大木金太郎

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大木 金太郎
プロフィール
リングネーム 大木 金太郎
本名 金 一
ニックネーム 日プロ若手三羽烏
石頭 韓国の猛虎
身長 185cm
体重 120kg
誕生日 1929年2月24日
死亡日 2006年10月26日(満77歳没)
出身地 朝鮮半島全羅南道
トレーナー 力道山
ミスター・モト
芳の里淳三
デビュー 1959年11月
引退 1995年4月2日
  

大木 金太郎(おおき きんたろう、1929年2月24日 - 2006年10月26日)は、韓国全羅南道出身の元プロレスラー。本名は金一(キム・イル、김일)。身長185cm、体重120kg(現役当時)。生年はかつては1933年とされていた。

目次

[編集] 来歴

1958年に、同郷の英雄力道山に憧れて漁船日本に密入国し、プロレス入りのチャンスをうかがっていたが、1959年入管法違反で逮捕される。力道山が同郷のよしみで身元引受人となり、日本プロレスコミッショナー大野伴睦代議士を動かしたことで釈放され、「日本プロレス」に入門し同年11月にプロレスデビュー。翌年にはジャイアント馬場アントニオ猪木が入門・デビューし、「若手三羽烏」と称された。

1963年アメリカ武者修行に旅立ち、ミスター・モトとのタッグチームWWA世界タッグ王座を獲得するなど活躍したが、同年12月8日に力道山が刺され12月15日に死亡したことで、力道山を心の拠り所にしていた大木は居場所がなくなり、韓国へ一旦帰国した。韓国では「大韓プロレス」のエースとして、様々な企画を成功させ韓国プロレス界の発展に尽力した。

その後豊登が「東京プロレス」を旗揚げし、アントニオ猪木も日本プロレスを去って東京プロレスに参加したため、「日本プロレス」はその穴埋めに大木を韓国から呼び戻すと、「金剛山金太郎」のリングネームで売り出そうとしたが失敗。「大木金太郎」へと戻り「日本プロレス」No.2のレスラーとして活躍していたが、東京プロレスは崩壊しアントニオ猪木が出戻り、再び馬場・猪木の陰に隠れた存在となった。

1967年6月に、韓国のソウルマーク・ルーインからWWA世界ヘビー級王座を獲得し名実共に韓国プロレス界のトップに立ったが、短期間でタイトルを奪回されている。この頃「二代目力道山襲名」「国際プロレス移籍」という話もあったがいずれも実現しなかった。

上田馬之助の密告事件を発端に猪木・馬場と次々に「日本プロレス」を退団し、それぞれが新団体を創立したことにより、遂に「日本プロレス」No.1の地位を獲得し、1972年12月にボボ・ブラジルとの「頭突き世界一決定戦」がインターナショナル・ヘビー級王座の決定戦となり第一戦は敗れるが、3日後の再戦で勝利しインター王座を獲得した。しかし、馬場と猪木の抜けた穴は大きく「日本プロレス」の人気は急激に凋落。坂口征二が日本プロレスのテレビ中継をしていたNETの意向を受けて新日本プロレスとの合併を模索するが、大木はこれに猛反対して合併話を潰してしまう。結果として坂口は退団、同時にNETの新日本プロレスへの乗り換えを招き、日本プロレスは1973年4月に崩壊した。

1973年の日本プロレス崩壊後は一旦他の日本プロレス選手とともに全日本プロレスに入団するが、対等合併と仲介者に聞かされていたのに実質吸収合併でありマッチメイクで冷遇されたことから退団。インターヘビー・アジアヘビーの防衛戦をやらせてもらえずに不満がたまっていたところに、ザ・ファンクスを招いて馬場がインター・タッグに挑戦した時に、パートナーに大木ではなく新人の鶴田友美(後のジャンボ鶴田)が起用されたのが決定的な原因だったという。

その後、新日本プロレスに参戦して1974年10月10日蔵前国技館にて猪木とのシングル戦を行う。この試合は猪木が大木の頭突きをひたすら受け続けてバックドロップで仕留め、試合終了後には二人が感極まって抱き合うという、猪木にとっても大木にとっても後世に残る名勝負となった。また坂口とは日本プロレス崩壊時の「俺が新日本と合併しようとしたのを潰して追い出しておいて何を今さら」という遺恨から、プロレス史に残る壮絶なセメントマッチを展開する。ソウルで猪木の挑戦を受けてインターヘビーの防衛戦を行ったこともあるが、これは猪木唯一のインター戦となった。

1975年10月30日蔵前国技館にてジャイアント馬場とのシングル戦を行う。この試合で馬場は大木の頭突きを受けきった後、猪木と大木の試合時間13分13秒の半分の時間(6分49秒)でフォール勝ちをおさめ、猪木との格の違いをアピールした。

その後は再び全日本を主戦場とするようになり、タイガー戸口(キム・ドク)とタッグを組んでのインターナショナル・タッグ王座獲得、1975年12月にはオープン選手権及び力道山十三回忌追悼興行に参加、1977年12月には「世界オープンタッグ選手権」に参加した。1978年1979年には「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも連続して参加している(1979年のパートナーはキラー・トーア・カマタ)。大木・ドクの韓国師弟コンビと馬場・ジャンボ鶴田の日本師弟コンビの抗争はこの時期の全日本のドル箱カードであった。また、アジアヘビー級王座アジアタッグ王座が全日本で復活した時に王座決定戦でグレート小鹿を破りアジアヘビー級王者になっている。

1980年2月に「国際プロレス」入団。日本では長く封印状態にあったインターヘビーの防衛戦を上田馬之助らと4回行った他、ニック・ボックウィンクルAWA世界王座にも挑戦した。しかし、同年11月から欠場し、そのまま離脱する。その後「全日本プロレス」に戻る。この時全日本からの「NWA認定のインター選手権を、NWAに加盟していない国際プロレスで実施したのはNWAメンバーとして問題である(大木は馬場の推薦で、韓国のプロモーターとしてNWAに加盟していた)」という勧告に応じてインターヘビーを返上、全日本プロレスで復活させている(引き替えに1977年に馬場に奪取されてそのまま封印されていたアジアヘビー級王座が大木に返還されている)。これを機会に再び全日本に来日するようになったが、1982年阿修羅・原戦を最後に、の持病が悪化し事実上の引退となった。

[編集] 「引退セレモニー」とその後

1995年4月2日に行われたベースボール・マガジン社週刊プロレス)主催のオールスター戦「夢の懸け橋東京ドーム大会で、それまでの功績を讃えて正式な「引退セレモニー」が行われた。

車椅子姿で花道を入場してきたが、リング・インの際は気丈に立ち上がり、ルー・テーズと共にリング内に進むと四方へ頭を下げ、ファンの声援を受けると現役時代からであるが流暢な日本語で「(感激で)胸がいっぱいで声が出ません」と涙を流した。ファンへの感謝とお詫びの言葉、力道山との思い出などを語り、引退のテン・カウントを聞くと眼を閉じて号泣した。リングを降りる間際ニュートラル・コーナーへ歩み寄ると、鉄柱に頭を付け愛おしそうに撫で、リングをあとにした。

自宅が火災に遭い全焼してしまい、持っていた過去のビデオや資料がすべて焼失してしまった。その後、日本のプロレスファンから、自身の試合を収録したビデオを贈られた際には感激したそうである。

1994年,2000年には本国韓国で国民勲章を受章している。

2005年9月の「月刊朝鮮」によると、ソウル市内の病院に入院中で、頭突きの後遺症による脳血管疾患[1]高血圧心不全・下肢浮腫を患っている状態であったという。体重は78kgほどまで落ち、10年前に再婚した夫人が看病に当たっていると韓国国内に報じられた[2]

2006年9月9日、韓国ソウルのソウル蚕室総合体育館で開かれた「世界プロレスリング協会(WWA)2006ソウル大会」に、数少なき後輩たちのファイトを見守るために姿を現した。車椅子に乗った大木ことキム・イルが現われると、2000人あまりの観衆たちは熱い拍手を送り、彼の名前を連呼した。痛風にもかかって体の調子が相変わらずよくはないが、「今大会のような世界的大会が今後も開催されるように、韓国プロレスの発展のお手助けになりたい。多くの方々が心配してくれたお陰で健康状態がよくなった。熱心に後輩たちを後援するつもりだ。今後もファンがプロレスに多くの声援を送ってくだされば良いと思う」とのメッセージを残した。しかし2006年10月26日、ソウル乙支病院において慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により死去。77歳没[3]

死の直前、テレビ番組の企画でアントニオ猪木が病床の大木を訪問している。猪木のデビュー戦の相手は大木であり、若手時代力道山にしごかれていた猪木に親身に接してくれたのも大木であった。

[編集] 獲得タイトル

[編集] 得意技

  • ヘッドバット:大木は石頭として知られ、ヘッドバットと言うより「頭突き」と言った方が当てはまる。片手で相手の頭を鷲掴みにし一本足の体勢から投球フォームのように繰り出す独特の頭突きスタイルは「原爆頭突き」(または「一本足頭突き」)と呼ばれ、リングガウンの背中には原爆投下時のキノコ雲のような噴煙も描かれた。藤原喜明に受け継がれており、両者ともにヘッドバットの使い手として知られる。
  • 1970年代後半は交通事故に遭い、一命は取り留めたもののかなりの重症であり、しかも頭の中にまでガラスの破片が入り込む程であった。それでもリングに上がり得意の頭突きを見せたが、大木は頭突きを続けながら、その頭の内部に入り込んだガラスの為流血をしたにもかかわらず、それでも頭突きを止めなかった。
  • 日本プロレス時代などに「足4の字固め」を決め技として使っていたこともある。
  • 国際プロレスのリングではよく“X固め”を得意技としていた。

[編集] 脚注

  1. ^ この脳血管疾患はいわゆるパンチドランカーの症状であったとされる。
  2. ^ 朝鮮日報(日本語版)
  3. ^ 聯合ニュース速報(日本語版)

[編集] 関連項目

[編集] 参考資料

最終更新 2009年10月31日 (土) 10:26 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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