大橋巨泉

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日本の政治家
大橋巨泉
大橋 克巳
おおはし かつみ
生年月日 1934年3月22日(75歳)
出生地 日本 東京府東京市本所区
出身校 日本大学第一高等学校
早稲田大学第一政治経済学部新聞学科中退
所属政党 民主党
配偶者 マーサ三宅→浅野順子

選挙区 比例区
当選回数 1回
任期 2001年7月29日 - 2002年1月31日
  

大橋 巨泉おおはし きょせん1934年3月22日 - )は、日本タレント放送作家司会者評論家、元参議院議員オーケープロダクション(旧・大橋巨泉事務所)前取締役会長兼エグゼグティブタレント、芸能プロモーター、エッセイスト競馬評論家馬主血液型B型

東京府東京市本所区(現・東京都墨田区両国生まれ。千葉県に育つ。現在は同県山武郡大網白里町在住。祖父は江戸切子の名人だった。

本名・大橋 克巳(おおはし かつみ)。芸名の「巨泉」はもともとは自身の俳号である。多くの芸能人や関係者が「巨泉」「巨泉さん」と呼び、「大橋さん」と呼ばれることは皆無に近い。「世界まるごとHOWマッチ」では「巨ちゃん」と呼ばれたことがある。「ヘキサゴン」に出た時はスザンヌに「キョンキョン」と呼ばれていた(他の出演者からも呼ばれた時があった)。

目次

[編集] プロフィール

[編集] ジャズ司会者

実家は両国でカメラの部品製造・小売を生業とする「大橋商店」を経営していた。同じく実家がカメラ屋の萩本欽一とは店同士取引があり、幼い萩本と大橋はその当時からの知り合いである[1]。自宅で叔父が所有するジャズレコードを見つけアメリカへの憧れが強くなる。朝鮮戦争の特需もあり、家業のカメラ商売に役立つと親を説得しアテネフランセ英語を学ぶ。日本大学第一中学校・高等学校卒業。早稲田大学第一政治経済学部新聞学科(現在は廃科)中退。大学生の頃はほとんど勉強をせず、テストではカンニングをしていたという(東京新聞での発言)。大学卒業を諦めた理由は理数系科目が全く出来ず、単位取得の見込みが望めなかったためである(そのため入学試験は得意の国語、英語、社会で受験した)。後に「早大を中退したタレントは出世する」という伝説のはしりとなった。早稲田大学の学生時代から当時ブームだったモダンジャズ、コンサートの司会者として活躍。なお早稲田大学在学中は俳人としての活動もしており「巨泉」という芸名はこの時期に付けた俳号である。なお戦前の画家である川崎巨泉とは関係ない。2年後輩の寺山修司と出会った時に「こいつにはかなわん」と思って俳句の道から足を洗ったという。

[編集] 芸能界へ

最初の妻マーサ三宅と結婚後、中野区野方へ住まいを移し実家の大橋商店に勤め始めるも、自分にはサラリーマン生活は無理、とすぐに辞める。ジャズ喫茶に出入りするうちジャズ評論家・放送作家からテレビ司会者に進出、弁舌家のマルチタレントとして人気を得る。この方面では、やはり放送作家出身の前田武彦と人気を二分し、この2人で日本テレビのバラエティー番組『巨泉・前武のゲバゲバ90分!!』の司会を務めた。

[編集] 11PM・クイズダービーなど司会者で活躍

1960年代 - 1980年代にかけ、夜11時台のワイドショー番組『11PM』(日本テレビ。テレビデビューとなる。11PMの司会は他にも愛川欽也が担当していた)や、クイズ番組『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』(TBS)などの司会で名を馳せる。「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬野球麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送の競馬中継『大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のメインパーソナリティーも務めた。その後、1990年3月に「56歳になったし、司会業は長くやるものではない」とテレビ、ラジオの全てのレギュラー番組を降板。メディア業界から「セミリタイア」した。

特に、「クイズダービー」内で巨泉は女性出演者に対して、よく下の名前で呼んでいた。例として、長年の4枠レギュラーだった竹下景子には「けいこちゃん」、2枠レギュラーだった山崎浩子には「ひろこ」など。但し、山崎の後の2枠レギュラーだった井森美幸に対しては、「みゆき」よりも上の苗字の「イモリ」で呼ぶことが多かった。また、2004年5月に放送されたクイズダービー復活版では、当時既に50歳となっていた竹下に対しても「けいこちゃん」と呼んでいた。

[編集] 能力を見抜く眼

まだ評価の高くない人間の才能を見抜く眼にすぐれており、関口宏の司会者としての素質を関口自身が司会した『スター千一夜』の時から評価していたという。また、TBS番組『大学対抗バンド合戦』のMCをつとめた際、学生バンドの司会として出場したタモリの才能を認めており、芸能界入り直後から積極的に自身の番組に起用した。さらに、漫才師としての活動が主だった頃のビートたけしを、『世界まるごとHOWマッチ』にレギュラー出演させた。東京12チャンネル(現・テレビ東京アナウンサーで、競馬実況を担当していた小倉智昭を誘い自身の所属事務所に入れた。更に島田紳助の司会者としての才能やバラエティ番組とは無縁の歌手や俳優の相性を見抜いて紳助自身が司会する番組に出演させてブレイクさせる能力を評価しており、毎年巨泉が日本に滞在する時に紳助自身が司会する番組に出演する事がある。

[編集] OKギフトショップ

1973年カナダバンクーバーに日本人観光客が日本語で買い物できる土産物店「オーケーギフトショップ」を開店し、実業家に転進。その後、バンフナイアガラオーストラリアゴールドコーストケアンズニュージーランドオークランドクライストチャーチにも店舗を開店し、幾多の倒産の危機を乗り越え、7店舗まで事業を拡大した。湾岸戦争アメリカ同時多発テロ事件などの影響があったものの、同店舗のみ取り扱う限定商品の販売、大手旅行代理店とのタイアップ(来店粗品や割引が効くクーポン券の配布)、日本語の通じる店員が常駐するなどの面で評判が良く、軌道に乗っている。カナダ店以外に店を構えた理由は、冬の厳しいカナダでは冬季の観光客数が激減し店の売上げが激減するため季節が逆の南半球に店舗を構える必要があった。カナダ店を除く海外初店舗はニュージーランド・クライストチャーチ店である。

なお、「オーケー」は大橋巨泉のイニシャルであり、スーパーマーケットのOKストアとは関係ない。

[編集] 競馬評論家

競馬評論家としても積極的に活動していた。「プロの調教師が出してくる以上、八分以上の出来」[2]にあるとして、出走各馬の調教を見ないで予想したことから、書斎派の筆頭格であった。サンケイスポーツ競馬エイトで執筆するほか、『中央競馬ダイジェスト』(フジテレビ系・土曜深夜放送分)や『日曜競馬ニッポン』(ニッポン放送)に出演していた。「府中の千八、展開要らず」という競馬格言は、大橋が作ったもの[3]。血統と展開と騎手で推理し、しばしば長距離の逃げ馬を的中させていた(トーヨーアサヒが勝った1973年ダイヤモンドステークスなど)。谷岡一郎が「本命2000円、対抗1000円、穴・大穴・枠流し500円」で大橋の予想と結果をGIレースのみ計算した結果、戻って来る金は賭け金の80.85%であった(谷岡一郎『ツキの法則』)。もちろん負け越しだが、競馬の控除率が25%前後であることから、平均してそれ以上の戻りがあった大橋の予想を優れたものと結論づけている。また、大橋の予想の影響力が大きく、大橋が本命に推した馬がそのまま実際の本命(倍率が最低)になったことも多々あり、その結果大橋の回収率は下がっていると指摘。もし大橋が予想を公表せず、自分一人で買う金額も決めていたなら、もっと回収率は上がった可能性があるとしている。

また中央競馬馬主でもあり(本名の大橋克巳、オーケー商事名義)、1973年には所有馬ロックプリンス号が東京優駿(日本ダービー)に出走している(27頭中11着)。「タケシツービート」という名前の馬も所有していた。シンボリ牧場オーナーだった和田共弘、騎手・調教師だった野平祐二と親交が深く、スピードシンボリが海外遠征した際には、和田、野平とと共にロンシャン競馬場フランスパリ)へ行動を共にした。

1988年絶筆し競馬評論から引退した。引退のきっかけとなったのは、1988年の天皇賞(秋)オグリキャップタマモクロスの一騎打ちムードの状況で、登録料が1万円と安いから勝負になりそうもない馬が何頭も出てきている、といった内容を大橋が当日のラジオの中継で話したことが発端。それに対し、同レースにレジェンドテイオーを出走させていた美浦の田村駿仁調教師が『週刊競馬通信』に「大橋巨泉氏に物申す」と題する抗議文を送付し、掲載された。それに対し大橋が『サンケイスポーツ』のコラムで反論し、さらに田村が反論するという論争に発展。そうしたやりとりの中で大橋は競馬サークルの閉鎖性やぬるま湯体質に失望し、『サンケイスポーツ』紙上にて休筆を宣言、やがて競馬評論家を引退するに至った。

2006年に『keiba01』(ケイバゼロワン、2006年12月20日発行)誌上において約20年ぶりに競馬をテーマに「シンザンスピードシンボリ」と題するコラムを執筆した。2009年の著書『やめたら』では、三連単馬券について言及している。

ディープインパクトの引退が発表された際、ファン、記者などのマスコミとも「来年も走ってほしかった」という意見が多勢だった中、「あんな小さい体で来年も現役だの、海外遠征だの冗談じゃないよ!!」と陣営の引退の判断を支持した識者の一人である。

[編集] セミリタイア

「セミリタイア」は巨泉が出演中の全番組を降板する際の記者会見で使った表現で、完全に芸能界・放送界と縁を切る「リタイア」ではないことを強調したものである。

なお巨泉は50歳にはセミリタイアをする人生設計を描いていたが、各方面からの慰留、また49歳の時に司会を始めた「世界まるごとHOWマッチ」に本人の意向で起用したビートたけし石坂浩二との絡みが楽しかったこともあり、56歳まで仕事を継続した。

現在では「セミリタイア」は、早くから蓄財しておき仕事が好調の内に辞め、悠々自適に過ごしながら余裕のあるときに仕事もする、という意味合いの言葉として定着しているが、これにもちろん巨泉の、絶頂にも係わらず仕事をすっぱりと終わらせたことと、以降の生活スタイルが源泉である(尚、同じような形で芸能活動の一線からのリタイアをした司会者としては上岡龍太郎芳村真理らがいる。何れも巨泉と同じく司会者の大御所として絶頂を極めていた50代でリタイアを宣言している)。

[編集] 政界進出

2001年に、民主党の菅直人幹事長(当時)が出馬を依頼。これを受け、民主党から参議院議員選挙の比例代表候補として立候補し、党内第1位で当選。当選後すぐにアメリカ同時多発テロ事件が起き、これをきっかけに安全保障問題をめぐっての鳩山由紀夫代表ら当時の党執行部との考えの違いが鮮明になる。

アメリカ同時多発テロ事件を非難する国会決議には、「アメリカを支持する」との文言を理由に民主党でただ1人反対。また、インド洋への自衛隊派遣に伴う事後承認にも反対するなど、短期間でいわゆる「造反」を連発した。また、8月6日の民主党両院総会では、大橋は当時の鳩山由紀夫代表に「社会主義インターナショナルに加盟しセンターレフト(中道左派)の党としての性格を鮮明にせよ」と迫ったが、鳩山代表から「民主党のコンセンサスではない」と却下されている[4]

こうした党との意見の違いによりわずか6ヶ月で辞職。ツルネン・マルテイが繰り上げ当選した。辞職の弁では「日本の民主党がこれほどまでに反民主的な集団とは思わなかった」と述べた。辞職会見のときには、旧社会党系の民主党議員や社民党の議員が辞職する大橋を止めようと説得する場面があった(この時は、辻元清美福島瑞穂などの議員もいた)。比例代表で当選した議員がその党の路線への不満を理由に辞職することについて各方面から批判された。当時、官房長官だった福田康夫は会見で「職場放棄だ」と批判した。

後に大橋が語ったところによると、中村敦夫らが結成したみどりの会議への移籍を一時真剣に考えたという(みどりの会議は選挙時に存在しなかったため、比例選出の議員でも移籍は可能だった)。また、当時党内で大橋と意見が近く、鳩山らの執行部とも度々対立していた横路孝弘らのグループがもしも離党、新党結成へと踏み切っていたなら共に参加しただろうとも述べている。

議員辞職後は、民主党を強く批判するスタンスを取っていたが、最近は再び民主党に歩み寄る姿勢を見せており、民主党政権の誕生を望んでいるような発言もするようになっている。

ただし、一方で民主党が保守に寄りすぎているという認識は同じで、民主党が自民党化することに警鐘を鳴らしている。そのため、2009年の衆議院総選挙では、民主党の“勝ち過ぎ”を警戒し、社会主義的な理念を持つ政党が一定の影響力を持つことが必要として、比例区では社民党か共産党に投票するよう勧めている。

[編集] 現在

現在は、11月から翌年4月までオーストラリアニュージーランドに、6月から9月までカナダに滞在し、経営するギフトショップの管理の傍ら、ゴルフを楽しむなど悠々自適の生活を送っている。太陽の動きに合わせ居住地を移動する生活形式を自ら“ひまわり生活”と呼んでいる。日本に滞在するのは5月と9月から10月末までの約3ヶ月間だけで、この期間はバラエティ番組にゲスト出演している。外国がとても好きなようだが、以前、福留功男の『ベストタイム』に出演した折、寿司を食べてビールを飲んでご満悦のご様子で「日本人でよかった」とコメントする一面も。海外移住先をハワイではなくカナダ、オーストラリア、ニュージーランドにした理由について、井原高忠がハワイに移住したがハワイは物価が高く、ゴルフ場料金も高いため老後の移住先として不適格と判断したため。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの順で永住権(永住資格)を取得している。

タモリビートたけし明石家さんま所ジョージ島田紳助関口宏藤村俊二石坂浩二ダウンタウン等から番組に出演するたびに「日本に帰ってくるな」などの嫌味を言われている。「バラエティは生放送じゃなきゃダメ。今の番組はすぐにスタッフの意向でハサミを入れる(カットする)から、出演者の面白さが全部切り取られている」「映画は監督のもの、テレビはホストのもの」が口癖(巨泉が司会を務めていた番組は殆ど収録番組であったが、全て放送時間と同じ時間で収録を行っており、極力カットもしない「撮って出し」の方式をとっていた。現在このスタイルを取り入れている日本のテレビ番組は『徹子の部屋』、『ライオンのごきげんよう』など、ごく一部しかない)。尚、本人も日本に帰ってきた際、オファーがあれば収録番組にも出演するが、実際自身が観る番組は『笑っていいとも!』や深夜のニュースショーなど、生放送の番組だけだと言う。

また、「xxx!! 今度お前の番組に出てやる」と言う口癖があり、コージー冨田がものまねのネタにしている。『笑っていいとも』のテレフォンショッキングなどに出演する際にはタモリに「出てやる」と告げ、タモリから「いえ、結構です」と言われるやり取りが恒例である。CMへの振りは「その前にこちらを」であり、こちらも口癖として定着している。

メジャーリーグ評論家としても知られ、日本のMLB通タレント第一人者でもあり、メジャー30球団の選手名鑑を発売するほど精通している。「野球は巨人、司会は巨泉」がかつてのコピーだったが、現在は巨人ファンを辞め、「今の巨人じゃ日本球界は駄目になる」と語っている。2001年長嶋茂雄が監督を辞任した際にも辞任を歓迎していた。野球を巨人中心にしたとして王貞治と長嶋の二人を嫌っているようである(東京新聞より)。

アメリカンフットボールにも造詣が深く、参議院選挙出馬前は、NHK BS1NFL中継の解説を担当したこともある。サンフランシスコ・フォーティナイナーズのファンを公言していた。

2006年にインタビューで「アメリカでも日本でもインテリ層や高収入層はスポーツ中継やニュース以外にテレビを見ない」と発言し物議を醸した。

2005年5月9日、『笑っていいとも!』に出演。同年5月胃がんを患っていたことが判り、6月に摘出手術を行った。

2009年2月12日、同年4月にオーケープロダクションが設立40周年になるのを期に、オーケープロダクションがイーストの完全子会社となり、それと共に巨泉自身もオーケープロダクションの取締役会長を退任することがあきらかとなった。

[編集] その他

  • 1969年に放映されたパイロット万年筆のCMで譜面台の上で万年筆を走らせながらしゃべった「みじかびの きゃぷりことれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ」という台詞が当時の流行語となる。この台詞は巨泉のアドリブだったといわれているが、一時は巨泉のものまねを演じる際に枕詞のように用いられることも多かった。
  • 近年ことあるごとに「バラエティは生放送じゃなきゃダメ」と言い続けているが、11PMの巨泉の担当日は録画(取ってだし)だった。
  • 年下の親しいタレントを呼び捨てにしたり、「お前」と呼ぶ司会者は当時としては珍しかった。この方法論は正に巨泉から呼び捨てにされ続けてきたビートたけしタモリに受け継がれている。一方上述のように女性タレントに対しては「ちゃん付け」で呼ぶ事が多かった。
  • 世界まるごとHOWマッチ」ではスタジオ観覧者から「巨ちゃーん」と声が掛かったことがあり、以後番組内で時々「巨ちゃん」という呼び名が出てくることがあった。
  • テレビ出演の時にかけている黒縁の眼鏡伊達眼鏡である。極度の近視のため目が悪いが、テレビ出演時に眼鏡をかけると、レンズが光を反射して視聴者はテレビを見難くなるとの理由からコンタクトレンズを着用したが、“眼鏡を外すと誰だかわからない”との指摘を受けて、コンタクトレンズをつけ、レンズの入っていないフレームのみの眼鏡を着用しテレビ出演をしている。東京新聞の「この道」や2004年の「もう時効だヨ全員集合!花の芸能界トークバトル」などで自ら明かしている。これは後に、天野ひろゆき久保田雅人などに影響を与えることになった。
  • 愛川欽也財津一郎玉置宏藤村俊二前田憲男ら、同じ1934年生まれの芸能人たちと「昭和九年会」を結成している。前田は巨泉が司会を務める番組のテーマ曲を多く手がけている。
  • 巨泉が総合司会を務めていた『ギミア・ぶれいく』の1コーナーのアニメ『笑ゥせぇるすまん』の主人公・喪黒福造役の声優・大平透とは50年来の大の親友。ちなみに喪黒福造のモデルは、大橋巨泉自身である。
  • 元気が出るテレビ・たけしメモ」(日本テレビ系)にて「巨泉さんは、こんなにイイ人だ」というタイトルで発表。
  1. おごったことをいつまでも覚えている
  2. 悪口を言われそうな番組は、必ずビデオに録る
  3. 仕事に関係ない体の大きさである
  4. 異常に負けず嫌い
  5. 海外旅行に招待して、おごらせる
  6. 自分をアメリカ人だと思っている
  7. 本当の金持ちに弱い
  8. 冷静そうなのに、すぐ怒る
  9. 必要ないのに英語を使う
  10. まだ、安くてうまい店を探している
  11. 「遊び」なのに、遊ばない
  12. 異常に淋しがりや
  13. 他人に厳しく、女房に厳しく、自分に甘い と発表の最中に巨泉の乱入により強制終了となった。
  • 名古屋市には「中華そば 巨泉」なるラーメン店が存在する。店主は大橋栄二だが血縁関係などない。ただし、店名は大橋巨泉に由来する。
  • 藤子・F・不二雄やくみつるのマンガになぜか登場している。
  • ケント・ギルバートは大橋の英語を上手いと発言している。

[編集] 家族

前妻はジャズ歌手のマーサ三宅。2女をもうけたが離婚。14歳年下で当時アイドルであった浅野順子(デビュー当初の芸名は、浅野寿々子)と再婚した(浅野は初婚)。大橋35歳、浅野21歳での結婚は“少女誘拐”とマスメディアに騒がれた。ジャズ歌手の大橋美加(長女)とチカ・シンガー(次女)は、マーサ三宅との間の娘。浅野順子との間に子はいない。

タレントの大谷瑠奈は孫(美加の娘)である。なお、彼女を含めて5人の孫がいる。姪には大橋ひろみがおり、フジテレビ系列『クイズ!知ッテレQ』のレポーター、日本テレビ系列『クイズ笑って許して!』の2枠解答者として出演した他、1984年秋には伯父の巨泉と「CFカード」のCMにも出演した。また、実弟の大橋哲也は所属芸能事務所オーケープロダクションの社長を務める。

[編集] 著書

[編集] 出演番組

1960年代後半~1970年代初めにかけては、多くのレギュラーを抱えていたが、OKギフトショップを開業した頃から、主要なものを除き司会番組をセーブするようになった。

現在では、『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)や、『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』、『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ)などにゲスト出演する程度である。

[編集] CM

[編集] アニメ

[編集] 音楽作品

  • 『おれは天下の百面相』(作詞:井上ひさし、作曲:筒美京平1969年発売、『巨泉のスター百面相』(フジテレビ)主題歌)
  • 『こりゃまたみなさん百面相』(作詞:井上ひさし、作曲:筒美京平、おれは天下の百面相のB面曲)
  • 『さすがわかってらっしゃる』(作詞:大橋巨泉、作曲:森田公一1973年5月5日発売、当時巨泉が出演していたサントリー「純生」コマーシャルソングとしてこの曲の替え歌『ご当地、ビールは?』が使用された。非売品ソノシートが存在する)
  • 『大橋巨泉 プレイボーイ入門』(ナレーションを収録。演奏:八城一夫とオールスターズ)
  • 石原裕次郎『嵐を呼ぶ男』(作詞は名義上井上梅次になっているが、大橋巨泉が補作している)

[編集] 主な所有馬

勝負服は緑、白一本輪、赤袖。当初は本名の大橋克巳名義、1987年頃からオーケー商事名義を使用した。所有馬には音楽関係の名前を付けることが多かった。現在は中央競馬所属の所有馬はいない。

  • ローレンダッドレイ(吾妻小富士賞2着、パラダイスステークス3着)
  • フレーミングユース(9戦2勝。種牡馬としてダイナカーペンター(1988年阪神大賞典1989年京都記念)を輩出)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 2009年9月29日『火曜エンタテイメント!欽ちゃんが芸能界の大御所の家に行っちゃいましたSP』より。更に大橋の実家製作のカメラ「ロールライト」は萩本とすぎやまこういちしか持っていないと言う事も語っていた。
  2. ^ 『巨泉の重賞競走予想全書』p.13
  3. ^ 「ボクの作った格言」(『巨泉の重賞競走予想全書』p.1539)
  4. ^ 朝日新聞2001年8月7日朝刊

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月13日 (金) 09:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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