大映ユニオンズ

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大映ユニオンズ
創設年度 1946年(一軍)、1948年(二軍)
解散年度 1957年
所属リーグ
パシフィック・リーグ(一軍)、イースタン・リーグ(二軍)
歴代チーム名
一軍
二軍
  • 金星リトルスターズ(1948年)
  • (不明)
  • 大映ジュニアスターズ(1955年
  • (リーグ中断のため不明)
本拠地
収容人員 30,000人(開場時)
フランチャイズの遍歴
永久欠番
なし
獲得タイトル
日本一(0回)
なし
リーグ優勝(0回)
なし
成績(タイトル以外)
球団組織
オーナー 永田雅一
運営母体 大映(解散時)
監督 松木謙治郎(解散時)

大映ユニオンズ(だいえいユニオンズ、Daiei Unions)は、1946年から1957年まで活動していた日本のプロ野球球団。

目次

[編集] 歴史

[編集] ゴールドスター→金星スターズ

戦中に存在した朝日軍の選手らを中心に1946年ゴールドスターを結成。同年2月18日リーグに加盟。愛称は「金星」で「金星ゴールドスター」とも呼ばれた(参照)。スポンサーは田村駒次郎(松竹ロビンス系統のスポンサー)が運営していた奈良市工場。1947年ニックネーム導入に際して通称名の金星を取り入れ金星スターズに改称。1948年、経営難のため旧国民リーグ大塚アスレチックスを率いていた大塚幸之助に250万円で球団を売却。国民リーグからは8人の選手が合流したが、金星スターズの名称は変更されなかった。

このとき一軍ベンチに入れない選手を金星リトルスターズとして全国を巡業させ、各地のセミプロ・ノンプロと戦わせていた。ファームが一軍と離れて興行をしたほぼ初めてのケースといわれている。当時、ファームの本格的なリーグ戦はまだ存在していなかった。リトルスターズの監督には国民リーグの旧結城ブレーブス監督、石本秀一を充てた。

[編集] 大映スターズ

1948年12月21日、同年1月に大塚アスレチックスと当時リーグ未加盟だった大映球団を巡業させ、同年、急映フライヤーズの経営に参加した大映が金星スターズを買収し、大映スターズとなった。それによって、大映はフライヤーズの経営から手を引き、旧大映球団からフライヤーズに預けていた選手をスターズに移籍させている。

1950年の2リーグ分立後はパシフィック・リーグに所属した。

この頃編纂された大映本社の「大映十年史」には「輝ける大映スターズ」として頁が割かれている。

[編集] 大映ユニオンズ

1957年2月25日、かねてから経営が逼迫していた高橋ユニオンズを吸収合併し大映ユニオンズとなった。その後1958年に毎日オリオンズと合併し大毎オリオンズとなった。

[編集] 補遺

大毎オリオンズの後身・千葉ロッテマリーンズの球団史において大映ユニオンズは傍系扱いであり、結成年度・その他記録は一切カウントされない事になっている。

[編集] チームの特徴

戦前・戦中からの選手を中心に旗揚げしたこともあってか、選手や監督は新鋭球団のそれとしては非常に豪華な顔ぶれである。名古屋軍の名外野手だった坪内道則、のちに中日の中心打者として活躍する西沢道夫、のち松竹ロビンスの中心打者の小鶴誠、剛打で鳴らした飯島滋弥東京巨人軍の名投手ヴィクトル・スタルヒン。生え抜きではパ・リーグ初のノーヒットノーランを達成した技巧派林義一。監督に目を向ければ前述した坪内(兼任監督)に始まり藤本定義松木謙治郎と非常に質の高い人選だった。

[編集] ユニフォームの変遷

大映スターズ時代のユニフォーム
ベルトのバックルは、スターズ(STARS)をもじってS字のシルエットになっており、中間に斜めにライトブルーの線が入り、左上がレッド、右下にブルーの七宝焼き?が入る。
また、左上に大映球団のマーク、右下に「DAIEI」のロゴと「STARS」のロゴが入っている。 プロ野球ユニフォーム用のバックルとしては手の込んだ造り。

[編集] チーム成績・記録

  • Aクラス・3回(1949年~1950年、1953年)
  • Bクラス・9回(1946年~1948年、1951年~1952年、1954年~1957年)
  • 最多勝 67勝(1949年)
  • 最多敗 94敗(1956年)
  • 最多引分 8分(1951年)
  • 最高勝率 .543(1953年)
  • 最低勝率 .318(1957年)

[編集] その他の記録

  • 最小ゲーム差 6.5ゲーム(1953年)
  • 最大ゲーム差 46ゲーム(1954年、1955年)
  • 最多本塁打 130本(1949年)
  • 最小本塁打 8本(1946年)
  • 最高打率 .272(1949年)
  • 最低打率 .213(1957年)
  • 最高防御率 2.67(1953年)
  • 最低防御率 4.15(1949年)

[編集] 歴代本拠地

[編集] 歴代監督

[編集] エピソード

[編集] 前身チームと戦時体制

大映球団の母体の一つである産業軍は、新愛知新聞社が保有していた名古屋軍が1944年に改称したものだが、この親会社である新愛知新聞社は長年競合関係にあった名古屋新聞社1942年に対等合併し、中部日本新聞社となっていた。

名古屋新聞社は1936年にプロ野球球団名古屋金鯱軍を結成していたが、戦局の悪化で1941年翼軍との合同を余儀なくされ大洋軍となり、さらに旧翼軍側の都合で1943年球団経営は西日本鉄道に肩代わりされていた。従って一方の金鯱軍を手放したのだから名古屋軍も手放すべきだという意見が出て、暫くは中日本体から離れ、同社取締役の大島一郎が個人的にスポンサーとなっていたが、結局名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団を引き継いだ。赤嶺は軍需産業の理研工業をスポンサーに付け、選手を理研工業の工場従業員として従事させる事で戦中の球団維持に成功した。

1946年、理研工業の解体で拠り所を無くした赤嶺は、再度中日の大島一郎をスポンサーに付ける事に成功。しかし、スポンサーだったはずの中日は一転して球団経営権にも介入。遂に元来前身の新愛知新聞社が保有していた球団なので、元の鞘に収まったのだとして、事実上赤嶺から球団経営権を奪還した(現在の中日ドラゴンズ)。赤嶺は追放に近い形で退団を余儀なくされたが、赤嶺に義理を感じていた一部の選手は行動を共にし、大映球団結成に動いた。

一方の母体である金星スターズは、田村駒社長の田村駒治郎が保有していた朝日軍が戦時体制で球団を維持できなくなり、やむなく田村駒系企業の奈良に所在する工場長をしていた橋本三郎[1]が田村から球団を預かり、選手はこの工場の職員として従事させる事で球団を維持していた。1946年、橋本はそのまま田村駒から独立し、大部分の朝日軍選手を母体にゴールドスターを結成。田村の猛反発を受けるも、既得権を盾にプロ野球参入に成功した。

[編集] 大映と東急の合同

東急は1947年にセネタースを買収してプロ野球に参入したものの、赤字経営により球団首脳は売却を検討していた。一方、大映は赤嶺軍団を中心としたチームを結成し1948年に連盟に加入を申し入れたものの拒否されてしまった。この時東急が球団を手放したがっている情報を得た永田雅一は東急球団社長の猿丸元に球団買収を申し入れ。猿丸は東急本社の役員会議で了承を得ようとしたが、経理局長だった大川博が異議を唱え、売却は流れてしまった。

しかし、東急は傘下の東横映画の設立に当たって撮影所・機材等の面で大映の協力を得るなど多大の借りがあることから、球団経営に参加することまでは拒むことが出来ず、結果「急映フライヤーズ」となる。

[編集] 盗難騒動

1946年6月1日、対パシフィック3回戦(後楽園球場)を控えた午前10時頃、球場に到着した坪内道則監督と橋本三郎球団代表が、ロッカーに泥棒が入りユニフォーム帽子ストッキング・スパイク・グラブバットなど用具一式が盗まれているの発見。急ぎ東京中の用具店を駆け回るが戦後すぐの混乱期で物が揃うはずもなく、パシフィック監督の藤本定義に事情を説明し余っている用具を借り受け、それでも足りない分は後楽園の職員野球チームから借りることになった。ユニフォームは裏返して着、試合は開催された。

[編集] ロンゲストゲーム

1953年6月25日開催の対近鉄パールス戦(後楽園球場)は19時12分に試合開始し延長22回まで戦ったが、当時のナイトゲームの規定で23時45分を過ぎて次のイニングスに入らないという取り決めから、そこで打ち切られるまで、実に4時間33分という当時としては最長時間試合を戦った。試合は結局4-4のドローで決着が付かなかった。

[編集] 西京極球場

大映は関東のチームであったが、永田雅一オーナーが京都府出生だったこと、また大映が太秦撮影所を設けていたこともあり、1954年から1957年にかけては京都市西京極球場でも主催公式戦を開催している。1954年は5試合を開催。翌1955年は15試合を開催し、準本拠地的な位置づけだった。しかしその後は後楽園と駒澤野球場での開催に重きを置いたため、1956年と1957年は各4試合の開催にとどまった。

[編集] 脚注

  1. ^ サッカー日本代表選手の橋本英郎の祖父。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年10月4日 (日) 16:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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