大矢明彦

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大矢 明彦
基本情報
国籍 日本
出身地 東京都大田区
生年月日 1947年12月20日(61歳)
身長
体重
172cm
84kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 捕手
プロ入り 1969年 ドラフト7位
初出場 1970年4月22日 巨人戦(後楽園)
最終出場 1985年10月23日 大洋戦(神宮)
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

大矢 明彦(おおや あきひこ、1947年12月20日 - )は、元プロ野球選手捕手)・監督野球解説者

2007年から横浜ベイスターズ監督を務めていたが、2009年5月18日より成績不振のため無期限休養。同年シーズン終了を以ってそのまま退任した。

目次

[編集] 来歴・人物

早稲田実業高等部、駒澤大学を経て、1970年ドラフト7位でヤクルトアトムズに入団。

球界一と言われた強肩、また「スマートな身体、甘いマスク」の持ち主で、それまで「太め、鈍足」のイメージのあった捕手像を変え、1978年にはヤクルト球団初のリーグ優勝・日本一に貢献するなど永く正捕手として活躍。しかし打力面では非力であり、控え捕手だった同期入団の八重樫幸雄が持ち前の打力で正捕手の座を奪うと出場機会が減り、1985年に現役を引退。

引退後は1986年1992年フジテレビニッポン放送の野球解説者となり、1988年1989年には、フジテレビ系「プロ野球ニュース」の週末キャスターを務めた。

1993年1995年横浜ベイスターズバッテリーコーチ、1996年1997年には一軍監督を務めた。1997年には37年ぶりのリーグ優勝に迫るが、惜しくも2位となる。同年シーズン終盤、チーフコーチである弘田澄男の解任を示唆されたことでフロントと対立、監督を辞任。

その後、1998年2006年フジテレビ・ニッポン放送の解説者として再び活躍。

2007年、横浜ベイスターズの監督に再び就任。この年は4位で終えるも、2年目の2008年は優勝した巨人に36.5ゲーム差、5位ヤクルトに19ゲーム差も離されるダントツの最下位に沈む。

2009年シーズンも開幕から6連敗とチームは不振で、37試合を終えた時点で13勝24敗と最下位に低迷。5月18日に球団フロントと緊急会談を行い、成績不振の責任を取り無期限休養することが発表された[1]。そして、シーズン終了を以ってそのまま退任。

[編集] エピソード

  • 解説者時代にフジテレビのものまね王座決定戦で審査員を務めた際にあるタレントが演じたものまねの上手さを賞賛して思わず「本物よりそっくりなのでビックリしました」とコメントしてしまった。
  • 評論家時代、フジテレビ739で放送されている「CS・プロ野球ニュース」の金曜日司会を務めていた。番組コーナーに「大矢明彦のインテリジェントベースボール」があるが、自分で自分のことを「インテリ」と言うのが気恥ずかしいのか、コーナー名を自ら言うことは無かった。
  • 現役時代、コーチ・監督時代を通じて、球審の特徴やクセを把握し、ゲームに活かすのが上手だった。松岡弘安田猛などヤクルトの投手が活躍した陰には、彼の功績が大である。
  • 1992年4月、現役時代の同僚でフジテレビの解説者仲間でもあった大杉勝男が亡くなった際、当日のプロ野球ニュースで本番中に涙を流した。
  • 温厚な人柄ではあるが、頑固一徹な側面もある。横浜監督1年目の1996年のオフに球団がヘッドコーチ格の弘田澄男を更迭しようとした時、大矢は一旦球団に辞表を提出している。またこの際、自身の契約更改時に頭を丸刈りにして現れ、球団に更迭反対の意思を示した。その後、弘田の更迭は中止となって大矢は続投することとなった。翌年に改めて弘田が解任され、大矢も再度抗議したため、結局両者とも球団を去ることになった。
    • ちなみに2007年シーズンに大矢が横浜監督に復帰した際には弘田をヘッドコーチとして起用していることから、大矢が弘田を高く評価していることがわかる。
  • かつて2度、古巣・ヤクルトの監督要請の噂があった。1度目は1986年土橋正幸監督辞任後であり、松園尚巳オーナーが川上哲治に相談したところ、「監督には捕手出身がいい」という意見から第一候補であった(後に監督となる野村克也も候補に挙がっていた)。2度目は1998年オフ、野村監督の後任として監督就任を打診されたが、「自分が育てた選手(横浜の選手を指す)と戦うのは辛い」との理由で辞退している(後任監督は若松勉が就任)。
  • 二女は2004年2005年に横浜の2代目オフィシャル・リポーターを務めていた大矢陽子である。同球団のウェブサイトにコラムを掲載していた。またtvkの球団応援番組の司会やベイスターズナイターのイニングの合間にもスタンドから球団の告知をレポートしていた。娘を溺愛しており、娘が海外に行く際には仕事を休んでまで娘の送り迎えをするほどである。
  • 2度目の横浜監督就任時の背番号は第一次横浜監督時代にバッテリーコーチを務め、前年に白血病で死去した小山昭晴の85番になった。
  • 2007年6月14日の交流戦3回戦(対日本ハム)でヤクルト選手時代の1972年9月30日の中日戦以来、実に35年ぶりの退場となった。これは監督としては初である(退場後は弘田ヘッド兼打撃コーチが監督代理を務める)。横浜が4-3と1点リードの6回裏1アウト一・二塁で代打田中幸雄が放ったゴロを捕球しようとした二塁手仁志敏久が一塁走者川島慶三と交錯。仁志は捕球できず、打球がライトへ転がる間に二塁走者が生還し同点となってしまった。大矢はこのプレーを守備妨害であると抗議し、退場処分となった。抗議時間が定められた5分を超え8分となり、「遅延行為」とみなされたためである。なお二塁塁審丹波幸一は「打球が仁志選手の近くに来ておらず、守備の段階ではなかった」と説明している(なお、横浜はセ・リーグへ抗議文を提出した)。
  • 豆腐うどんが嫌い(2007年7月16日のフジテレビ739プロ野球ニュース』に於いて司会の佐々木信也が「この世で一番嫌いなもの3つは?」と取材した際の大矢のコメント。他2つは「やる気のない選手」、「負けること」)。
  • 2008年の5月26日のオリックス戦では、頭を丸めて試合に臨み、勝利した。監督生命をかけた年だからできることはなんでもするといい、頭を丸めて好調が続くのならまたやると言う。
  • 2009年4月16日の広島戦(3回戦)で、遅延行為により現役時代も含め通算4回目(監督としては3回目)の退場処分を受けた。また、この退場処分により、同年から広島の本拠地となったマツダスタジアムでの退場処分者第1号となってしまった(退場後は杉村繁打撃コーチが監督代理を務めた)。

[編集] 監督としての用兵・采配の特徴

  • コンバートを非常に好み、第1期・第2期共に積極的なコンバートを行っている。第1期では三塁手だった石井琢朗遊撃手に、遊撃手だった進藤達哉二塁手に、二塁手だったローズを三塁手へと入れ替える内野総コンバートや、当時絶対的な信頼を誇る中継ぎであった盛田幸妃の先発転向など思い切った改革を進めた。結果として、石井は遊撃のレギュラーとして永年にわたってベイスターズの内野を支えたものの、他の選手、特に盛田とローズに関しては失敗に終わった。ローズについてはその後二塁手に戻り、進藤が三塁に入る形で実質石井と進藤の入れ替えという形になった。盛田については一年目で失敗しているにもかかわらず、深刻な先発投手不足から二年目の1997年にも開幕投手を任せたりしている。第2期では前年の2006年から外野と一塁を兼任していた吉村裕基一塁手に専念させ、牛島監督時代に「クワトロK」と呼ばれていた中継ぎ投手陣も加藤武治川村丈夫を中継ぎから先発へ転向させてこれを解消、中継ぎ左腕不足の事情から那須野巧を先発から中継ぎへマーク・クルーンの移籍から寺原隼人を先発からストッパーにコンバートさせた。吉見祐治もシーズン途中に先発と中継ぎを掛け持ちさせている。那須野はほぼ一年を通して左の中継ぎとして活躍したが、加藤と川村はローテを守れず、またしても失敗に終わった。
  • 第1期1年目の1996年はストッパーの佐々木主浩に頼らないぐらいの自覚を持たせるべく、先発投手陣に完投を求め、完投数はリーグ2位の25を記録している(完投数リーグ1位は優勝した読売ジャイアンツの30)。斎藤隆が延長戦を1人で投げ抜くこともあった。しかしその結果、チーム防御率は4.67とリーグワーストを記録し、順位も同一リーグ全球団負け越しの5位で、しかもこの年最下位だった阪神タイガースに1ゲーム差と迫られるなど、あわや完全最下位という有様だった。
  • それ以降では方針を転換し、頻繁に投手交代をするようになった。ワンポイント継投が多く、一試合に多数の投手を起用することがしばしばあっため、マシンガン打線をもじってマシンガン継投と揶揄された。第1期では前任監督が同様に良く動くタイプの近藤昭仁だったため目立たなかったが、第2期では前任監督が消極采配の牛島和彦だったために違いが際立つようになった。
  • 野手や代打起用は、相手が右投手なら起用する打者は左などの様に、基本的に相手投手の左右によって決めている。これは投手起用も同様で、上記のマシンガン継投に繋がっている。
  • 捕手は負担が大きいため8番に置くのが持論であるが、2007年には相川亮二の打撃が好調で規定打席を達成させるために2番に置いたこともある。
  • 投手の起用法については「ベテランに敗戦処理をさせても意味はない(プライドを傷つけられて腐るだけ)」「若い、経験の少ない投手なら敗戦処理でも『投げさせて貰える』とプラスに作用させられる」という持論を持っている。これは千葉ロッテマリーンズの監督を務めたボビー・バレンタインの持論と真っ向から対立している。

[編集] 成績

[編集] 年度別打撃成績

  • 表中の太字はリーグ最多数字
















































O
P
S
1970 ヤクルト 32 93 255 17 52 10 1 6 82 27 1 2 9 0 16 1 43 7 .204 - .322 .254 .576
1971 27 127 377 29 87 16 3 10 139 40 2 3 18 5 28 4 39 9 .231 23 .369 .291 .660
1972 120 361 44 97 24 2 5 140 40 6 2 15 4 36 0 33 9 .269 19 .388 .335 .723
1973 121 355 28 67 8 2 7 100 21 3 2 10 3 25 0 46 14 .189 - .282 .242 .524
1974 130 431 31 103 20 0 13 162 41 6 3 6 4 28 2 44 11 .239 26 .376 .289 .665
1975 130 436 27 106 17 0 9 150 43 2 3 0 4 26 0 38 14 .243 29 .344 .286 .630
1976 122 408 30 93 17 1 7 133 42 4 4 9 1 34 2 29 14 .228 32 .326 .313 .639
1977 85 282 28 71 14 1 8 111 29 1 1 4 4 17 1 30 5 .252 - .394 .297 .691
1978 118 365 44 98 13 0 7 132 44 2 2 13 3 26 1 29 10 .268 32 .362 .319 .681
1979 100 321 26 87 10 0 6 115 31 6 3 4 1 11 5 32 7 .271 - .358 .308 .666
1980 110 368 35 104 15 3 8 149 50 1 10 4 4 25 3 32 14 .283 16 .405 .333 .738
1981 82 213 21 47 8 3 2 67 23 2 1 9 2 10 0 18 10 .221 - .315 .256 .571
1982 81 247 16 67 9 0 1 79 18 3 1 2 3 18 1 25 5 .271 - .320 .323 .653
1983 66 150 12 39 5 1 2 52 20 1 1 5 2 21 0 16 3 .260 - .347 .351 .698
1984 50 77 10 23 1 1 2 32 9 1 0 4 0 7 1 6 1 .299 - .416 .212 .628
1985 17 19 1 3 1 0 0 4 1 0 0 1 0 0 0 6 0 .158 - .211 .158 .369
通算成績 1552 4665 399 1144 188 18 93 1647 479 41 38 113 40 328 21 466 133 .245 - .353 .298 .651

[編集] 年度別守備成績

年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 失策
1970 88 88 38 50 .568 3
1971 126 144 85 59 .410 12
1972 119 80 36 44 .550 4
1973 121 71 41 30 .424 5
1974 13 87 39 48 .552 6
1975 130 104 54 50 .481 2
1976 121 82 41 41 .500 3
1977 84 59 32 27 .458 2
1978 114 82 48 34 .415 7
1979 92 76 47 29 .382 4
1980 110 103 55 48 .466 2
1981 65 53 33 20 .377 2
1982 79 67 54 13 .194 2
1983 56 52 41 11 .212 3
1984 47 19 15 4 .211 1
1985 15 9 8 1 .111 1
通算 1497 1176 667 509 .433 59

[編集] タイトル・表彰

[編集] 背番号

  • 32 (1970年)
  • 27 (1971年 - 1985年)
  • 75 (1993年 - 1995年)
  • 81 (1996年 - 1997年)
  • 85 (2007年 - 2009年)

[編集] 監督としてのチーム成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1996年 平成8年 横浜 5位 130 55 75 0 .433 22 85 .270 4.67 49歳
1997年 平成9年 2位 135 72 63 0 .533 11 105 .273 3.70 50歳
2007年 平成19年 4位 144 71 72 1 .497 9 124 .265 4.01 60歳
2008年 平成20年 6位 144 48 94 2 .338 36.5 145 .266 4.74 61歳
  • 553試合 246勝304敗3分
※1 1996年は130試合制
※2 1997年から2000年までは135試合制
※3 2007年からは144試合制

[編集] 脚注

  1. ^ 大矢監督が休養。後任の監督代行にSR田代監督が就任 横浜ベイスターズ公式HP 2009年5月18日発表

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月13日 (金) 20:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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