大彦命
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大彦命(おおびこのみこと、生薨年不詳)は古代日本の皇族。大毘古命とも言う(『古事記』)。孝元天皇の第1皇子で、生母は皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇と少彦男心命(すくなひこをこころのみこと。『古事記』では少名日子建猪心命(すくなひこたけゐこころのみこと)に作る)の同母兄で、垂仁天皇の外祖父に当たる(#系譜についての諸説参照)[1]。崇神天皇(大彦命の甥に当たる)の時代の四道将軍の1人で、北陸道を主に制圧した。
目次 |
[編集] 事跡
記紀によれば、崇神天皇10年9月甲午(9日)、勅命により四道将軍の1人として北陸地方に派遣されるが、出陣の道中で不吉な歌を詠う不思議な少女に会ったので、引き返してこのことを報告、倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇皇女。大彦命のおばに当たる)に占わせたところ、武埴安彦命とその妻吾田媛の謀反を告げるものと判明し、果たして実際に謀反が起こると、彦国葺と共に武埴安彦を討ちとり、吾田媛は吉備津彦命が討ってこれを鎮圧したという。その後北陸へ赴き、越国の土着の豪族たちを平定して同天皇11年4月己卯(28日)に帰命した。大和朝廷の基礎を築いたといわれる。
ちなみに『古事記』は、北陸平定後に同じく四道将軍の1人で東海地方を平定した子の建沼河別命と合流した場所が相津、現在の福島県会津であると、会津地名の由来を伝えている。
[編集] 系譜についての諸説
大彦命は、崇神天皇の伯父に当たり、その皇后である御間城姫(みまきひめ)の父として垂仁天皇の外祖父に当たるとされているが、この記紀系譜に対する疑問が呈されている。その説によると、「景行天皇紀」53年に登場する大彦命の孫磐鹿六雁の存在[2]、あるいは下述する稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文に記された「意冨比垝」を大彦命と見た場合のその系譜の代数から[3]、大彦命の活躍した時代は西暦3世紀末から4世紀初頭で、崇神天皇より1世代後の人物と考えるのが妥当であるとし、その1世代後、すなわち垂仁天皇の時代に起きた沙本毘古王の乱と大彦命の関係した武埴安彦の乱とは地域の重なりなど類似性が高い点も指摘している。また、大彦命の異母兄弟である彦太忍信命の王孫(『書紀』)とも王子とも(『古事記』)される武内宿禰が、第13代成務天皇(垂仁天皇の皇孫)と同じ日に生まれたとされるているので、このことも大彦命が垂仁天皇の時代の人物である可能性の高いことを示している、としている。
これとは別に、埼玉県行田市の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(おわけのおみ)の上祖、意冨比垝(おほびこ)と同一人である可能性が高いともされており、同銘文によると、意冨比垝の8世の子孫である乎獲居臣が鉄剣を鍛造したとある。この場合、乎獲居臣を大彦命の後裔を称する阿倍氏か膳氏の一族ではないか、と見る解釈が多いが、その後の時代、北武蔵で大きな勢力を築いていた壬生吉士(難波吉士と同族)の可能性もあるとされる。川口勝康(首都大学東京教授)は「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎獲居臣なる人物の系譜にみえる上祖の意富比垝は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い」としつつも、その実在性には慎重で、当時著名であった大彦命の東征説話を知った乎獲居臣がその祖を大彦命に求めたものであろうと解説し[4]、岸俊男(京都大学名誉教授)は「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ)であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている」と解説する[4]。更に、安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豊韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとするが[5]、豊韓別命が武渟川別の子とされるのに対し、鉄剣銘文では弖已加利獲居は多加利足尼の子である。いずれにせよ、この部分の系譜にはかなりの混乱が認められる。
なお、大彦命の王女で崇神天皇の皇后とされる御間城姫を『古事記』に見える崇神天皇の同母妹、御真津比売命(みまつひめのみこと)と同一人物であると説くものもあるが、同名異人と見た方が適切であろう[6]。
[編集] 後裔氏族
阿倍臣を始め、膳臣(かしわでのおみ)、阿閉(敢)臣(あへのおみ)、沙沙城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣の7氏の始祖とされ(『書記』)、その他那須国造、難波吉士などの諸氏族の祖とも伝えられている。ちなみに各氏族によって祖神として祀られたと推測される神社が各地にある。
[編集] 大彦命を祀る神社
ほか


