波多野全慶

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波多野全慶(時政)
時代 室町時代
生誕 不詳
死没 明応2年(1493年
改名 時政(俗名)、全慶(法名)
主君 一色時家
氏族 波多野氏

波多野 全慶(はたの ぜんけい)( ? - 明応2年(1493年))は室町時代武将である。全慶は入道名であり、俗名は時政(ときまさ)。三河国二葉松では、秦野全慶になっている。

一色時家の被官になったが、文明9年(1477年)に応仁の乱末に西軍であった時家を討つ。享徳の乱の和睦の都鄙合体(とひがったい)の10年後に、灰野原の戦いで、同じく時家被官の牧野成時(古白)に敗れて戦死。

[編集] 概要

波多野氏征夷大将軍となった足利尊氏より三河国に所領を与えられ、宝飯郡大沢城(愛知県豊川市御津町豊沢)を構えた[要出典]

波多野時政(全慶)は、三河国の有力氏族の一色氏の一色時家の被官となった。応仁の乱の末期の文明9年(1477年)、西軍に所属していた宝飯郡牛久保の一色城(同県同市牛久保町)主の一色時家に乱を起こし、討ち滅ぼしてしまう。乱では丹波国波多野秀長が東軍に属していた。

同じ頃、関八州では、下総国葛飾郡古河(こが)御所(現、茨城県古河市)の古河公方足利成氏が、関東管領上杉氏や京の足利将軍家と戦い享徳の乱となっていたが、1483年1月(文明14年11月)に征夷大将軍足利義尚側と古河公方足利成氏の和睦(都鄙合体)がなり、関東公方の足利持氏・成氏の名誉が回復された。一色家の没落は鎌倉公方足利持氏の残党を一色義貫が引き受けたことによるが、都鄙合体により持氏・成氏側に正統性が出て来て風向きが変わる。明応2年(1493年)、波多野時政(全慶)は同じく故一色時家の被官であった牧野成時(古白)と灰野原の戦いを行う。時政(全慶)はこのいくさで敗れて戦死する。しかし、波多野氏は全滅せず、この地域に残った。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年4月12日 (日) 06:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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