用したダンケルク級戦艦リシュリュー級戦艦利根型重巡洋艦では操艦性や爆風の問題は指摘されておらず、現実に採用された場合、どうなったのかは不明である。なお、連装砲塔は重量バランスに優れていたが、1門ごとの必要重量が3連装砲に劣っていたために採用されず、最終的に3連装3基9門となった。

大和型の主砲は、散布界対策(3門同時に撃つと中央砲の弾が両側の弾から空力抵抗を受けて弾道がぶれる)のため、2門発砲した後、やや置いて1門が撃つ機構となっている[7]

[編集] 主砲口径

口径という言葉には砲身の内径と砲身の長さ(口径長)の二つの意味があるが、ここではその両方について触れる。

計画時には一挙に20インチ(内径50.8センチ。日本海軍は端数を揃えるので51センチ)砲を採用しようという動きもあったが、砲身材料製造上必要な鋼塊(インゴット)の製造技術に難があった。当時確実に製造できる鋼塊は、160トン程度であったが、46センチ50口径砲の場合で170トン、51センチ50口径砲だと240トンの鋼塊が必要となるのである。当時の世界記録でさえ、1931年に米国ミッドベール社が記録した200トンであり、艦政本部第一部としては極めて困難として、46センチ45口径砲となった(とはいえ、日本は大和型の舷側装甲用として200トン鋼塊を製造・量産している)。40cm砲(恐らくは長門型と同じ41cm砲)搭載案もあったが、46cm砲搭載に決まったのはパナマ運河が影響を与えている(後述)。

搭載砲を45口径砲(砲身の長さが内径の45倍)とするか50口径砲(同50倍)とするかでも議論がされている。

一般的には、砲身を長くするほど砲弾の初速は大きくなり射程や貫通力が増す。ただしこれは近距離戦闘の場合であり、射程が増すにつれて砲弾の速度は空気抵抗によって減少する。また長距離砲戦の場合は砲弾の軌跡は放物線を描くため、上昇から下降に転じた砲弾は重力によって逆に加速し、砲弾の重量が大きいほど加速は大きくなる[8]。また落下角度が大きいほど加速も大きくなる[9]。長砲身砲は初速が大きいため近距離砲戦時の装甲貫通力は大きいが、遠距離砲戦では落下角度が小さくなるため逆に装甲貫通力は小さくなる。そして大和型戦艦の決戦距離である20 - 30kmでは砲弾は上昇から下降に転じた後であり、初速はあまり関係無い。45口径でよしという考えは、そうした計算もあると考えられる(ただし、46cm50口径砲の貫徹力は全般的に45口径砲を上回っており、何らかの工夫があったものと想定される)。また、むやみに砲身を長くすると重力により先端部が垂れ下がり、発射時にブレを生じて命中精度が著しく悪化する(河内型戦艦において採用した30センチ50口径砲で、実際にその問題が起きている)。当時は、46センチ砲というだけで画期的であり、多数の製造設備の刷新が必要となった。その上50口径の砲身ともなると製鋼技術に不安があったことと、船体重量の制限もあることより45口径で充分と判断された。

なお、対するアメリカ海軍の場合は、アイオワ級戦艦で40.6cm50口径砲を搭載しているが、この砲は重量弾を使用し初速は従来の45口径砲並みに抑える設計であり、落下に転じた後の砲弾の加速度を増す設計であった。サウスダコタ級戦艦は40.6cm45口径砲を採用し、こちらも同じく重量弾を使用し初速は従来の45口径砲よりも低下している。この両者を比較すると、近距離での装甲貫徹力は50口径のアイオワだが、遠距離での打撃力は45口径のサウスダコタが勝る。

[編集] 爆風対策

46cm主砲発砲時のブラスト圧は、甲板上の人間や搭載航空機などに甚大な被害を与えるため、対策が実施された。その衝撃波は凄まじく、実験では航空機が破壊されるほどで、試算の結果、主砲発射の衝撃波は甲板上のどこにいても人体に致命傷を与える圧力と判明した。大和型が艦載艇と艦載機を艦内に収容出来るように格納庫を配置したのはこの為である[10]

実際に武蔵の公試時に、モルモットを入れた籠を複数配置して主砲発射を行ったところ、爆風で半数以上の籠は跡形も無く吹き飛ばされており、残った籠の中のモルモットも爆圧により形を留めぬほどになっているなど、無事であったものは殆どなかった。従って、主砲発射時には甲板上で体を露出している者(主に増設の機銃及び高角砲の要員)に対して主砲射撃指揮所から操作するブザーを鳴らすことで退避警告をしていた。1回目で甲板乗員は艦内に退避、2回目の長音の鳴り終わりと同時に発砲するという手段を執っていた。

爆風楯付き高角砲、機銃
高角砲・機銃には爆風楯が付けられたが、増設機銃・高角砲の一部には施されていない。むき出しの機銃に配置された兵員は、上記のブザーと共に衝撃に弱い機銃の照準器を取り外し、艦内に待避していた。そのため、対空戦闘では主砲発射に伴う要員の待避、再配備(これには照準器の取外し、再装着の時間も含まれる)の空白の時間が出来てしまい、隙ができる可能性があった。
しかし実際には、戦闘時の騒音と興奮でブザーが聞き落とされ(あるいはブザーを鳴らし忘れ)、機銃員が避退せぬまま主砲が発射されて、死傷者が生じたという説もある(詳細は後述)。

[編集] パナマ運河通航制限について

米国は太平洋大西洋に挟まれているが、軍艦建造の造船所は大西洋側に集中しており、建造された新造艦は通常パナマ運河を通って太平洋側に出る。そのため、艦幅をパナマ運河を通航可能な寸法である110フィート(約33m)以内に納めなければならなかった。日本海軍は米国がその制約下で46cm砲搭載艦を建造した場合、9門搭載艦なら最大排水量50,000トン、10門搭載艦なら60,000トンでそれぞれ速力は23ノット、40.6cm砲搭載艦なら50,000トンで33ノットになると試算し、砲力と速力の総合で大和型が優位に立てると判断した。なお、アイオワ級戦艦計画時にも基準排水量45,494トン、全長243.8m、全幅32.9m、45.7cm47口径砲9門、速力27.5ノットの試案が存在し、これが実現した場合は日本側の予測を上回る結果になったはずである。もっとも全幅を32.9mに抑えているため、弾薬庫の必要幅の関係から、特に水中防御については大和型にかなり劣るものと考えられる(要目によれば垂直/水平装甲も制限のない大和型が優位)。

ちなみに、「46センチ砲搭載艦はパナマ運河通航ができない」という予想により日本海軍は大和型を建造したという認識が広まっているが、前述の通りこれは間違いである。海軍休日以前の各国の計画艦として、米海軍ではダニエルズ・プランにおいて基準排水量80,000トン、全長296.9m、全幅32.9m、45.7cm50口径砲15門、速力25.2ノット、日本の八八艦隊計画における十三号型巡洋戦艦が全幅30.8m、英国のN3級戦艦は32.3mで、それぞれパナマ運河通航可能なプランであり、日本海軍が「46センチ砲搭載艦はパナマ運河通航ができない」という予想を立てるとは考えられない。

なお、第二次世界大戦中には、バルジ装着で運河通航を断念したテネシー級戦艦や、運河拡幅を前提に計画されたモンタナ級戦艦(未成)やミッドウェイ級航空母艦も存在するので、米国はパナマ運河通航制限を絶対的なものと考えていた訳ではないが、そのパナマ運河攻撃の為に日本も伊四〇〇型潜水空母を開発していた部分から、パナマ運河の戦略的価値が当時大きかった事を伺わせる。

[編集] 機密保持

艤装中の大和

大和型戦艦の機密保持は非常に徹底していた(詳細は各艦の項目参照)。

[編集] 機密保持の性質

福井静夫は機密の性質を2種に区分している。以下の2種の説明は福井が『丸』1964年2月号で述べたものをベースとする[11]

  1. そのものの名称、存在などは知らせるが、その性質の重要なものについては秘匿するもの。艦の速力、航続距離、復原、動揺、旋回性、砲の最大仰角、射程、初速などはこれに属し、全ての戦艦の主砲射表、徹甲弾の性質、構造は機密度の最も高い軍機指定であった。
  2. そのものの存在を秘匿する。九一式徹甲弾酸素魚雷などがこれに属する(列強海軍が徹甲弾や魚雷を保有すること自体は暗黙の周知であるが、全ての型式について公表している訳ではない)。酸素魚雷の場合、酸素を特用空気と言い換え、発射管を扱う水雷科員にも魚雷の気室に圧入する気体が酸素であるとは、教育・訓練の際にも説明しなかった。

例えば前級の長門型戦艦は1種目の意味で機密保護が行われた。1種目の意味での機密扱いはどこの軍隊でも見られる類であるが、大和型の場合は艦全体が2種目の意味で機密扱いとなり、民間は言うまでもなく、海軍部内関係者に対しても、できるだけ推察しにくいように下記の一連の工夫がなされた。

実際には呉や長崎の一般住民の中にも新戦艦が建造中であることは噂としては周知となっていったが、当時の国民一般は軍に対して協力的であり、見ても他に語ることを躊躇することが多かった。帰省する軍人も同様であったという。それでも噂は徐々に広まり福井も新戦艦について質問されることがあったが、そうした戦前の社会の姿勢が機密保持に有益だった旨を述べ、当時の国民を賞賛している。

[編集] 予算獲得

兵器を製作するには予算が必要である。機密保持のための偽装はこの段階で既に行われていた。マル3計画では2隻(大和、武蔵)を計画したが、1隻あたりの予算額を大きくすると諸外国に規模が察知されてしまう恐れがあることから64,000t級戦艦2隻分の建造費とせず、金剛型の代艦として35,000t級戦艦2隻(ワシントン海軍軍縮条約の新規建造戦艦の排水量上限が35,000tだった)を建造するということで国会に予算要求した。その際それらしい偽のスペックを付記し、それも軍極秘に指定した。実際に建造するのは35,000戦艦ではなくそのままでは予算が不足する。そのため陽炎型駆逐艦3隻と伊一五型潜水艦1隻を架空計上している。つまり大和型戦艦1隻の建造費は35,000t級戦艦1隻+駆逐艦1.5隻+潜水艦0.5隻分ということになる。この他にも同時に計上された他の艦の建造費が一部流用されているとされる。さらにマル3計画計画関係の書類からも戦艦またはBという略字の入ったものは軍機扱いとされ、1ランク下の機密度である軍極秘の書類からはBに関する事項は一切省かれた。

なおマル4計画では3・4番艦である信濃111号艦の建造を計画したが、同様の偽装により40,000t級戦艦2隻の要求とし、駆逐艦2隻と潜水艦1隻を架空計上している。つまりこのときは大和型戦艦1隻の建造費は40,000t級戦艦1隻+駆逐艦1隻+潜水艦0.5隻分となっていた。

[編集] 建造施設

建造に当たり施設周囲の民家では、ドックを一望できる向きの窓は塞ぐように指示が出され、鉄道においても、施設周辺地域に列車が近づくと、当時一般的だった「要塞地帯」での取り扱い同様に、窓を閉めるように指示がだされていた。日本海軍は建造に当たって多くの施設を新設、改造したが、その際に呉工廠では建造ドックに覆い屋根が設けられ、長崎では三菱長崎造船所の船台の対岸に倉庫群を建設して眺望の遮蔽が図られている。新設された横須賀第6ドックの場合、機密保持の容易性も建設に当たって条件の一つとされ、横須賀市街側から同ドック内の様子を伺うことは不可能である。

建造に携わる工員は徹底的な身元調査の上、機密を漏らさないことを約束させられた。艦の設計図は持ち帰らないことを徹底させ、保管は二重の金庫にしまうほどであった。武蔵建造中に製図庫で図面が一枚紛失する事件があった際には、図面取り扱いに関係した人間に対して特高による取り調べが1か月以上に渡り行われ、何名かは拷問などで職場復帰不可能になってしまった。判明した犯人の少年製図工は家族と共に中国へ強制移住させられ、その後行方不明になったと言われている[12]

[編集] 呼称の偽装等

主砲が46cm砲であることを隠匿するために制式名称を「九四式四十糎(サンチ)砲」と呼称したほか、46cm砲の砲身製造設備は呉海軍工廠にしかないため、三菱重工長崎造船所で建造され、そこで艤装を受けた2番艦武蔵や、横須賀海軍工廠で建造されていた3番艦信濃への主砲兵装輸送のために砲運搬用の給兵艦樫野が建造された。信濃の場合は主砲据付前に空母への改装が決定し実際には主砲の運送は行われなかった。

[編集] 竣工後の取り扱い

大和乗組員さえ正確な口径は知らされなかったばかりか、大和を視察に訪れた連合艦隊司令長官山本五十六でさえも説明を断られているなど、正式な手続きがなければ海軍のトップでさえ詳細を知ることはできなかった。『戦艦大和建造秘録』にはレイテ沖海戦の時期ですら、大和型戦艦を指揮下に収めていた栗田健男提督は「主砲口径が46cmであることを知らなかった」と米軍の調査団に陳述している事が書かれている。同書によれば天一号作戦時の第二艦隊砲術参謀も同様の証言をしている。艦隊の指揮に関わる高級士官は直接砲を操作に当たる訳ではないが、これらは指揮下の戦艦の攻撃能力を正確に知らされていなかった事例である。[13]

指揮官に対してこの厳重ぶりである為、乗組員ですら乗艦の名前を知らされていなかったとされている。ただし、戦後に複数出版された大和・武蔵の元乗員手記に「乗艦の名前を知らされていなかった」という記述が見えないことから、誇張されたものと考える者もいる[要出典]海軍大学校の学生が「大和、武蔵という新型戦艦が配属された」という噂を聞き、教官に確かめたというエピソードもある)[要出典]

[編集] 諸外国から見た大和型戦艦

日本海軍が1937年に条約を脱退してから後、艦艇建造に関する機密は極めて厳重に保持された。米国は1938年の時点において、日本の新型戦艦建造についても、45,000トンかそれ以上の排水量を持ち、16インチ (40.6cm) 砲ないし18インチ (45.7cm) 砲9門を搭載した、速力30ノット程度の「日進型戦艦」が最大5隻建造されていると判定していた(この結果、第二次ロンドン条約では、戦艦の基準排水量制限が拡大されて、最大45,000トンとなった。この制限も第二次大戦の開戦により条約が無意味となった結果、無視され、未成のモンタナ級戦艦では60,000トンを越える設計となった)。米国は空母についても、速力や搭載数を過少に見積もり、その代わり保有数を実際より多い9ないし10隻(建造中1ないし2隻)と判断していたり、実在しない15,000トン級の「秩父型大型巡洋艦」に対抗する必要があるという判断から、アラスカ級大型巡洋艦を建造しているなど、機密保持はかなりの効果を発揮していた。

当然ながら、日本は戦艦建造に関する公式発表を曖昧なものとした。1937年5月に、米内光政海軍大臣は「日本は他国に脅威を与える軍備を企図しておらず、16インチ以上の主砲を搭載する大型艦の建造などというのは、根拠を欠く憶測」と発言している。この発言を受け、ビーミス米海軍大佐も本国に「米内声明により、日本が現存している主力艦を大きく越える主力艦を建造したり、現在使用しているものより大口径砲を搭載することは企図していないという見方が強まっている」と報告している。一方、英国は日本が16インチ砲を搭載した45,000トン級戦艦を、横須賀で1隻ずつ建造していると考えていた。さらに佐世保で同型艦の建造が進められ、最終的には4番艦も建造すると判断していた。

機密保持は同盟国である独伊相手にも徹底していた。ドイツ側の駐日武官は日本がドイツ側の海軍工廠視察要求を拒否したため、ドイツも日本の海軍武官の視察を拒否すべきであると、本国に要請していた。

こうした状況から、日本の国家予算から建造艦艇を推測する試みも行われた。米国は1937年の第三次海軍軍備補充計画は戦艦4隻の建造に足るものと推算したが、この数字には1933年から1937年にかけての労働賃金や物価の上昇が含まれておらず、実質的には予想不可能と判断していた。1940年4月、ハットン少佐は情報を整理し、16インチ砲を搭載した戦艦8隻を日本が建造中であると報告した。しかし、米海軍大学校はこの情報を重視せず、1940年6月の机上演習でも、16インチ砲9門を搭載した日本海軍新型戦艦4隻が配備されているという想定で行われた。

太平洋戦争開戦後、捕虜の尋問などで大和型戦艦に対する情報収集が行われた。その一方で、日本が大和型の主砲呼称を40センチ砲としていたこともあり、1942年10月時点でも米海軍情報部では日本の新型戦艦は16インチ砲搭載艦と判断していた。

日本は1943年7月16日に、ヒトラー総統の特別要請に応えて、ドイツ海軍駐日武官ベネガー少将に対して大和の視察を許可したが、機密保持の観点から視察は表面的で、限られた区画を1時間程度しか行わせなかった。そして要目も基準排水量42,000トン、40cm砲9門、25ノットと伝えた上で、本当のデータをヒトラー総統が知りたければ、連絡武官を派遣して、直接口頭で伝えるという姿勢を取った。実際、東京からベルリンに送られたこうした大和型戦艦に関する電報は米国に傍受され、米側が大和を42,000トン、16インチ砲戦艦と判断する強い判断材料となった。

しかし、1944年2月4日、B-24爆撃機2機がトラック諸島上空で撮影した大和型戦艦の写真解析は、米海軍情報部に波紋をもたらした。写真に写った新型戦艦は、基準排水量60,000トン以上、全長289.5m、全幅33.5m、18インチ砲9門を主砲に持ち、8インチと5インチの副砲を持つと判断されたのである。だが、1944年4月に押収した日本海軍の文章でも、大和と武蔵の要目はドイツ側報告と同じだったため、1944年9月の『米海軍情報週報』でも大和型の要目は過小評価されたままだった。最終的に米海軍は、大和と武蔵を撃沈した後でも、42,000トン、16インチ砲9門、28ノット程度と考えていたが、一方で日本海軍が18インチ砲の試験を行っているとの情報を1942年頃には得ていたため、主砲口径について信用できる情報を持っていなかった。

沖縄特攻時に、大和迎撃を命じられた米第54機動部隊では、4月7日早朝から参謀会議が行われ「大和が18インチ砲なら45,000ヤード (41,148m) の射程を持つが、デイヨー艦隊は16インチ砲戦艦でも42,000ヤード (38,404m) に過ぎず(同艦隊に存在したコロラド級戦艦の16インチ45口径砲は射程32,000mであり、米戦艦で射程が42,000ヤードに達するのはアイオワ級戦艦のみ。数値は誤記の可能性もある)、アウトレンジ射撃を受ける危険性がある」と指摘された。また旧式戦艦より高速の大和が突破に成功した場合、輸送船団が攻撃を受ける可能性もあったが、明確な解決策は見いだされなかったとされている。

戦後の欧米では大和型(を含む日本軍の装備全般)の評価は多様であるが、アイオワ級サウスダコタ級等の米戦艦が優れていると見る意見もある[1]。理由としては、レーダー技術の低さ、火器管制の制度の差、対空能力の低さが挙げられている。また戦略的重要性が戦艦から空母に移行していく中で資源の乏しい日本が膨大な国力を費やして世界最大級の戦艦を作ったことに対する批判も存在する。

[編集] 同型艦

同型艦は大和武蔵

続く第四次海軍軍備補充計画で110号艦、111号艦建造が決定する。110号・111号艦は、大和で不十分とされた連合艦隊旗艦設備を充実させ、過大と判断された舷側装甲厚・甲板装甲厚・主砲バーベット装甲厚を減じ、艦底を三重底化(一部区画は二重底のまま装甲を強化)して水中防御を強化しているため、準同型艦として扱われる。110号艦は太平洋戦争開戦と共に完成を断念したが、船体(船殼)はかなり完成していたためにドックを空けるための船体建造は進められ、のちに計画変更されて航空母艦信濃として竣工した。もう一方の111号艦は工事が進捗していなかったため、開戦と共に建造中止・解体されている。

また、第五次海軍軍備補充計画では、更に水中防御などを改良した797号艦(改大和型戦艦)や主砲を51cm連装砲塔に変更した798号艦、799号艦(超大和型戦艦)も計画されたが、いずれも起工には至っていない。

なお、111号艦は紀伊もしくは尾張という艦名になる予定だったと言われている。ただし、紀伊は空母信濃となった110号艦の予定名称であり、何らかの事情で変更されたという説もある。また、尾張は「終わり」を連想させ、縁起が悪いので使われないという説もある。

[編集] 略歴

太平洋戦争時の戦闘は航空機主体の戦術に移っており、大和と武蔵が敵戦艦と水上戦を行う機会はなかった。

大和の初陣はミッドウェー海戦であるが、これも連合艦隊旗艦として機動部隊の後方を進撃したのみで、空母全滅の電文を受けただけだった。

続くガダルカナル島をめぐるソロモン諸島の戦いにおいて、アメリカ軍は新鋭戦艦であったノースカロライナ級戦艦を始めとするありとあらゆる軍艦を投入したのに比べ、海軍は高速ではあるが旧式の金剛型戦艦のみを投入し、新鋭戦艦たる大和型は温存された(1942年当時の日本は資源輸送に使用すべきタンカーまでも海軍作戦に使用したが、ミッドウェー海戦での浪費などもあって、大和型戦艦を動かす燃料までは確保できなかった)。大和と武蔵は、激戦が続くソロモン海に出撃できなかったため、他艦の乗組員からは「大和ホテル」「武蔵御殿」と揶揄された。1942年9月18日には「大和」「陸奥」が前進部隊の補給艦「健洋丸」にそれぞれ4,500トン、さらに2隻に燃料補給を行った。同11月9日にも「大和」「陸奥」は出動部隊に米麦を提供している。

艦首を大きく沈下させた武蔵

大和型戦艦による砲撃が初めておこなわれたのはマリアナ沖海戦での対空砲撃であり、続くレイテ沖海戦でも対空防御のための砲撃をおこなった。レイテ沖海戦で武蔵は撃沈されたものの、航空魚雷19発以上、爆弾20発以上と言われる命中弾を受けてもなお、5時間以上も浮いていたその堅固な防御力は特筆すべきものがあるが、被雷の振動で艦橋トップの主砲射撃方位盤が故障するなど、弱点といわれた部分を次々と露呈する戦闘ともなった。 その後発生したサマール沖海戦で、大和は米護衛空母部隊に対して32kmから遠距離砲撃を加えた。これが大和型戦艦が主砲を敵水上艦艇に発砲した最初で最後の戦いであった。

なお、空母に改装され、突貫工事の末1944年11月に竣工した3番艦信濃も、横須賀からへの回送のための航海途中に潮岬沖で米潜水艦の雷撃をうけて沈没した。詳細は信濃を参照のこと。

被雷により左舷に大きく傾いた大和

残された大和も、最後には天一号作戦に投入され撃沈された。武蔵に比べ比較的早く沈んだ(被雷9本以上、被爆10発以上)のは米軍が武蔵の戦訓から、片舷に雷撃を集中させた(異説あり)ことや、日本軍の戦力が減退し、攻撃目標艦を絞りやすかったことなどによる。左舷に8本以上(右舷に1本)を被雷しながらも浮いていた防御力はさすがではあったが、結局は航空攻撃に屈さざるを得ず、大和のみならず、戦艦の力の限界と終幕を象徴するものとなった。


[編集] 大和型にまつわる話

[編集] 搭載砲

[編集] 46cm砲について

大和型に搭載された46cm砲(18.1インチ砲)は「世界最大の艦載砲」と言われる。

この「世界最大の艦載砲」という言葉自体は間違いではないが、46cmに極めて近い18インチ (45.7cm) 砲を搭載した艦はそれ以前にも存在した。それは英海軍が第一次世界大戦時に建造した大型軽巡洋艦フューリアスで、35口径18インチ単装砲2基を搭載していた。しかしこの砲は横向きに撃つと反動で艦の向きが変わるほど、艦と砲のバランスが取れておらず、実戦では使い物にならなかった。

また、米国ではダニエルズ・プランの際に47口径18インチ砲の試射に成功しており、第一次大戦後には20インチ (50.8cm) 砲の試作を行っている。日本海軍でも八八艦隊計画時48cm砲を試作・試射までおこなっていた。この砲は試射時に尾栓が破壊されたが、大和の46cm砲設計に先立ち修理、再度試射された。また、大戦中には超大和型戦艦に搭載する予定だった51cm砲を試作し、実用化の目処も付いていた。しかし、これらは艦艇に搭載された事はない。

[編集] アウトレンジ射撃について

46cm砲の最大射程距離は約42kmで、米英が建造した戦艦よりも大きい。このため、敵戦艦がこちらを射撃できない距離から攻撃できたと言われることがある。

ただし、46cm砲は「大口径だから42km先まで弾が届く」ということであって、実際に42kmの距離から敵を攻撃することを想定しているわけではない。届くだけなら、ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の1934年式38.1cm50口径砲は42,800mの射程、アイオワ級戦艦で44,100mの射程記録を持つ。)大口径だけでなく、装薬や砲身長により射程を伸ばすことは可能だが、砲の寿命や命中精度の悪化などのリスクも伴う。

大和型の46cm砲は、42km先では、目標を中心として最大1km弱程度の着弾散布は免れなかった。マリアナ沖海戦前でも砲弾の散布界が800mと大きく、問題となっていたが、訓練により、1944年(昭和19年)9月には35 - 36kmにおいて全砲による斉発でも散布界300m(遠近)に縮小し、精度は大幅に向上している。(しかしながら後述でも触れるとおり、散布界が小さければ単純に命中率があがるというものでもない。これは散布界が小さければ小さいほど正確な照準が必要となり、遠距離において機動する敵艦に対して正確な照準を行うことが非常に難しかったためである。逆に大きめの散布界であれば一定の照準誤差があっても命中確率を確保することができる。米側の評価として大和型の散布界は小さすぎるとするものもある。)

しかし日本海軍の戦術ドクトリンでは、戦艦の決戦距離を九一式徹甲弾による水中弾発生確率の高い20 - 30kmと考えており、大和型も例外ではない(各戦艦の防御力も、その程度の距離での戦闘時に有効となるような装甲を有している)。先制の利を得るための遠距離砲戦は考慮されているものの「安易な遠距離攻撃は弾薬の浪費につながる上に、艦隊の隊列変更や砲戦距離の短縮が困難」と明記されている(砲撃を開始した後で、自艦が大きな戦術運動を行うと、射撃データが無効化されてしまうため、命中弾が望めない)。つまり、通説のように「敵と砲戦はするが、自分は安全な場所にいる」アウトレンジ砲撃は前提としていないため、大和型戦艦は、敵戦艦が46cm砲を装備したとしても、その攻撃に耐えうる防御力を備えている。

なお、大和型戦艦の昼戦艦橋(第一艦橋)の高さは、水面上34m。ここからは肉眼で45km先にある敵戦艦の艦橋を見られたとされている。実際にサマール沖海戦において、大和など日本戦艦はマストが低くて発見が難しい米護衛空母群を35kmで発見し、32kmから射撃して初弾で夾叉(敵艦を挟んで砲弾が落下した状態、つまり敵艦が散布界内に入った状態であり、このまま射撃すればいずれ命中弾が出る)を得ている。これは驚異的とも云える射撃精度であり、事実、米側からも「砲術士官の望みえる最高の弾着」と最大級の評価を受けている。

NHK・『その時歴史が動いた』にて、大和の生き残りの将校が「46cm砲は約20km前後での砲撃戦を想定した砲である」という内容を語っていることもあり、有効射程は20kmとする論者が存在するが、上記の通り距離が20kmより遠くても条件によっては命中弾が出たことは疑いない。なお、距離が遠いと散布界が広くなり命中弾が出る確率が低くなる、という説があるが、戦艦陸奥は1937年(昭和12年)度の32,000mでの演習射撃で遠近107m、左右38mという驚異的に小さい散布界を記録している。同じ年の演習で陸奥は30,200mで遠近352m、左右33mと上記より悪く、距離と散布界の広さには直接関係はない。なお、散布界がよければ命中率が確実に優れるというわけではない。昭和12年演習の戦艦霧島榛名では、23km付近の霧島の散布界は榛名の1/3の小ささだが、命中率は霧島1.8%、榛名4.2%とされている。とはいえ、散布界が小さければ命中弾が発生したさいに、複数弾の命中が発生しやすいことから、無意味な数字というわけでもない。

ただし、サマール沖海戦では米駆逐艦の煙幕やスコールにより射撃を妨げられ、レーダー射撃能力が不十分な日本戦艦は充分な弾着観測が行えなかった。同海戦に参加した戦艦金剛の戦闘詳報では「24km以遠の目標に対する遠距離射撃は、測的及び弾着観測が困難なため、射撃効果の発揮が困難」としている(米側も日本側の射撃に対して「測距は正確だが、修正が下手」と評している)。

大和型戦艦の光学測距儀は艦載用としては世界最大の基線長15.5mであり、10mの金剛型よりも正確な観測が行える。

[編集] 爆風被害について

レイテ沖海戦において、武蔵は第一次空襲の際に主砲射撃方位盤が故障し、主砲射撃指揮所からの統一射撃が不可能になり、第二次空襲以降では各砲塔による各個照準及び射撃となったと言われている。ただし、武蔵の主砲第一発令所の九七式射撃盤を担当した布田昇の証言によると「まず第一波の攻撃で命中した魚雷のため、前部方位盤の旋回部分が歪んでしまい、旋回不能となった。直ちに後部方位盤に切り替え、戦闘を続行」ともあり、射撃方位盤故障がどの程度砲撃に影響したのかは不明である。なおレイテ沖海戦において、日本戦艦が主砲の遠距離対空射撃に対し、射撃方位盤を必要とする交互打方を多用した記録が残っており、武蔵の射撃方位盤使用不能が長時間に及ぶものであれば、影響はあったものと考えられる。

また、通説では、武蔵が警告なしで主砲発砲を行ったため、爆風により機銃員に行方不明者及び鼓膜が破れるなどの怪我人多数を出したといわれる。また、主砲発砲で機銃の照準器が吹き飛ばされたり破損するなどした結果、対空射撃が甘くなり撃沈に繋がったという説もある。

しかし砲弾消費量から考えて、各砲塔は戦闘時に、遠距離での敵編隊に対して1ないし2回、最大で3回発砲しているに過ぎず、近接戦闘時に発砲した可能性は少ない。従って、主砲が機銃射撃を阻害したというのは、かなりの誤解が含まれていると考えられる。先述の通り、武蔵は副砲でも盛んに対空射撃を行っており、主砲射撃の爆風による被害と言われるものの多くは副砲によるものだった可能性がある。

また、戦闘詳報には大和についても1944年(昭和19年)10月25日の対空戦闘において「後部主砲塔射撃のため、後部左舷所在の機銃員数名が火傷を負う」という記述があり、機銃に対する通報に齟齬があった要因が、射撃方位盤だけでないことも伺える(実際に主砲射撃による爆音の中での、機銃群への迅速通達は容易ではないことから、3番主砲塔と後部機銃群との間に砲塔危険界通報装置の設置が要望されている)。

[編集] 副砲について

[編集] 対空攻撃能力について

大和型戦艦の副砲は条約型巡洋艦、駆逐艦に対処するためのものだが、対空射撃には有効とは言い難く、副砲を全廃して両用砲に転換したノースカロライナ級キング・ジョージ5世級の方が先進性があったとよく言われるが、戦闘詳報によると副砲は遠距離での雷撃機等の迎撃に有効であるとの記述があり、通説とは逆に日本海軍は副砲の対空能力を高く評価している。

実際、仏独伊が大和型と同時期に建造した戦艦でも副砲と高角砲は分離されている。特に仏海軍では、ダンケルク級で一旦両用砲を採用したが、両用砲は平射砲としても対空砲としても能力不足という判定から、次のリシュリュー級で、再び高角砲と副砲に分離しているという事実はあまり認知されていない。現実にキング・ジョージ5世級の両用砲は、装填機構や砲の追従性の問題で対空射撃が困難であったと判定されているし、ノースカロライナ級の両用砲は、対水上砲として考えた場合、有効射程が短すぎて、駆逐艦の雷撃を阻止できない可能性が多分にあった。合理的な両用砲だが、多くの海軍が採用しなかったのは理由があるのである。

大和型の副砲は、充分な数の護衛艦を持てない劣勢な海軍(米英以外の全て)が、敵の水雷戦隊を「魚雷を放つ以前の距離で迎撃する」ための兵装である。つまり12.7cm程度の小口径高角砲では、水雷戦隊阻止に充分な有効射程を持てないため、より大口径の副砲が必要という観点から配置されている。主砲を水雷戦隊の迎撃に使用する愚を考えるなら、分離は一理あるという説もある。実際、サマール島沖では、大和は近接した米駆逐艦ジョンストン、ホーエルに副砲で命中弾を与えたとされている。

[編集] 砲塔防御について

主砲塔直後に配置された第1・4番副砲は、大和型防御の欠点である」という説はよく語られる。概ね「副砲塔は25mmの装甲しか施されておらず、駆逐艦主砲の5インチ砲弾も防げなかった。従って爆弾や大角度での落下砲弾がここに命中した場合、砲爆弾は副砲弾薬庫に達して炸裂し、これが隣接する主砲弾火薬庫を誘爆させて轟沈する可能性を秘めていた。手直し程度の改善はあったものの、この欠点は最後まで解消されなかった。両舷への指向が可能という利点にこだわった設計ミスだった」というものである。

しかし、この説が正しいとすると2・3番副砲であっても誘爆すれば機関が大損害を受け行動不能になる可能性が高いという点は無視されている。また、「どの角度で放たれた砲弾や爆弾なら、弾薬庫に飛び込むのか」という考察までされている欠点説における記述は少ない。副砲弾薬庫に直接入るような角度の敵弾は、大和型が意図した決戦距離ではまず発生しない。決戦距離で発砲された敵艦の砲弾角度では、大和型の強靱な水平装甲を貫かない限りは、副砲弾薬庫には入れないのである。副砲の弱装甲を貫通した砲弾が、そのまま副砲弾薬庫に入るためには「副砲破壊後、貫通した砲弾が狭い揚弾筒をくぐり抜け、弾薬庫に入る」というプロセスを踏む必要がある。

次に、高い位置に配置された1・4番副砲を貫通した敵弾は、副砲塔を貫いてそのまま分厚い水平装甲に命中するか、反対舷に落下すると考えられる。従って「貫通した砲弾が狭い揚弾筒をくぐり抜け、弾薬庫に入る」ためには、命中した砲弾の落角は70度以上は必要となる。大和型戦艦の場合なら、最大仰角45度で発砲したなら、砲弾の落角は60度程度になると考えられるが、戦艦・巡洋艦・駆逐艦を問わずこうした大仰角での砲撃は、修正が困難で極めて命中率が低い。

そして、ある程度の命中率が見込めるであろう、仰角23.12度(大和型戦艦では射撃距離30,000m。巡洋艦や駆逐艦ならより近距離となる)では、砲弾の落角は31.21度にしかならないため、副砲弾薬庫にはまず入らない。爆弾についても同様であり、動く戦艦に対し直上から90°の角度で命中させた上、爆弾が狭い揚弾筒を通り抜け、直接弾薬庫に入るような確率は、極めて低い(日本急降下爆撃機の突入角度は大戦後期で50 - 60°程度、米艦載機の場合は45 - 50°程度の一斉急降下爆撃だった)。

こうした観点から、副砲塔の防御は充分として設計されたが、完成直前となって用兵者側から防御力を強化するよう要望を受けた。副砲塔自体に敵弾が命中した場合は上記の通りなのだが、特に中心線上に配置された第1・4番副砲塔を支える円筒の、露出した支筒下部に敵弾が命中した場合の問題点を指摘されたのである。

この円筒は元々50mmCNC+25mmDSの装甲が施されており、撃角の大きな爆弾であれば確実に防御できると考えられていた(爆弾の命中角度が直角に近くなるほど、垂直に立てられた75mm装甲を貫通するのが難しくなるため)が、撃角の少ない爆弾の貫徹力に対応するため、支筒に28mmの装甲追加が行われた(爆弾の命中角度が浅くなれば、爆弾が装甲を通過するのに必要な距離が減るため、貫通しやすくなる)。

この強化により射撃実験の結果、支筒下部は800kg爆弾の命中に耐えうるものとされた。さらに防焔扉の板厚を増し、中甲板の貫通部に不規則な形の防焔板を隙間なく装備した。これにより、最上型軽巡洋艦に搭載されていた時よりも、総合的な防御力は強化されていた。なお武蔵は就役時までに、大和は就役後に副砲を一旦下ろして、この防御強化を行っている。しかし、強化後でも合計で50mm+25mm+28mmの計103mmしかないため、戦艦や重巡洋艦の主砲弾に対しては不十分なのも事実である。

副砲の防御が弾薬庫配置を含めて問題となるのは、他国戦艦でも同様だが、第一次世界大戦や、太平洋戦争での諸海戦の戦訓を見ても、防焔装置などで被害を局限できることは確かであった。現実に、大和型副砲塔と同様の防御形式だった日本重巡洋艦「青葉」は、サボ島沖海戦で第3砲塔に敵弾の直撃を食らい、砲塔内で装填中の零式弾と装薬が誘爆したものの、適切な弾薬庫注水により、それ以上の被害拡大を免れている(他の日本重巡も砲戦中に弾薬庫誘爆で沈んだケースは存在しない)。

また、万が一、副砲弾薬庫に敵弾が入った場合だが、副砲の口径から言っても誘爆する1缶あたりの装薬(発砲火薬)の量がそれほどの量ではないため、装薬自体が小分けにされて金属缶に密封保管されていた弾薬庫の性質上、余程のことがない限り一斉誘爆するとは考えにくい。以上のことから、副砲の弱装甲が大和型戦艦の弱点という通説は「問題となる一斉誘爆」が起こる確率が、極めて低いことを考慮する必要がある。実際、武蔵は爆弾多数の命中を受けたが、副砲塔誘爆という事態には至らなかった。

なお、艦中心線上への副砲装備は「主要防御区画の縦方面での長さを伸ばし、艦型の拡大を招いた」という、別の批判もある。しかし、この種の批判は機械室のレイアウトや日本戦艦では徹底して配慮されていた主砲、副砲の射界、旋回による各砲身の干渉、複数砲塔、砲架の管制といった問題を無視していることが多い。

また、主砲弾薬庫に敵弾が入った場合であれば、火薬量が段違いに多いためユトランド沖海戦の英巡洋戦艦、あるいは「陸奥」や「フッド」が示すように、弾薬庫誘爆による沈没は考えられる(最強の艦載砲である大和型戦艦の46cm45口径砲ですら、水平装甲に対しては30,000mで231mmの貫通力なので、270mmの装甲厚を持つ主砲塔天蓋を艦載砲で貫通するのは困難だが)。

実際の事例として、砲塔内で自らの砲弾や装薬が爆発してしまう事故は国内海外問わず多数報告されているが、沈没に至った艦船はイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチなど数例に留まっている。アメリカ旧弩級戦艦においては、弾薬庫にて装薬爆発事故があったケースもあったが、誘爆には至っていない(これは幸運なケースかもしれない)。

なお砲塔の構造は大別すると英国式と米国式に分類される。砲弾と装薬を同時に砲塔内に揚げる英国式は、機構が簡単で重量が軽いメリットがある。これに対し、砲弾と装薬を別に揚げる米国式は、機構が複雑で重量がかさむものの、被弾時の誘爆確率が低いという防御面のメリットがあった。米国式の砲塔を採用したのは、米仏独の戦艦と日本の大和型戦艦のみであり、それ以外の各国戦艦(長門型以前の日本戦艦も含めて)は英国式砲塔であった。

[編集] 最大速力

[編集] 運用

建造当時の米戦艦の最大速力は20 - 22ノットであった。日本海軍は改装によって、長門型/伊勢型/扶桑型戦艦を25ノット、金剛型を30ノットに向上させていたため、部隊単位で優速であった。大和型の27ノットは、米新型戦艦が25ノットと見積もられていたために、これを上回る速力として承認されたものである。

だが、大和型戦艦が艦型の拡大を抑制するため、最大速力を約27ノットとしたことに対し「低速のため、機動部隊護衛などに使用できなくなり、失敗であった」という根強い意見がある。この根拠には、

  • 軍令部第一課(作戦課)が新戦艦(重高戦)の速力として、空母機動部隊との共同作戦を前提とした35ノット(航続距離18ノット20,000浬)を想定していたこと。
  • 初期の計画書に30 - 31ノットの速力が要求されている。
  • 欧州の30ノット級新型戦艦や、大戦中活躍した33ノットの米戦艦(測定条件によっては最高35ノットもの高速を発揮した)アイオワ級との比較。

が挙げられることが多いが、速力を27ノットに抑えたことによる悪影響、或いは他国海軍に比較しての欠点は結果としてほとんどなかったという声もある。

対戦国の同世代戦艦である英国のキング・ジョージ5世級戦艦や米国のノースカロライナ級戦艦サウスダコタ級戦艦で約28ノットであり、ほぼ同速であった。

また、33ノットのアイオワ級戦艦は高速発揮とパナマ運河通行のため、無理に第1砲塔周辺をしぼった艦型となっており、これにより横方向の揺動に対する安定性がかなり低かった(現実に英国戦艦ヴァンガードと同行したさいに、航洋性と安定性の低さが指摘されるなど、同級の運用上の問題点として挙げられている)。こうした点において、武蔵は護衛する駆逐艦のスクリューが露出するような大型台風の中を航行しても、安定した航行を行ったと言われている。このように、大和型戦艦は米英仏独伊の新型戦艦よりも航洋性に優れた船体設計をしており、排水量においても大型のため、安定性に優れていた。従って海面が荒れた場合は、他国30ノット級戦艦と大差ない。独仏伊の30ノット級同世代戦艦に対しても、実質的な劣速はわずかと言える。上記のように戦艦の性能上重要となる搭載砲のプラットフォームとしての安定性においては、大和型戦艦は最高レベルと思われるが、反面、機関や燃料消費量も絡んでくるので、ガダルカナル戦で活躍できなかったのも、こういったことや、金剛型に比べ、消費量が多かったことも災いしたとされる。

太平洋戦争時の砲術学校の教範には「僅少な機動力の優位を最大限に活用して、極力敵との砲戦距離を詰めるようにする」と明記されており、日本戦艦部隊が米旧式戦艦部隊に対して持つ4 - 5ノット程度(25%程度)の速力差は、さほど優位をもたらすものではないと認識されていた。日本海軍では、速力の優越で恒常的に戦闘を優位に進められる指針として、敵より50%以上の優越が必要だと判断していた。20 - 22ノットの米戦艦に対する、朝潮型陽炎型夕雲型駆逐艦の35ノットや、米新型戦艦が27ノット級であることが判明した後で、40ノットの速力を要求された島風型駆逐艦がその一例である。なお金剛型高速戦艦(や大和型戦艦の初期計画時、長門型戦艦の高速化計画)は、米旧式戦艦の20ノットに対する50%増の30ノットを近代化改装によって実現しており、戦艦であっても「できればその程度の速力差を得たい」と認識されていたことが伺える。

現実には、少数の戦艦同士の戦闘においても、彼我の対戦姿勢によっては、丁字戦法の効果同様に発砲できない砲塔が発生することもあるため、射界と速力の有利は「できれば得たい」ものであった。しかし、戦例から見れば数ノット程度の優速は戦闘結果に影響しないと考えられる。

実際に栗田艦隊ではレイテ沖海戦前に、今後の作戦で予想される夜戦に対し「大和型戦艦の速力27ノットは夜戦でも問題ないので、武蔵を旗艦にするよう変更してほしい」という要求を行っている(この要求は夜戦には重巡洋艦のほうが適しているとして、拒否された。旗艦となった重巡愛宕は潜水艦に撃沈され、通信班が他艦に救助された結果、栗田艦隊の通信能力に多大な齟齬をもたらした)。

なお、空母機動部隊と随伴できないという意見だが、日本空母のうち正規空母蒼龍飛龍雲龍型)、翔鶴型大鳳については32ノット以上の高速を発揮できたものの、大和竣工時に日本機動部隊主力であった赤城は31.2ノット(航空本部資料では30.2ノット)、同航する加賀は28.3ノットであり、艦隊は最低速艦に速度を合わせる必要があることから、加賀と速力の変わらない大和型による護衛は物理的には可能であり、むしろ戦術思想の問題であるという論者も見られる。

軽空母では29ノット(龍驤千歳型)- 25ノット(鳳翔)、商船改造空母については25.5ノット(飛鷹型)、空母改装艦の信濃は27ノット、伊勢型航空戦艦は25ノット、重巡洋艦改装の伊吹(未成)が29ノットとなっているが、現実問題として、マリアナ沖海戦までは、これらの空母と大和型戦艦が随伴行動を取ることは殆どなかった[14]

このように、決して大和型の速力が大半の空母に随伴するのに不足だったわけではない。米軍では、大和型とほぼ同一速度であるノースカロライナ級戦艦、サウスダコタ級戦艦が、速力不足を指摘されながらも、機動部隊の護衛任務を果たしている。こうしたことからも、大和型が速度不足で空母護衛に使用できない、という論拠は成立しない。大和竣工時で考えた場合、アイオワ級戦艦のような超高速が必要とされるのは、飛龍、蒼龍の第二航空戦隊と翔鶴、瑞鶴の第五航空戦隊の2隊しかないのである。

現実にマリアナ沖海戦では、大和と武蔵は、金剛型戦艦2隻、重巡8隻、軽巡1隻、駆逐艦7隻と共に、空母千歳千代田瑞鳳からなる第三航空戦隊を、長門飛鷹隼鷹を護衛している(重巡8隻が含まれていることでもわかるように、敵機からの被害担当艦と、艦隊前衛として敵艦隊に水上戦を挑むことを想定した運用である。詳しくは後述)ので、空母護衛に決して使えないという訳ではないが、大和の燃料消費量は大きいために、恒常的に機動部隊に随伴するのは難しかったと思われる[15]

一方、単に機動部隊の護衛として用いた場合は、大和型を含む日本艦艇の対空火力はそれほど強力ではないため、例えば重巡洋艦に比較して有効性は期待できないという見方もある(戦艦という目立つ目標に敵機が誘引される可能性はある)。また、膨大な燃料消費率により、恒常的にタンカー不足に悩む日本海軍のお荷物になったといわれる。実際、ガダルカナル戦においては、大和型戦艦や長門型戦艦の陸奥はタンカーの代わりをしていた事実がある。なお、大型艦艇は戦場において、小型艦艇に対する高速油槽艦的な役割を持ち、レイテ沖海戦では大和など、戦艦から駆逐艦戦隊への給油が行われている。

レイテ沖海戦でもそうであったように攻撃側にしてみれば主砲の(威嚇を含む)射撃を行う戦艦は戦場における存在感が大きく、アメリカ軍偵察機のパイロットが過大報告したケースもある。日本海軍の山口多聞提督が奨励した輪形陣は戦艦を含んでおり、その他に元戦闘機パイロットの源田実は戦艦不要とした航空主兵論を主張していたが、攻撃機パイロット淵田美津雄は戦艦は空母の盾になりうると考えていた[16][17]

日本海軍は大和型戦艦を戦艦部隊の中核として位置付け、艦隊決戦のために温存する方針であり、機動部隊護衛に用いることは考慮していなかった。戦艦の使用は主砲火力の発揮できる決戦局面で行うべき、というのは当時の日本には「現実的」な判断だったとされるが、ミッドウェー海戦ではこれらの判断がたたって、大和が傍受し、南雲機動部隊が傍受できなかった敵機動部隊の呼び出し符丁があった。大和型戦艦の無線送信能力は、軍令部より500浬を要求されており、鐘楼やマストも高かったため、空母よりも通信能力に優れていた。そしてミッドウェー海戦時には旗艦であったために、優秀な通信班を乗せていた。こうしたことから大和が傍受した敵機動部隊の呼び出し符丁らしき通信を、無線封鎖を解いて通報していれば、悲劇は避けられたのではないかとの見方もある[18]

なお、日米の高速戦艦は空母の直接護衛よりも、主に機動部隊の前衛として用いられ、航空決戦で勝利した場合に、敵艦隊を追撃・撃破する役割を担っていた。南太平洋海戦では、機動部隊前衛として出撃した戦艦金剛榛名など第二艦隊が、損傷空母ホーネットの捕捉・撃沈に成功している。第二艦隊の突進がなければ、空母ホーネットは放棄されず、修理されていた可能性がある。マリアナ沖海戦でも大和型戦艦を含む日米戦艦は、互いの前衛との交戦を狙った機動を試みている。レイテ沖海戦でも米艦隊は機動部隊から高速戦艦を分離し、日本水上部隊(栗田艦隊)を撃破する任務を負った水上打撃部隊が編成されている。

このような戦艦を前衛で使用する運用方法は、戦艦を空母の護衛艦として防空巡洋艦と同様の任務を行わせるよりも、水上打撃力を活かした積極的運用方法であった。後世の視点で見ても、単に空母の護衛艦にするより、攻撃目標分散などの観点からしても役立つため、妥当なものと考えられる。

最後に、大和型戦艦の設計で語られることのある平賀譲藤本喜久雄の確執、および感情的なしこりについて。藤本の技術的革新主義が、友鶴事件、第四艦隊事件の他、溶接技術の未熟(機関製作にも溶接は重要な要素技術である)、高圧蒸気の扱いや大トルクの減速歯車技術等の未熟、ディーゼルの失敗などで否定されてしまった以上、設計が平賀的(保守的)なものに回帰したことは大和型にはプラスに働いたと言えるかも知れない。晩年の平賀は進歩した溶接等の技術に理解を示しており、目の付け所が信頼性であったに過ぎない。

また、戦艦設計は平賀一人の手で行う物ではなく、多くの技術者の手を経る。その過程で現代から見た平賀の思想の欠点も是正されており、速力についても想定される運用上極端な問題はない。後者は戦後文書を焼却した海軍、残りの文書を持ち帰ったアメリカ軍等の行動がもたらしたことであって大和型戦艦の責任ではないが、設計思想が古かったと言われるのも、こういった要素が絡んでいるかも知れない。

[編集] 実際

一般的には27ノットが定説であるが、大和の元乗組員がテレビ番組「よみがえる戦艦大和」(朝日放送)で29.3ノットまで出したことがあるという証言をしている。この他にも『真相・戦艦大和ノ最期』(1942年6月22日に愛媛県佐田岬標柱間で行われた公試時に、167,310馬力で28.5ノットを発揮。同書では大和の成績とされているが、時期からして武蔵のものである可能性もある)、『戦艦大和・武蔵』(1941年11月30日に、同じく佐田岬標柱で行われた終末公試運転で、5.1mの逆風(追潮)時に28.33ノットを発揮)でも定説以上の速度が記載されている。また、武蔵が過負荷全力166,520馬力で28.1ノットを出したという記録も残っている。また、駆逐艦初霜の艦長・酒匂雅三中佐が、沖縄特攻時の大和は24 - 28ノットで航行していたと証言している。

こうした記録から、過負荷全力時に28ノット台を発揮できたことは、間違いないと考えられる(様々な定格を小さな値で設定して運用していた事を考えれば、過負荷でも一般の日本艦艇より機器の耐久性には余裕があったと見るべきである)。大和型戦艦は基準排水量64,000トンの巨艦にも関わらず、機関出力は150,000馬力と他国35,000トン型戦艦と大差ないため、これと同程度である28ノット台の速力が出せたことを訝しむ向きもあるが、2乗3乗の法則によりこれは説明できる。単純化するなら、長さや幅が倍になったとすれば、面積は4倍だが重量は8倍である。つまり8倍重くなっても4倍の抵抗となる。よって、35,000トン級戦艦の約2倍の排水量を持つ大和型は、1.5倍の馬力で同程度の速度を発揮できるということになる(実際には造波抵抗が速度によって増加するため、大きな船は高速になるとさらに有利となる)。

また、大和型戦艦はバルバス・バウの採用や船体形状の研究などで15,820馬力節約したという記録が残っている。大和の過負荷全力である167,310馬力+15,820馬力=183,130馬力であり、当初計画が多少縦横比の長い状態で20万馬力、30 - 31ノットであるから、28 - 29ノット台が出ても不自然な数値というわけではない。

また、日本の軍艦は燃料・弾薬・水・食糧などの消耗物資を満載した状態で出撃し、一定距離を航海して戦闘に入る直前を想定した状態(いわゆる公試排水量)で出せる速力を最大速力とするが、物資の搭載量が少なければ、これより大きな速度を出せる。例えば駆逐艦島風は公試試験の際、燃料・水等を2/3ではなく海軍がより実用的と考えて改正した新基準により、半分しか搭載せず出した数値である40.9ノットが最高値となっている。

なお大和はレイテ沖海戦時には、第五戦速26ノットで2時間39分走っているが、これを上回る最大戦速で1分間、一杯で9分間走っている。つまり、この時点では28 - 29ノットを発揮していた可能性は充分ある。ただし、機関部の通風能力が不足していたため、特に南方での作戦での高速発揮時は、機関部内が耐え難いほどの高温になっていたとされている。

なお、他国でも独戦艦ビスマルク級の一般的な速力は29ノットと言われるが、機関過負荷120 - 128パーセントで30.8ノットを出したほか、伊戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級は30ノットの計画に対して各艦31.2 - 31.4ノット、仏戦艦リシュリュー級は30ノットの計画に対し32ノット以上、米戦艦アイオワ級は33ノットの計画に対して35ノット以上、英戦艦ヴァンガードも30ノットの計画に対し31.57ノット、キング・ジョージ5世級も27.5ノットの計画に対し29ノットを発揮した記録が残っているなど、大抵の戦艦は過負荷全力時に計画速度を上回る速度を発揮できるのである。逆に、晩年のアイオワ級戦艦は改修に伴う重量増加により30ノットを出すのがやっとだったという記録も残っている。そして、船一般に言えることだが数万トンの排水量の船になると、水温が0.5度違っても同じ体積の水の重量(つまり抵抗)が大きく変わり推進器の性能などにも影響し船のスピードは違ってくる。従って軍艦の最高速度は目安でしかないことに注意する必要がある。

[編集] 対空防御

建造時に航空攻撃を考慮していなかったので撃沈された」という説が見られる。しかし、同時期に建造された空母・空母艦載機や陸上攻撃機の想定戦術から見ても正しいとは言えない。計画当時、戦艦の使用は制空権下で行うことを前提としており、全体の性能バランスを崩すような過剰な水中防御を要求しなかったことを不当とは言い切れない。また日本海軍の艦隊防空に関する取り組みは、電子装備や戦闘システム全体のソフト的研究開発では遅れていたが、駆逐艦・巡洋艦主砲の対空射撃への考慮開始時期やアメリカ以外の国での平射砲の採用状況、対空弾開発などを考えると、他国に劣るものではなかった。また、上記のように竣工時と戦争末期では対空兵装は全くといって良いほどの変貌を遂げている。

だが、秋月型駆逐艦のような65口径10cm砲が装備されなかったり(超大和型戦艦まで装備予定がなかった)、米海軍のVT信管、独海軍の105ミリSK/C33型、英海軍のポンポン砲などの様々な対空砲の技術に比べ、こういった対空砲火の面で遅れをとっていた事も事実である。

[編集] 造船技術

大和型は軍艦である以上、故障・不調は許されない。溶接適用範囲の縮小、主機械のディーゼルから蒸気タービンへの変更など、石橋を叩いた設計であった。艦橋形状や舵配置、機関等の重要構造部はテストベットを経て採用されており、昭和10年代に確実性を確保されていた建艦技術が投入されたと言える。建造に当たっての実艦試験として有名なところでは練習戦艦比叡の戦艦復帰改装時の艦橋形状の採用、潜水母艦大鯨で故障続きだったディーゼルエンジンの不採用などがある。

大和型では、建造期間短縮のため、鋲(リベット)によるブロック工法が行われた。資料「船体構造ニ艤装品機関及兵器関係金物ヲ取付ケル熔接適用範囲其一」(昭和14年2月22日、呉海軍工廠造船部製図)と「船体構造電気熔接使用方針並要領」(昭和13年4月9日、呉海軍工廠造船部製図)(いずれも呉市大和ミュージアム所蔵)によると、強度が必要とされる箇所は鋲(リベット)接合が用いられ、電気溶接は主要構造部には殆ど用いられていないことがわかっている。これは大和型建造当時の日本の溶接技術レベルがまだ低く、信頼性のある材質の溶接棒が製造できなかったことが主な原因だった[19]。ただし、大和型でも上部構造物などで可能な限り溶接を使用することにより、船体重量を抑えようとしていたことも設計図面の溶接を示す長体「S」マークから証明されている。

溶接ではなくリベット接合を用いたことは、建造期間を伸ばし、重量を増加させた。大和型のリベットは直径約4cmのものが用いられ、鋲打機も特注であり大人2人で抱えあげて打ち込んだという。装甲が堅く、厚いため一度打ち込んだ時にそれが少しでも歪んでしまうと、その鋲を抜くだけで、丸一晩かかることも珍しくなかったという。

溶接範囲は時期が後になるほどに工作法や機器の導入、開発などが進んで緩和されており、大和に使用した溶接延長は460kmだったが、3年後の信濃では2,600kmとなっている。信濃の場合は空母に改造されたため単純に比較は出来ないが、甲鉄を多用し、排水量が殆ど同じレベルであるためか、工数、鋲接本数も似かよった値となっている。

大和型建艦に携わった技術陣の多くは戦後、活躍の場を民間に移し、戦後高度経済成長期の巨大タンカー建造などに携わった。西島亮二が中心となって生み出された西島式ともいわれる呉工廠における大和建造時の膨大な工数管理は、今日の大型船舶建造の基礎ともなり、海防艦のブロック建造方式とあわせて造船王国日本の復活を下支えした。

[編集] 竣工時期

一番艦大和の竣工が開戦8日後であることから「海軍は大和の完成を待って開戦を決意した」とも言われるが、これは適切な理解ではない(翔鶴型航空母艦の竣工時期は開戦判断に影響を与えている)。当時の12月8日(日本時間)は月齢19日で真珠湾攻撃に最適であったこと、その日は日曜日で艦隊が停泊している可能性が最も高かったから選ばれたのであり、むしろ大和の竣工が開戦に合わせて繰り上げられたのが真相である。武蔵においても、竣工が大幅に繰り上げられ、過酷な労働で、体調を崩したり、事故で死亡した工員も多いとされる。ただし、大和型戦艦、翔鶴型航空母艦を含む第三次海軍軍備充実計画の艦艇は1941年度末までにほぼ完工に近い工程あるいは就役の状態であり、年単位での軍拡状況という観点から見れば、短期決戦を捨て切っていなかった海軍にとってはひとつの節目の時期には当たっていたと言える。

[編集] 脚注

  1. ^ ただし、1942年(昭和17年)12月には艦形・艦名・要目等は一切明らかにされなかったものの「新鋭戦艦」が既に数隻存在するという海軍関係者の発言が報道され、これは当時の雑誌・書籍類からも確認できる。また、大戦末期になると大部分が噂話程度のものであったが「長門や陸奥より大きな軍艦」が存在するという情報が少なからず広まっていたようである。
  2. ^ 英艦と交戦した時に下層での小規模の火災で艦橋内に煙が充満して指揮に影響した
  3. ^ なお、日米両国とも、戦前の防御計画の想定を上回る威力を持った魚雷を保有していた(日本は酸素魚雷や航空魚雷の改良、米国は爆薬の改良により)。そのため、米戦艦ノースカロライナが日本潜水艦の酸素魚雷1本によって大浸水をきたし戦線を離脱するなど、想定外の打撃を受けることは珍しくなかった。また魚雷は舷側に5メートル×15メートル前後の破孔を生じ、それによる浸水は通常2,000トン前後を元々想定されており、大和の浸水量も驚くほど多量というわけではない。
  4. ^ ただし、大和搭載用ディーゼル機関と同じ機関を搭載した水上機母艦日進では、機関にトラブルはなかったと言われている。また、オールタービン搭載艦は最初の20万馬力案でも検討されており、タービン=保守的というわけではない。
  5. ^ 『NAVAL WEAPONS OF WORLD WAR TWO』(CONWAY) より
  6. ^ 荏原冷熱システム社史によれば、荏原高砂式ターボ冷凍機(冷媒:メチレンクロライド、冷凍能力:50米トン、型式:W型)4台が納入された。
  7. ^ この機構を最初に採用したのは20センチ連装砲を搭載する青葉型重巡洋艦であり、単装砲搭載の前級の古鷹型よりも散布界が大きくなった事から、砲弾の相互干渉の問題が発見された。
  8. ^ ガリレオ・ガリレイの落体の法則が成り立つのは空気抵抗が存在しない場合においてであり、空気抵抗を考慮した場合においては空気抵抗が同一であれば重量が大きくなるほど落下速度も大きくなる。そして砲弾のような極めて高速で飛翔する物体の場合は、空気抵抗は無視できない要素となる。
  9. ^ 放物線を描く砲弾の速度成分を水平方向と垂直方向に分解すると、水平方向速度は終始空気抵抗で減少しているのであり、減速から加速に転じるのは厳密には垂直方向の速度である。そして落下角度が大きければ、合成速度のうち垂直成分の割合が大きくなる。
  10. ^ 戦艦でこういった目的で格納庫を設けた例は大和型だけである。
  11. ^ 後年『日本戦艦物語Ⅱ』に所収
  12. ^ 吉村昭『戦艦武蔵』
  13. ^ ただし捕虜となった兵士の中には「45センチ砲」「48センチ砲」といった推測を米側に供述している者が居る。[要出典]
  14. ^ ミッドウェー海戦では鳳翔、瑞鳳、伊勢、日向と行動を共にしているが、この時は伊勢と日向はまだ改装前。
  15. ^ イタリア海軍ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦は、31ノットの高速を発揮できるが設計コンセプトの違いから航続距離が短く、連合国軍はイタリア降伏後に空母随伴艦として使おうとしたが断念した。
  16. ^ とはいえ、戦艦を積極的に空母護衛に用いた米軍においても、戦艦の対空射撃の効果は、戦後に日本で評価されるほどのものではなかったとも言われ、最終的には米軍でも敵攻撃機の阻止は戦闘機によるものが最も効果的と結論付けているとされる。
  17. ^ 他艦を援護できる対空火力は副砲・高角砲だが、戦艦の高角砲搭載数は重巡洋艦と大差なく、防空巡洋艦より少ないことも多いのである。戦艦は個艦防衛の射程しか持たない機銃の搭載数は多いが、空母を守る目的には、それほど役には立たないと言われる。ただし、当時の攻撃優先目標から言って戦艦は無視できない存在であることと、その重厚な防御力によって敵の攻撃を吸収することで、空母に向かう敵の攻撃力を漸減させる効果もある。
  18. ^ ただし、他戦艦との通信能力は大差はない。南雲艦隊には戦艦金剛、比叡も存在したため、第一艦隊が「当然南雲艦隊も傍受しているだろうから、無線封鎖を解く危険を冒す必要はない」と判断したことは無理からぬことである。
  19. ^ 大和型以前の「大鯨」や「最上」などでも、溶接を多用した結果、船体変形などの問題が起こっていた。溶接によるブロック工法は、戦時量産の戦時標準船海防艦などにおいて実用化された技術であった。

[編集] 参考文献

  • 松本喜太郎『戦艦大和・武蔵 設計と建造』芳賀書房、1961年
  • 牧野茂『日米戦艦比較論』「世界の艦船」 海人社 1987年9月 - 1988年9月号に不定期連載
  • 原勝洋『戦艦大和建造秘録』KKベストセラーズ、1999年、ISBN 4584170762
  • 前間孝則『戦艦大和誕生』上 講談社 1999年、ISBN 4062564017
  • 前間孝則『戦艦大和誕生』下 講談社 1999年、ISBN 4062564025
  • 松本喜太郎 著・戸高一成 編『戦艦大和 設計と建造-大和型戦艦主要全写真+大型図面』アテネ書房、2000年、ISBN 4871522091
  • アテネ書房編集部 編『戦艦大和・武蔵戦闘記録』アテネ書房、2002年、ISBN 4871522105
  • 雑誌「丸」編集部 編『ハンディ判日本海軍艦艇写真集 戦艦大和・武蔵・長門・陸奥』光人社、2003年新装版、ISBN 4769807716
  • 呉市海事歴史科学館 編・戸高一成 監修『呉市海事歴史科学館図録-日本海軍艦艇写真集・別巻 戦艦大和・武蔵』ダイヤモンド社、2005年、ISBN 4478950547
  • 歴史群像『太平洋戦史シリーズ11 大和型戦艦』学習研究社、1996年、ISBN 405601261X
  • 歴史群像『太平洋戦史シリーズ20 大和型戦艦2』学習研究社、1998年、ISBN 4056019193
  • 歴史群像『太平洋戦史シリーズ50 戦艦「大和」』学習研究社、2005年、ISBN 4056038899
  • 歴史群像『太平洋戦史シリーズ54 戦艦「大和・武蔵」』学習研究社、2006年、ISBN 405604337X
  • 歴史群像『日本の戦艦パーフェクトガイド』学習研究社、2005年、ISBN 4056034117
  • 原勝洋『真相・戦艦大和ノ最後』KKベストセラーズ、2003年、ISBN 4584187576
  • 原勝洋『戦艦大和のすべて』インデックス・コミュニケーションズ、2005年、ISBN 4757302894
  • 渡部真一『戦艦大和99の謎』二見書房、2005年、ISBN 4576051415
  • 福井静夫 著作集『日本戦艦物語〔I〕』光人社、1992年、ISBN 4769806078
  • 福井静夫 著作集『日本戦艦物語〔II〕』光人社、1992年、ISBN 4769806086
  • 福井静夫 著作集『世界戦艦物語』光人社、1993年、ISBN 476980654X
  • 松本喜太郎 他『戦艦「大和」開発物語』光人社NF文庫、2003年、ISBN 4769823711
  • 平間洋一 編『戦艦大和』講談社選書メチエ、2003年、ISBN 4062582694
  • 高橋孟『海軍めしたき物語』新潮文庫 2000年、ISBN-10: 4103328010 ISBN-13: 978-4103328018/海軍の大和の位置づけ。「大和坂」の印象とそのイラストなど。

[編集] 関連項目

大和型戦艦は山本五十六零戦と共に架空戦記にしばしば登場する。作品によっては艦型や武装を変えて登場する場合もある。

[編集] 外部リンク

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最終更新 2009年12月8日 (火) 09:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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