大山倍達

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大山 倍達(おおやま ますたつ、男性、1923年(大正12年)7月27日旧暦6月4日) - 1994年(平成6年)4月26日)は、空手家であり、国際空手道連盟総裁・極真会館館長。本名は同じで、旧名(韓国名)は崔永宜(チェ・ヨンウィ、최영의)。極真空手十段。なお、韓国国籍では1922年7月27日生まれとしている。

1970年代週刊少年マガジンに連載された劇画空手バカ一代』でも、主人公として取り上げられた。

目次

[編集] 生涯

以下は本人著書・自称などに基づく客観的に確認できない情報を含んでいます。

全羅北道 金堤郡(現:金堤市) 龍池面 臥龍里にて、父・崔承玄(チェ・スンヒョン、최승현)と母・金芙蓉(キム・ブヨン、김부용)との間の6男 1女の第4子として生まれた(東京市杉並区出身としている場合もあり)。他にも崔猛虎(チェ・メンホ、최맹호)、大山猛虎、大山虎雄、崔倍達(チェ・ペダル、최배달)などを名乗っていたこともある。帰化した後の現在の本名である日本名が大山倍達。大山の姓は、書生として住み込んでいた大山家(大山茂大山泰彦の実家)の恩義から名乗ったとする説があり、日本名にも使った「倍達」とは、檀君神話に登場する伝説上の古代王朝、倍達国から。朝鮮民族は「倍達の民」「倍達民族」を美称として使うことがある。

幼少期は満州朝鮮半島で育ち、16歳で山梨県の山梨航空機関学校(現日本航空高等学校)に入学、石原莞爾の東亜連盟に参加、軍人を志すが、卒業する前に終戦となった。その後、卒業。拓殖大学司政科卒業[要出典]早稲田大学高等師範部体育科中退[注釈 1]

1938年(昭和13年)9月に空手道松濤館流船越義珍に師事、その後松濤館流と剛柔流を主に学ぶ。終戦後千葉を中心に民族運動に参加したとする説もある。また、「山篭り」で空手修行に励んだともいう。短期間ではあるが、1956年(昭和31年)に大東流合気柔術の吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術も学んだ。その他、講道館柔道アマチュアボクシングも研究している。

1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子と結婚。3人の女の子(留壹琴、恵喜、喜久子)をもうける。

1947年(昭和22年)に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝[注釈 2]1952年(昭和27年)にプロ柔道の遠藤幸吉四段と渡米、1年間ほど滞在して全米各地で在米のプロレスラーグレート・東郷の兄弟という設定(Mas. Togoのリングネーム)で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラープロボクサーと対決したとされる。ビール瓶の首から上の部分を手刀打ちで切り落とした時、観客は驚嘆し、「Hand of God」「Miracle Hand」などと形容された[要出典]

帰国後、を倒し(合計47頭、うち4頭は即死。)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年(昭和29年)として公開された。多くの武道家と交流し、また世界各国を巡りさまざまな格闘技を研究、空手の指導を行い、直接打撃制の空手(極真空手-フルコンタクト空手)を作り出した。

目白の自宅の野天道場、池袋バレエスタジオ跡の大山道場を経て、1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。豪快で情に厚い人物であったという。

1994年(平成6年)4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区聖路加国際病院で死去。70歳没。

大山の危急時遺言で、韓国にも戸籍上の妻と三人の息子がいることが判明。後に大山が日本国籍を取得した際も韓国国籍を抜いておらず、韓国日本の二重国籍者であることも分かった。

[編集] 人物

青年時代より、日本ボディビル界の祖と言われた若木竹丸の著書「怪力法」に影響を受け、戦後実際に若木よりウエイトトレーニングの指導を受けた。発達した胸筋と背筋のためレントゲン撮影では薄く影が出来るほどであったといわれる。またパンチ力の増強のために懸垂が有効と聞けば、最後は片手で懸垂を連続20回こなすほど腕力があった。

その反面、若い頃の大山の空手は、荒々しく実戦を重視しすぎていたため、巻き藁突きやサンドバッグ、組手稽古やボディ・ビルの鍛錬ばかりして、型の稽古を嫌い、たびたび先輩方から苦言を受けるほどであった。空手修行時の大山を知る空手関係者は異口同音に「彼は力は強いし、組手や実戦は強いが型は下手」と語っていた。壮年期から晩年にかけて好んで剛柔流の「転掌」や「鉄騎」を演じるフィルムが現存し重厚で見事な型稽古を見ることができる。大会においての最後の演武は創作型「円転掌」であった。

船越義珍から1年3か月で初段を得て以降、剛柔流の山口剛玄や曺寧柱(書籍における日蓮宗僧籍“曺七大師”)、大東流合気柔術の吉田幸太郎、朝鮮YMCAからアマチュア・ボクシング、ピストン堀口からプロボクシング(実際地方のボクシング興行で試合した経験もあり)、曾根道場での講道館柔道若木竹丸や井口幸雄などからボディ・ビルや重量挙げ、金城裕から沖縄空手との交流や空手界の古老との仲介役になってもらったりと、当時としても多岐に渡る格闘技武術関係者との親交を深める。

また、武術修行のみならず、船越門下では実力随一であった船越義珍の三男「義豪」を見舞ったり、本部朝基の弟子、山田辰雄(書籍では由利辰朗)、太気拳澤井健一、玄制流空手、躰道の祝嶺正献、虎殺しの空手家、山元勝王などとも親交を結んでいた。

1991年(平成3年)の第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会においてアンディ・フグフランシスコ・フィリォに止めが入った後、左上段回し蹴りにより失神したのを見て「止めが入ってたとはいえ、倒された者は勝者にふさわしくない」としフィリォの一本勝ちを認めた。

[編集] 組手スタイル

大山の組手スタイルを弟子はそれぞれ次のように証言している。

[編集] 石橋雅史

「立ち方は両足に均等に体重をかけた『自然体』に近い立ち方を用い、片方の掌で水月(鳩尾[みぞおち])をカバーしている。構えから間合い[注釈 3]をつめる場合は、ただ歩を進めるのではなく、掌を外側に向けて回しながら、掌の旋回がそのまま『掛け受け』になっている状態で前進する。大山先生は組手では決して後ろに下がることはなく、攻撃を捌きながら側面に回って反撃する動きを身上としていた。剛柔流の型を生かし、

  • 掛け受けからの掌底打ち
  • 手刀上段受けから正拳回し打ちまたは手刀打ち、
  • 相手の肘関節の逆を取る
  • 弓張受けからの孤拳[注釈 4]受け
  • 猫足立ち[注釈 5]から下突き[注釈 6]に繋ぐ掛け受け、
  • 猫足立ちから逆技につなぐ掛け受け

など、円型逆突きを基本にした掛け受けからの手技を多用し、手刀、回し打ち、掌底打ちなどの円の攻撃、また、相手の攻撃をかわしながら入る柔の歩法などに長じていた。しかも、その動きは剛柔流の型の中に見出せるものが多く、大山先生は、ある意味で伝統の空手の動きを組手でそのまま体現できる数少ない達人のひとりであった[1]

[編集] 安田英治

「僕が見てきた大山先生の組手は、様々な要素を取り入れて、相手に応じて変えていくもので『これ』と決まった形はなかった。追い突きよりも右の逆突きを得意とし、蹴りでは前蹴りが多かった。直線よりも、当然受けて打つんだけれども、それを円を描きながら回り込んでといった動きであった。受けるというのも普通にパンと受けるのではなく、引っ掛けていた。僕らなら上段受け、中段受けなんてやるけれども、大山先生は受けて掛ける。いろいろな武道を先生は学ばれたから、その中から生まれてきたのかもしれない。掛けて、相手の動きに合わせて捻ったり関節技をかけたり、それでも完全に極めることはあり得ないわけで、ある程度で止めていた。空手の中に違うものを入れていく、これは他の空手の師範にはない所で、格闘技的な要素を追求されていたのだと思う。前手か両手で掛け、回り込んでしまえば横に行く、相手は死に体になるから、後は突いても先生は柔道もなさっていたから、ポンと投げていた。蹴りがきたら、受けずに肘で落としたりもしていた。正拳突きを当てるにしても中段で、顔は掌底で押したりして、まともに当てることはしなかった。裏拳、回し打ち、振り打ちなどを回り込みながら使っていたが、剛柔流的な要素でしょう。とにかく技は多彩で、最終的には正拳が威力あることははっきりしてるけど、それを鳩尾でも形でしか当てなかった。接近したらヒジで突き上げるだけでなく、力があるからそのまま持ち上げて 3~4 メートルも投げてしまったり、縦横無尽だった[1]

[編集] 大山茂

「まず、大山倍達総裁の組手の構えは左足前の猫足立ちが多かった。得意技は貫手で目突きと金的蹴りという激しいものだった。貫手の目突きは、バラ手にして、スナップをきかせて目を突かれると、もう目から涙がポロポロ止まらない。左前蹴りのあと、右のバックハンドという回転技も良く使っていた。それとよく使っていたのは左足前の構えから「尾麟(びりん)の構え[注釈 7]」のように右手を前に出す。接近戦だと左足前なのに右手を前に出してきた。これで上体を逆にタメておいて左の掌底を出す。この掌底が真っ直ぐ来る時と振り打ち気味に来る時がある。ほとんど正拳は使わないで、ボディーを突く時でもコントロールして、ほとんど生徒にケガさせなかった。私は右の正拳が得意だったが、胸などはわざとたたかしてもらったが、胸の汗が私の目にバシッと入り、目がヒリヒリしたことを覚えている。『今のはいいね。もう1回来なさい』という感じだった。でもたいていは右の正拳で行くと左の掌底がカウンターで顔面に来て、次に総裁の右の拳などが飛んでくる。

総裁の組手で多かったものは、遠い間合いは両手を前に出して「前羽の構え[注釈 8]」で構えて、近づくとダイナミックな動きになる。よく使われていたコンビネーション[注釈 9]は、左足前の構えのままで右手を前に出し相手の前手をひっかけ左の掌底、このあとに右の貫手、右の金的蹴りへと繋げる。ストレートな攻撃が得意だった。蹴りも前蹴り、後ろ蹴りといった直線的な攻撃が得意だった。左の前蹴りを出して、回転して右の後ろ蹴りを出したりね。この時の後ろ蹴りは、腰を入れた横蹴りぎみのやつだね。私も参考にさせてもらった。でも、総裁の蹴りの中で一番危なかったのは何と言っても金的蹴りだね。泰彦なんかも当時一番動いたからね。よく金的蹴りを喰らっていた。当時は毎日、総裁ひとりで何十人も組手の相手をしていた。とにかく総裁との組手はいい思い出ですよ[1]

[編集] 大山泰彦

「大山総裁は左足前の半身の組手立ちに構えて、スーと前に出て左手で相手の前の手を落とす。その時総裁の右手は掌底で顔面カバーする。払った左手で裏拳左右打ちのような感じで『最破(サイファ)』の型通りに下からポーンと来る。時には奥の右手で髪を掴まれ、それで裏拳を決められたこともある。総裁は相手の左手を払った後、受けた自分の左手を胸までもってくる。そうすると相手の胸に向かって肘が出る。そこからパーンと裏拳がきて右の正拳がゴチン。勿論強くは当ててこなかった。あとよくもらったのが、右の踏み足で間合いを詰めて右の掌底の回し打ち。だいたい耳の辺りをパチンと引っ叩かれた。また私が左の前拳で突くと総裁は左手で突きを受け引っ掛けながら、右手は私の肩を摑んで私の体をくるっと回し、それからドーンと押したり、投げ技はずいぶん使っていた。

総裁は体は大きかったけれども、組手になると動きに柔らかさがあり、手が上から下から横から出たりしていた。普通の人だと一、二と真っ直ぐに来てそれから横の技となるんだけど、総裁の場合、いきなり裏拳だったり回し打ちが下からくる。ある時は裏拳打たれて右の正拳をお腹にポーンともらったり、ある時は摑まれて投げられたりした。とにかく総裁の両手が変幻自在で何が来るか、全く分からなかった。あとは目突きと金的蹴りかな。目突きは横から下からパッと入れられてしまうので『アッイテ』と思ったときには涙が出てた。金的蹴りも総裁の得意技で、蹴りを大きく蹴っていくとパチンとスナップをきかせて蹴られる。すると総裁は『キミ、金的は男の塊だよ。ケ、ケ、ケ』と(笑)。金的蹴りは私もよく真似した。

総裁はよく私の突きや蹴りをその大きな体で受けてくれた。『叩いてこい』というので、思い切り叩くと汗がパチッとはね返ってくる。『もっと強く』と再び言われ、『よーし』ともう1回叩くと上から掌底で頭をガチンと叩かれ、グシャと総裁の足元に潰されてしまう。でも、私たちには思い切りは攻撃しなかったね。裏拳でもキチっと握るんじゃなくて軽く握ってパンという感じだった。だから、総裁と組手をして次の日に残るケガというのはなかった。他の黒帯の人たちの方がイヤだったよ。総裁との組手はパチっと、のばされるんだけど気持ちよかった。泰彦、頑張れとそういう意味で叩いたと思う。それだけ弟子のことを思っていたんだと思うよ、総裁は[1]

[編集] 中村忠

「大山館長が僕らと組手をする時は、いつも受けの組手ですからね。攻撃をさせて、それを受ける。僕らは腹や胸をポンポンと突いても蹴っても構わない。そんな時の大山館長の組手の構えは、最初は「前羽の構え[注釈 8]」で、次に寄り足をして、「尾麟の構え[注釈 7]」、そして「龍変の構え[注釈 10]」で、スッと踏み込んでくる。この上下に回転する手が、裏拳に変化したり、相手の道着を手刀で引っ掛けたり、様々に変化する。今度は手が来ると思って上段をガードすると、ローキックのように足払いでいきなり倒される。まさに変幻自在で、こちらからは動きが読めない。でも、僕ら生徒とやるときはほとんど正拳を使わず、掌底で顔面にバチンときたり、水月やアバラを狙う時も掌底でしたね。掌底と言っても体重を乗せ、踏み込んで打ってくるのですごく効きますよ。僕も大山館長の掌底を脇腹に喰い、動けなくなったことがあります。

でも、僕なんかじゃなく、もっとうまい上手な先輩とやる時は正拳も使うこともありましたよ。僕は高一でまだ始めて間もない頃で館長も手加減してくれていましたが、安田先輩茂さん泰彦さんなんかと、組手をするときは激しくやってましたね。大山館長は右の正拳が得意だったようですが、直線的な正拳だけでなく、回して打つ正拳もよく使っていましたね。それが回し打ちとは違って、正拳の背刀部側の拳頭で打つんです。館長の正拳は普通の人の何倍も拳頭が大きく、いろんな角度から鍛錬されていましたから、その拳頭の背刀部側をフックのように使い、相手が前へ出てくると、サッと左側45度へ体サバキして、すれ違いざまに右の正拳回し打ちを当てるんです。ただし、顔面や水月は危ないので、わざと胸を狙って入れてましたね。

館長の組手は柔らかく受け、変幻するけれども、極めの時はウウッ!と腹から呼吸というか気合を出し、瞬間的にすごい威圧感を感じさせるんです。こちらは自由に攻撃させてくれるんですが、他から見るとあまり動いていないように見えるんです。実際に大山館長と向き合うと、撹乱されて攻められないんですね。上からくるか下からくるか?と思っているうちに倒されてしまう。最初は間合いが遠くて、こちらは突いたり、蹴ったりできるんですが、わからないうちにスーッと入ってきて、瞬間に何か小技を出してきてやられてしまう。今思うと、遠い間合いの攻撃も全て館長にコントロールされていたんでしょうね。館長はダイナミックな攻めの方に、接近すると相手の突きを孤拳で受け、その手を掌底に返して腹を打ったり、手刀に変化させたり非常に小技もうまい方でした。たぶん当時は30代前半の一番円熟していた時期だったんじゃないでしょうか。大山館長はあの大きな体で動きが速く、足も股割りで全部開く柔軟性をお持ちでした。回し蹴りも横蹴りも上段にヒュッと上がりましたよ。組手のときはほとんど中足で回し蹴りを使い、やはり強く当てないように気を使っていましたね。でも一番の得意技はやはり右の正拳で、掌底や孤拳はそれを使うための付随する技だったと思います[1]

[編集] 山崎照朝

「組手において私が大山総裁から学んだ最も重要なことは『技は力の中にあり』で、相手の構えを正面から崩していく破壊の組手であった。フットワークを使う動きをしてくる相手よりも、ガードが固く、どっしりと腰を落とした静の動きを持つ相手の構えはなかなか崩せない。総裁はこういう状態のとき、よくこう言われた。『何も体を打つ必要はない。正拳を打つんだ。相手の手を殴って崩せ。相手の出している前手を殴って、構えを崩して相手の中に入れ!』ということをいつも言っていた。『相手の構えが固ければ、それを力で崩していけばいいじゃないか』という正面突破の理論が総裁の考え方の根本にあると思った。『相手の拳が強かったら、相手の拳を殴って使えなくしてしまう。蹴りが強かったら逆に蹴り返して折ってしまう。相手の最も自信のある技を受けるのではなく、打ち砕いて戦意をなくしてしまう。これが極真カラテであり、組手の極意である』と常々仰っていた。相手の攻撃を受けるときも極真では真っ直ぐ直線で中に入って受ける。他流の場合、サイドに出て捌くのが一般的だけど、相手にしてみたら体勢をそれほど崩されないから、不利にならない。直線で受けるということは相手の攻撃のラインを変えるということだから、無駄な動きは不要になる。総裁の理論で『点を中心に円を描き、線はそれに付随するものである』という言葉があるが、これは自分が点になって直線で進むことによって相手を崩し、また相手の攻撃ラインを変えて、相手の背後に回りこむことで結果的に円を描かれるということで、自分の攻撃が必然的に防御になり、防御は攻撃になる“攻防一体”を意味している。総裁は私に『点を中心に円を描く、破壊の組手』を伝授してくれたと思っている[1][2]

[編集] 異種格闘技戦

US修斗の中村頼永は、1990年(平成2年)にロサンゼルスで出会ったミツ山下という柔術家から「大山倍達の異種格闘技戦を見たことがある。彼は凄い」という話を聞かされた。当時、山下はグレイシー柔術の中級者であり、ホリオン・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの長兄)の道場でアシスタント指導員をしていた。山下から聞かされた話を中村は次のように語る。

「40年くらい前に中学生の頃、ミツ山下氏はテレビで見たそうです。大山総裁は空手着でリングに上がり、相手は大柄なボクサーだった。大山総裁は素手でどっしりと腰を落として構え、フットワークは使わない。その周りを長身のボクサーがジャブを出しながら、フットワークを使い、回るという展開から始まりました。ボクサーはなかなかスピードのあるパンチを出すので、大山総裁も構えたままスキをうかがう展開が続きましたが、そのうち、なかなか飛び込めないので大山総裁はあきらかにイライラした表情になってきたそうです。大山総裁はしびれを切らしたように、相手に向かってジャンプ。これは前に鋭く飛び込んだのを外人(ミツ山下)だからこう表現したのでしょう。飛び込むや否やボクサーのボディーになんと貫手を一撃。水月(鳩尾=みぞおち)にモロに決まり、一発でボクサーはKOされたそうです。山下氏はグレイシー柔術をやっているため、空手や打撃系の格闘技はあまり認めない立場ですが、あの試合だけは凄かった。それは凄かった、とマス大山に関しては別格の存在として尊敬しているようです。また、ゴッドハンドが実際に戦ったときの様子を見たことを誇らしげに思っているようです。山下氏は格闘技の専門家であり、立場もある人物であり、さらに立場としては空手の敵役にある人物。その彼が話すことなので、これは信憑性のある話として受け取っていいと思います」

以上が中村の証言だが、大山茂はこの話を聞いて、「大山総裁の現役時代は、貫手はほとんど目を狙って出しており、右中段逆突きが非常に強く、それを喰って立ってられる人間はいないだろうというほどの威力だったから、おそらく、正拳だったであろう」と語っている。ただ、素手で手を開いて構えたところから、握りながら突き、即引き手をとると、空手を見慣れてない人(当時のアメリカ人で見慣れた人物がいるとは考えにくい)にとっては、貫手に見えることがある。いづれにしても仮にボクサーを倒したのが貫手ではなく正拳だったとしてもこの話の価値や信憑性が全くさがるものではない[1]

[編集] 10円玉曲げ

非常に握力の強い空手家であった。著書『強くなれ! わが肉体改造論』によると、若い頃の握力は100kgを超えていた。最近の検証では120〜130kgあったと言われている[注釈 11]。若い修行時代から、両手の五指の訓練は欠かさなかった。その結果、硬貨を、親指人差し指中指の腹の部分で押さえて曲げることが出来たとされる(「パワー空手」の記事による)。未だにこの記録を打ち破る者は、自らの弟子からも、それ以外からも出ていない。大山の著書には柔道家の木村政彦が実見しているとある。

目撃談として、剛柔流の山口剛史(山口剛玄の息子)が「1953年(昭和28年)に浅草公会堂で演武会を開いた時、10円玉を曲げていた。後で目の前でやってもらったこともある[1]」と言い、南本一郎[注釈 12][3]は「初めて会った時に、3つの指で10円玉を曲げたんですよ。それもハンパな曲がり方じゃなくて、しっかり曲がってた[3]」と証言している。

空手バカ一代』などの漫画でもこのエピソードが語られ、この際全身にジンマシンが出るという話を聞き、当時の週刊少年マガジン編集長が連載を決意したという逸話がある。劇中では「原因は不明だが人間の限界を超えた動きの副作用」というような表現がされていた(『男の星座』)。また貧乏空手家時代に、他人のオゴリへの返礼としてこの技を余興として見せたという。

これら(硬貨曲げ等)はトリックがあったと指摘する関係者もいるが、指摘の真偽は不明である。10円玉の硬貨折りを実見したと語る人も多数存在する。前述の証言をした山口剛史は幼少の頃、新年会や演武会で大山の硬貨折りやビール瓶の手刀斬りなどの神技を見るのが楽しみだったと語っている。

[編集] エピソード

宮本武蔵を深く尊敬していた大山[注釈 13]は、作家吉行淳之介と対談した際[4]、吉行から「五味康祐によると武蔵はホモだったそうですね」と言われたため、怒りのあまり吉行を殴りそうになったが、自制して手を出さず、怒りを顔に表すことすらしなかった。このため吉行は大山の怒りに気付くことなく平然と対談を終えたが、後日、知人を介して大山から危うく暴行を加えられる寸前だったと知り、恐怖におののいたと語っている。

横山やすしの弟子である横山ひろしによると、若き日のやすしがクラブで大山と遭遇した際に10円玉が曲げられるかどうかで言い合いになり、大山は「僕は曲げられるけど今日は帰るよ」と言い残し、やすしは「兄ちゃんちょっと待て!逃げんのかい」と絡んだ。なお、やすしは大山を何者であったのか全く知らずに、クラブのママから空手道場を経営されている人と紹介され「明日おまえんとこ決着に行ったるわ」と啖呵を切ったが、実際に行ったかは不明である。

[編集] 主な弟子

[編集] 主な孫弟子

[編集] 著書

[編集] 技術書

  • 『What is Karate?』 日貿出版社、1958年(昭和33年) ※世界で25万部のベストセラー
  • 『This is Karate』 日貿出版社、1965年(昭和40年)
  • 『Vital Karate』 日貿出版社、1967年(昭和42年)
  • 『ダイナミック空手』 日貿出版社、1967年(昭和42年)
  • 『Advanced Karate』 日貿出版社、1970年(昭和45年)
  • 『空手を始める人のために』 池田書店1971年(昭和46年)
  • 『100万人の空手』 講談社1975年(昭和50年)
  • 『わんぱく空手』 KKベストセラーズ1976年(昭和51年)
  • 『秘伝極真空手』 日貿出版社、1976年(昭和51年)
  • 『続・秘伝極真空手』 日貿出版社、1977年(昭和52年)
  • 『史上最強の空手を始める人に』 みき書房、1982年(昭和57年)
  • 『極真カラテ入門・マス大山が教える武道カラテの神髄』 池田書店、1983年(昭和58年)
  • 『これが試し割りだ』 日貿出版社、1984年(昭和59年)

[編集] 自伝

[編集] 武道論

  • 『わが空手五輪書』 講談社1975年(昭和50年)
  • 『極真への道-私の空手哲学』 日貿出版社、1975年(昭和50年)
  • 『世界に賭けた空手-5000万人日本脱出への提言』 潮出版、1976年(昭和51年)
  • 『わがカラテ革命』 講談社、1978年(昭和53年)
  • 『The Kyokushin Way』 日貿出版社、1979年(昭和54年)
  • 『わがカラテ日々研磨』 講談社、1980年(昭和55年)
  • 『わがカラテ覇者王道』 サンケイドラマ出版1982年(昭和57年)
  • 『わがカラテ求道万日』 講談社、1982年(昭和57年)
  • 『極真大道空手一代』 日貿出版社、1982年(昭和57年)
  • 『わがカラテ武道教育』 講談社、1983年(昭和58年)
  • 『青春をどこまでも熱く生きよ』 みき書房、1983年(昭和58年)
  • 『空拳士魂・わが極真の実像』 テレハウス、1985年(昭和60年)
  • 『昭和五輪書(地之巻)』 PHP研究所1983年(昭和58年)
  • 『昭和五輪書(水之巻)』 PHP研究所、1985年(昭和60年)
  • 『昭和五輪書(火之巻)』 PHP研究所、1986年(昭和61年)
  • 『昭和五輪書(風之巻)』 PHP研究所、1987年(昭和62年)
  • 『昭和五輪書(空之巻)』 PHP研究所、1987年(昭和62年)
  • 『極真カラテ21世紀への道』 徳間書店1992年(平成4年)
  • 『武道論』 徳間書店、1992年(平成4年) ※平岡正明と共著
  • 『勝負の鉄則』 PHP文庫1993年(平成5年)

[編集] 写真集

  • 『爆発マス大山空手』 勁文社1974年(昭和49年)
  • 『極真空手世界を征く』 講談社1975年(昭和50年)
  • 『一撃必殺空手いのち』 講談社、1976年(昭和51年)
  • 『必殺カラテ! わがいのち』 講談社、1979年(昭和54年)
  • 『大山倍達 空手極限の世界』 朝日出版社1984年(昭和59年)
  • 『ゴッドハンドの軌跡』 コア出版、1987年(昭和62年)

[編集] その他

  • 『限界の挑戦』 宝友出版、1977年(昭和52年)
  • 『強くなれ! わが肉体改造論』 講談社1985年(昭和60年)
  • 『自分に勝て! わが性格改造論』 講談社、1990年(平成2年)
  • 『わがカラテ日本への提言』 サンマーク出版1991年(平成3年)
  • 『マス大山の正拳一撃』 市井社、1994年(平成6年)

[編集] 大山倍達を題材にしたアニメ、映画

[編集] 日本

TVアニメ『空手バカ一代田中信夫、飛鳥拳 役、NETテレビ系、全47話、1973年(昭和48年)10月3日1974年(昭和49年)9月25日

映画:千葉真一

  • 『けんか空手 極真拳』 大山倍達 役、東映1975年(昭和50年)。
  • 『けんか空手 極真無頼拳』 大山倍達 役、東映、1975年(昭和50年)。
  • 空手バカ一代』 大山倍達 役、東映、1977年(昭和52年)。

[編集] 韓国

映画:ヤン・ドングン

[編集] 注釈

  1. ^ 早稲田大学高等師範部国民体錬科は1946年(昭和21年)に体育科と改称され、1951年(昭和26年)に高等師範部は教育学部に改組された。
  2. ^ 京都座における京都文化協会主催の体育大会を指すとして、はっきりとしたルールのある「大会」では無いとする説がある。
  3. ^ 対戦相手と自分の距離のこと。間合いを見極めることで自分の技を相手にヒットさせることができる。間合いには以下の3通りがある。
    • 限度間合い - 一撃では攻められず、かといって追撃をかけても逃げられる間合いで、相手の攻撃パターンを読むまでの一時的なものとして用いられる。
    • 誘導間合い - どちらか一方が誘いを入れる間合いで、待ち拳として用いる。
    • 相応間合い - 両者が互角の力量で戦う場合の、共に攻撃範囲内にある間合いのこと。
  4. ^ 手首を掌底とは逆にそらし、曲がった関節部分のこと。
  5. ^ 後屈立ちよりも歩幅が狭く、体重は 100 パーセント後足にかけ、前足はつま先が床に触れている程度にする。
    後屈立ち - 前足はつま先につけ、前足と後足は30対70の割合で体重をかける。
  6. ^ 構えた手を相手の顎や身体の肝臓などに下から突き上げる。ボクシングのアッパーカットに類似した技である。
  7. ^ 「龍尾の構え」とも呼ばれ、前足側の手で手刀受けから上体をひねり後ろ足の手を上から落としてくる構えのこと。
  8. ^ 手刀を前に出し、前足側の手をやや上にした防御力のある構えで後屈立ちか、猫足立ちで構える。
  9. ^ 複数の技を組み合わせ、連続で繰り出し攻撃すること。
  10. ^ 「上下の構え」とも呼ばれ、手刀受けから相手の突きを落としたり、蹴りへ移行する時などに使われる。両腕を地面に平行にして交互に円を描き、間合いをつめる。
  11. ^ 日本拳法の選手が握手をしてもらった後に、選手の手の平には手形の跡が残るほど強烈な握手だったとの伝聞が存在する。
  12. ^ 大山道場で師範代を務めた強豪。日本大学剛柔流空手道部出身で石橋雅史の後輩である。大学在学中に浅草の剛柔流本部で大山倍達と知り合い、大山が池袋の立教大学裏で道場を開設した時に南本は道場での指導を頼まれ、大山道場初期の門下生を指導した。相手を羽目板まで追い込んでも攻め続けたという厳しい姿勢を持ち、大山道場に「負けてはいけないんだ」という闘争心を持ち込む指導をした。その後、仕事の都合で道場へ通えなくなったことから、指導の引継ぎを先輩の石橋に頼み、大山道場を去った。
  13. ^ 大山は歴史小説『宮本武蔵』の作者である吉川英治に知己を得ており、極真会館の道場訓は吉川の監修を得たものである。
  14. ^ 大山道場時代の強豪。個性的な戦い方をする門下生が多い中で岡田は、地に則った基本、理にかなった型、華麗な組手をし、試割りなど何をやらせても「これぞ空手だ」という動きを見せた空手家である。その実力は、タイ遠征メンバーにも選ばれていた。しかし、度重ねる遠征の延期により、結局辞退した。中村忠、盧山初雄ら多くの後輩が、彼の戦い方に憧れや影響を受けている。また、大山倍達が1965年(昭和40年)に日貿出版社から発行した英文のカラテ技術書 "This is KARATE" に岡田は、基本形のモデル、ビール壜割りの実技など多くのカットに登場している。
  15. ^ 第3回、第4回全日本選手権ベスト8。第9回全日本選手権ベスト16。マス大山カラテスクール実技道場の指導員も務めた。鈴木は、幼児期の長患いで下肢は常人と変わらないが背骨の成長を妨げ、身長が 150 センチメートル余りしかない体格にもかかわらず、上段回し蹴りや二段蹴りを得意とした。現極真館吉川支部長。
  16. ^ 第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は国際武道連盟・極真空手 清武会の師範である。
  17. ^ 現・極真会館松島派代表。総本部指導員を経て、シンガポールで1年間指導後、郷里の群馬県で支部を開設した。
  18. ^ 添野義二が設立した極真会館傘下城西大学空手道部出身で第二期生。後輩に三浦美幸吉岡幸男(注釈29)花澤明(注釈30)がいる。在学中に第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場。2回戦で添野と対戦し、敗退した。卒業後、北海道支部設立に尽力し、同地の支部長に任命された。また、全日本選手権やオープントーナメント全世界空手道選手権大会主審副審を務めている。2000年(平成12年)以降、糖尿病で体調を悪化。人工透析を受ける日が続き、2005年(平成17年)10月7日死去。56歳没。
  19. ^ 極真会館本部道場内弟子出身。第12回全日本選手権に初出場で7位。第13回全日本選手権7位、第14回全日本選手権5位、第15回全日本選手権3位、第3回全世界選手権出場。優勝候補の一人に挙げられ、人間風車の異名を持ち、身長 197 センチメートル、体重 98 キログラムの南アフリカのケニー・ウーテンボガードと対戦。延長4回に及ぶ死闘となったが、惜敗した。この試合は同選手権の屈指の名勝負の一つに挙げられている。第16回全日本選手権準優勝。その後、極真会館を離れ、大沢ジムに入会し、キックボクシングへ転向した。デビュー戦から13連続KO勝ちをし、MA日本キックボクシング連盟ウェルター級新人王を獲得。そしてMA日本キックボクシング連盟ミドル級チャンピオンの座にもついた。タイ遠征も行い、ノップディに判定負けしたが、ラクチャートに勝ち、その試合を最後に引退した。
  20. ^ 1961年(昭和36年)9月2日生まれ。青森県出身。本部道場所属。身長 185 センチメートル、体重 110 キログラム。第12回全日本選手権でデビュー後、全世界選手権、全日本選手権、全日本ウエイト制重量級に参戦すること実に20回。ウエイト制重量級で4度チャンピオンに輝いている。ちなみに通算成績は88戦70勝18敗。全日本選手権は第24回、第25回の4位が最高。全世界選手権では第4回、第5回で7位が最高と上位入賞を果たすが、優勝を獲得することができなかった。しかし、その攻撃力は怪物と呼ばれ、突き蹴り共に激しいものがあるが、特に膝蹴りは強烈であった。現在は全日本極真連合会の理事を兼務しながら、沖縄支部を管轄している。
  21. ^ 極真会館秋田支部所属で、第3回全日本空手道選手権に初出場。第4、5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回全世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き前蹴り回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから闘将と呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦で一本負けをし、引退。現在は新極真会の秋田本庄道場の師範である。
  22. ^ 浜井識安の石川支部出身。第13回全日本選手権初出場し、4回戦で竹山晴友(注釈19)に敗退。しかし、第14回全日本選手権では中村誠を破ったブラジルアデミール・ダ・コスタ松井章圭に勝ち、決勝進出。三瓶啓二に惜敗したものの準優勝した。第3回全世界選手権にも出場し、第16回全日本選手権では竹山と再戦したが、判定負けで3位入賞。これを最後に選手権大会から退く。岡山県支部長に就任して、現在では松井派から離れて、極真会館 極眞會の代表である。

[編集] 脚注

  1. ^  『拳聖 大山倍達 地上最強の空手』 福昌堂、1998年(平成10年)4月1日発行、3-19頁、23-46頁、117頁。
  2. ^ 山崎照朝 『無心の心』 スポーツライフ社、1980年(昭和55年)、156頁。
  3. ^  『蘇る伝説「大山道場」読本』 日本スポーツ出版社2000年(平成12年)1月4日発行、42-49頁。
  4. ^吉行淳之介 対談 浮世草子三笠書房集英社1971年(昭和46年)。
  5. ^  『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年(平成9年)、49頁、60頁、114頁、116-117頁、150-151頁。

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最終更新 2009年11月20日 (金) 18:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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