大砲万右エ門
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大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、明治2年11月28日(1869年12月30日) - 大正7年(1918年)5月27日)は、大相撲の第18代横綱。宮城県白石市出身。尾車部屋。本名角張萬次。
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[編集] 人物・相撲
身長実に197cm(194cm説も)にも達した当時史上最長身の横綱(ちなみに体重は132kg)。後に199cmの双羽黒が登場するまでこの記録は破られなかった。不器用を絵に描いたような力士だったとはいうが、力は強く突っ張って突き切れなければ叩く取り口で右四つ左上手を取って、万全の構えを取れば誰にも負けなかった。序二段にいた明治21年(1888年)、四股名を「三澤瀧」から「大砲」に改名(「大炮」と名乗っていた時期もあった)。明治25年(1892年)6月場所に新入幕、3勝6敗と全く通じなかったが、その大きさゆえか周囲の崩れに助けられたか、翌場所は何と小結にまで昇進していた。明治32年(1899年)5月場所に新大関、4場所勤め全休1回、途中休場も1回あったが、どういうわけか1度も負けず横綱免許を獲得した。横綱免許を獲得したおりに止め名であるはずの谷風の襲名を勧められたが本人は笑い者にはなりたくないと断わった。明治35年(1902年)5月場所には8勝1分の現在なら優勝に相当する成績も記録したが、陸軍の砲兵に志願して、明治36年(1903年)5月場所から3場所全休、帰って来た時には持病のリウマチを悪化させていた。
不器用ゆえか、自分で動くと失敗が多く、相手の出を待つ取り口で、しかも非常に相撲が遅いので引分が飛び抜けて多く、最後の皆勤場所となった明治40年(1907年)5月場所には9日間全部引分という記録まで出した。これには雷親方(元初代梅ヶ谷)の“横綱は負けてはいけない”という発言が関係していたとも伝わる。普通勝たないといけないと解釈しそうなのをこう持っていく事ができたのは、当の雷親方も1880年1月場所で6休4分という記録を残していたりと引分で凌いだ事もあるためである。横綱時代の引分率は何と約40%、復員後の3年6場所に限ると7勝3敗1預25引分、69%にまで跳ね上がる。こうしたことから横綱ではなく「分け綱」だと言われた。明治41年(1908年)1月場所限りで引退。
常陸山ですら彼には苦戦し、当の本人も常陸山が相手だと聞けば安心していたと伝わる(ちなみに、対戦成績は8戦して大砲の2敗6引分に終わっている)。両者ともに受ける相撲を得意とし大砲は自分からはほとんど攻め込まず右四つに組み止めて左上手で守りを固めると動かない、左腕を引っ張り込む攻め方の常陸山にとってはこれ以上取りにくい相手もいなかったのだろう。
相撲は不器用だが頭はよく、話上手なので親方になってからは巡業の売込でその手腕を発揮した。年寄待乳山を襲名し、部屋を経営した。後の小結光風貞太郎が門下であったが、十両昇進前に死去したので、光風は出羽海部屋に移籍した。
土俵入りは現在の雲竜型と呼ばれるものに近かったがせり上がりの後に両腕を広げると言う現在では見られない型で行なっていた。この土俵入りは映像が現存する。
焼芋が大好物で2貫(7.5kg)は軽々食べたという逸話もある。また土俵入りや取組の映像が現存する。
[編集] 年譜
- 1869年(明治2年)11月28日※1 宮城県白石市大鷹沢に農家の次男として生まれる。
- 1884年(明治17年)5月 尾車部屋に入門、三澤瀧の名で初土俵。
- 1892年(明治25年)5月 新入幕。
- 1901年(明治34年)4月 吉田司家から横綱免許を授与される。
- 1908年(明治41年)1月 引退、年寄・待乳山を襲名。
- 1918年(大正7年)5月27日 背中の腫れ物を手術後、糖尿病のため死去。享年48。
※1 新暦では12月30日
[編集] 主な成績
- 幕内在位:32場所(途中兵役で3場所休場)
- 幕内通算成績:98勝29敗51分4預138休、勝率.772
- 優勝相当成績:2回
[編集] 関連項目
- 横綱一覧
- 引分
- 大鵬幸喜:「お前は次の場所からタイホウだ」と親方に改名を伝えられた彼が最初に連想した文字は「大砲」で、親方は「それはオオヅツと読んで……」と横綱大砲の話を聞かせたという。なお、大鵬は後に、巨砲と書いてオオヅツと読む弟子を持つことになる(元関脇の巨砲丈士)。
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年10月19日 (月) 06:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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