大川興業
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| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 | 非上場
|
| 略称 | 大川興業 |
| 本社所在地 | 日本 〒108-0073 東京都港区三田三丁目2番1-711 |
| 電話番号 | 03-3457-7625 |
| 設立 | 1985年 |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | マネージメント業など |
| 代表者 | 代表取締役総裁 大川豊 |
| 資本金 | 1,000万円 |
| 主要株主 | 江頭2:50 |
| 外部リンク | www.okw.co.jp/ |
| 特記事項:江頭2:50が総裁を務めた(2001年-2006年)頃、「大川豊興業」と自称していた(沿革の節を参照)。 | |
大川興業(おおかわこうぎょう)は、日本のお笑いグループ及び芸能事務所。
- 大川興業 - 大川豊を中心とするパフォーマンス集団。かつては太田プロダクションに所属していた。
- 大川興業 - 日本の芸能事務所(商号は「大川興業株式会社」)。「大川豊興業」と自称していた事もある(沿革の節を参照)。
なお、埼玉県日高市でソープランドやストリップ劇場等を経営する『大川興業』[1]とは同名の商号であるが関係は無い。
2は1に由来し、いずれも大川豊が関係している。本項目では双方を取り上げる。
目次 |
[編集] 概要
江頭2:50が最も有名。ナンセンスな笑いを提供する一方、大川は一種の文化人として政治的な発言をすることも多い。特に泡沫候補への造詣が深く、彼らを「インディーズ候補」と呼び敬意を表している。
男塾の有名な訓練「直進行軍」を漫画より先に1986年放送の鶴ちゃんのプッツン5のコーナー「南南西に進路をとれ」でやっていた。北海道の札幌時計台から日本テレビまで直進するという内容。結局たどり着けず。
[編集] 沿革
大川豊が、明治大学在学中に学ラン集団“大川興業”を結成。在学中からセミプロの芸人集団としてテレビなど各方面で活動。出演した番組には、テレビに出たいやつみんな来い!!などがある。角刈り頭に斜めのサングラスという出で立ちの大川を中心に、バンカラの応援団風パフォーマンスを展開し話題になる。 この時代の代表作に花火三連発がある。
大川の就職活動失敗の後、1985年に大川興業株式会社を設立し、自分で自分に内定を出す。当初の本店所在地は東京都板橋区常盤台、資本金は100万円(1989年に200万円に増資)であった。
明治大学の仲間が次々と就職しメンバーから脱退すると同時に、慶應、法政、日大、などから新たにメンバーが加入。学生サークルから徐々にプロ化していく。 オールナイトフジの裏番組であるテレビ朝日系ミッドナイトin六本木でアダルトビデオ紹介のコーナーを担当し、毎週パフォーマンスを披露し徐々に知名度を上げていく。 そして1985年後半より太田プロダクションに所属することになった。
太田プロダクションに所属した後、鶴ちゃんのプッツン5、鶴ちゃんのおもいっきりポコポコ、夕焼けニャンニャン、花王名人劇場、冗談画報、TBSドラマ親にはナイショで…、ズームイン!!朝!の生CM、ヤンヤン歌うスタジオ、24時間テレビ、痛快なりゆき番組 風雲!たけし城など数々の番組に出演。 フライデー襲撃事件によるたけし軍団の謹慎中は、山田邦子司会のスーパージョッキーで毎週ダチョウ倶楽部と熱湯風呂対決を行っていた。 東芝EMIからシングルレコード「童貞あずけます」(作詞・秋元康、作曲・見岳章)をリリースするが、まったく売れず。ちなみにB面は学習研究社のBOMB編集部が当時売り出し中だった田中美奈子と一緒に歌った「グループ交際のすすめ」だった。大川興業もコーラス参加している。 同じ頃、スキー用品のアルペンや、ライターメーカー・東海の使い捨てカイロ「ホットマン」のCMにも出演していた。
同時期の太田プロダクションの新人芸人としてダチョウ倶楽部やおきゃんぴー、ペコちゃんがおり、合同でお笑いライブ活動も行っていた。 亀戸エルナードでは、岡安由美子率いる秘密結社Gと一緒に定期的なイベントに出演していた。
その後、太田プロダクションから独立し、自らの会社「大川興業」を基盤とした活動に移行していく。 尚、独立に際しては「爆笑問題と違い、筋を通して円満に辞めている」と大川は語っている。
1990年の商法改正により株式会社の最低資本金が1000万円と定められたため1996年3月31日付で会社解散の危機に陥ったが、この直前に構成員(大部分は江頭2:50の出資)により800万円の増資が行われ、会社存続を果たした。1997年には、本店を実質的な本社所在地である港区三田に移転登記している。
1994年10月、埼玉県新座市の新座サティでの公演中、木登りのパフォーマンスを行っていたメンバーのピグモン勝田が転落するという事故が発生。大川はマスコミに対し「皆さん、勝田の無事を祈ってください!」と涙ながらに土下座し訴えたが、直ぐに「…こんな(態度)のは総裁ではない!」と涙を拭った。大川の願いは叶わず、勝田は公演翌日の早朝に息を引き取った。事故直後に予定されていた舞台公演が中止になりかけたが、勝田の父親と高田文夫の「舞台が一番の供養になる」との助言により、舞台公演は行われることとなった。
1992年ごろから、若手お笑い芸人の登竜門としてライブ「すっとこどっこい」を開催し、現在も続けている。ダンディ坂野や、日本初の身体障害者お笑い芸人と言われるホーキング青山らが初舞台を踏んでいる。 このライブには一時期東京ダイナマイトもレギュラー出演していた。
2001年、自由民主党総裁選をまねて、初の大川興業総裁選を実施したところ、江頭2:50が総裁に選ばれてしまうという珍事がおこった。その後の話で、実は、江頭2:50は組織票を持っており、新人に指示してあちこちのネットカフェに行かせて投票させていたことが判明した(大川豊談)。以後、大川豊が代表取締役であることと区別するため、社名を「大川豊興業株式会社」に変更(ただし、登記上の商号は「大川興業株式会社」のままであり、「大川豊興業株式会社」に変更された形跡はない)。5年後の2006年9月、自民党総裁選より一足早く、第2回大川興業総裁選が実施され、大川豊前総裁が返り咲いた(ただし、公式ウェブサイト上ではいまだに「大川豊興業」の表記が見られる)。
過去に、大川本人は軽自動車税を支払うことができず、板橋区に差し押さえされた事があるなど、大川や大川興業にはこういった金欠エピソードが多数あるが、実はイメージ作りのための一種のパフォーマンスではないかという見方が根強く存在する。
2003年より下北沢スズナリにて、90分の間ほぼ暗闇の中で繰り広げられる大川作・演出の芝居「Show The Black」「Show The Black II」を上演。初期の活動から、パフォーマンスユニットというイメージを色濃く持たれがちだが、笑いをベースにしながらも実に重くシリアスなテーマを取り扱っている。
[編集] 在籍者
[編集] 構成員
[編集] 準構成員
[編集] 元構成員
- 松本キック
- フランキー為谷
- ハウス加賀谷
- コンタキンテ
- ピグモン勝田 1994年、大川興業公演中に事故死。享年29。
- プチ鹿島(俺のバカ)
- バカ野坂(元・俺のバカ)
- 三平×2(ペイパービュウ)
- 見た目が邦彦(ペイパービュウ)
- 渋谷道玄坂
- 松永良一(現 平和島競艇場実況アナウンサー)
[編集] 太田プロ時代(1985-1988)の構成員
- 山川宏(まるぞこフラスコ)S40.11.12 AB型 慶應義塾大学理工学部在籍(当時)。当時は副総裁であった。ベトナムに移住。
- 山田隆明(左門豊作)S39.5.20 A型 帝京高校出身某大学在籍(当時)
- 加富直人(加富鶴亀テング)S41.1.20 B型 法政大学社会学部在籍(当時)。坊主頭の風貌で、パフォーマンス中も正座のまま。
- 中山晴雅(あぶらむし)S41.4.23 B型 日本大学法学部在籍(当時)
- 山内守(鰻家小太郎)S35.6.23 O型 ガラス屋。後にハングライダーのインストラクターとなる。
- 山内康治(山内コージ)S38.2.27 B型 漫画家。離脱後ジーコ内山の名前でいくつかの映画に出演。
- 北野恒安(ホツテントット)S37.9.24 AB型、明治大学政経学部在籍(当時)。卒業後ぴあに就職。
明治大学学生サークルの延長線上に存在した時代のメンバー構成となっている。 当時同じ事務所だったたけし軍団に倣い大川総裁が上記のような芸名をつけたが定着せず、実質本名での活動であった。 寺田体育の日はこの時代にメンバー入りしている。
[編集] 離脱時期不明
[編集] 関連項目
- 創 (雑誌)
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年8月19日 (水) 22:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【大川興業】変更履歴

