大村純忠

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大村 純忠(おおむら すみただ、天文2年(1533年)- 天正15年5月18日1587年6月23日))は戦国時代キリシタン大名である。実父は有馬晴純有馬義貞の弟。幼名は勝童丸。官職は元服時に民部大輔、のち丹後守を自称。洗礼名はバルトロメオ。三城城主。娘は江上家種の妻。日本初のキリシタン大名で長崎港を開港した人物として知られる。

[編集] 生涯

大村氏の先祖は藤原純友であるという。(外山幹夫氏による平直澄祖先説もあり)この祖と同じ名前を持つ純忠は肥前国有馬の出身。1538年肥前の有力豪族であった大村純前の養嗣子となり、1550年に大村氏の家督を継いだ。これは純前に嫡子がなかったためであり、かつ大村家は有馬家から出てきたという歴史的背景があったからである。純前の実子(庶子である又八郎、後の後藤貴明)は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出され、大村家と有馬家の間には姻戚関係が成立した。

実子をおしのけて家督を継いだというプレッシャーを、純忠は一生感じ続けることになった。また当時の大村領は、攻撃的な肥前佐賀の龍造寺隆信などによる周囲の圧迫もあり、打開策を模索していた。その中で彼が見出した答えがキリスト教であった。

1561年松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル人殺傷事件が起こると、ポルトガル人は新しい港を探し始め、純忠は1562年、自領にある横瀬浦(長崎県西海市)の提供を申し出た。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠はあわせてイエズス会員に対して住居の提供など便宜をはかった。結果として横瀬浦はにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功した。

1563年、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受けた。しかし、純忠の信仰は過激なもので、寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。また、領民にもキリスト教の信仰を強いたため、この行過ぎたやり方は家臣や領民の反発を招くことになる。(しかし、その結果、大村領内では最盛期のキリスト信者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされる)

純忠の入信についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が根強いが、記録によれば彼自身は熱心な信徒で、受洗後は妻以外の女性と関係をもたず、死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していたことも事実である。また、横瀬浦を開港した際も、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に十年間税金を免除するなどの優遇を行っている。

純忠に恨みをいだいていた純前の庶子後藤貴明が大村家の家臣団と呼応し反乱を起こして横瀬浦を焼き払うと、1570年に純忠はポルトガル人のために1つの港を提供した。同地は良港として以後、大発展していく。当時寒村にすぎなかったこの港こそが、後の長崎である。1572年には松浦氏らの援軍を得た後藤貴明の軍勢1500に居城である三城を急襲され、城内には女子供も含めて約80名しかいなかったが、援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込んでいる。1578年に長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されると純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退した。その後1580年、純忠は長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進した。(後に秀吉によってイエズス会から取り上げられ、直轄領となる。)

巡察のため、日本を訪問したイエズス会アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、1582年天正遣欧少年使節の派遣を決めている。彼の名代は甥にあたる千々石ミゲルであった。

彼にはそれぞれ洗礼名を持つ四人の息子、喜前(サンチョ)、純宣(リノ)、純直(セバスチャン)、純栄(ルイス)がいたが、龍造寺隆信の圧迫により、人質に出さざるを得なかった。(後に純忠の後を継いだのは大村喜前であった。)

1576年1577年頃から龍造寺氏の圧迫を受け、前述の通り4人の子のうち、3人までを人質に取られるなど、ほぼ従属状態にあったと思われ、1584年沖田畷の戦いにも龍造寺方として従軍しているが、親族である有馬勢との戦いには消極的で空鉄砲を撃っていたと言われる。(この為、隆信の戦死後も、大村勢は島津軍の追撃も受けずに開放されたという)1585年豊臣秀吉九州征伐においては秀吉に従って本領を安堵された。1587年5月18日、不安定な政情の中で生涯をすごした純忠は55歳で坂口の居館においてこの世を去った。死因は肺結核。バテレン追放令の出る前の死であった。

[編集] 関連項目

先代:
大村純前
大村氏
大村純忠
次代:
大村喜前

最終更新 2009年11月20日 (金) 09:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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