大門山
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| 大門山 | |
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![]() 大門山。金沢市キゴ山より望む (1996年(平成8年)5月撮影) |
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| 標高 | 1571.59m |
| 位置 | 北緯36度21分55秒 東経136度48分13秒 |
| 所在地 | 石川県金沢市 富山県南砺市 |
| 山系 | 両白山地 |
ウオッちず Google Map 大門山
大門山(だいもんざん)は、石川県金沢市と富山県南砺市との県境にある山。
頂上に国土地理院の三等三角点(「大門山」と命名)が設けられている。
目次 |
[編集] 概要
国土地理院の掲載1:25000地形図は、『西赤尾』(にしあかお)である。
石川県側では犀川上流の支流倉谷(くらたに)川の水源地帯に位置する。富山県側では小矢部川の水源地帯に位置し、口三方(くちさんぽう)山と呼び、奈良岳の倉谷三方山と対比させる。小矢部川最上流部、大門山の山腹には、不動滝(不動瀑)がある。
金沢市の平野部からは山容が富士山に似て美しく「加賀富士」または「金沢富士」の別名がある。 とりわけ金沢市東部の浅野川流域をはじめとする旧浅川村に相当する地域から見上げた姿は秀逸である。
山頂付近は灌木が繁り、チシマザサの群落がある。山腹はコブシが多い。
山頂からの眺望は、残雪時は金沢市街や刀利ダム等を遠望できるが、夏・秋季は草木のため必ずしも望めないことがある。
山域周辺の地質は、層厚数百mにおよぶ岩稲累層からなる。 新第三紀中新世の2000~1700万年前に北陸地方(の恐らく水域)で起こった激しい火山活動によるもので、安山岩質の溶岩および火山砕屑岩からなる火山岩が主体で堆積岩をはさむ。いわゆるグリーンタフの一部とされる。 『皇国地誌』[1]ではこの岩からなる大門山を、「巨岩崔嵬トシテ峻嶮ヲ極ム」と表現している。
大門山の北麓、石川県側に流れる倉谷川西岸には、16世紀末~20世紀初頭まで倉谷鉱山があり、金・銀・銅・鉛を産出した。
[編集] 「大門山」をはじめとする呼称
この山は人里から非常に目立つ存在のため、古くから認識されていたはずだが、いつごろから「大門山」と呼ばれるようになったか定かでない。文政4年(1821年)測量の往来道図[2]には既に「大門山」の名が記されている。 また二十万分一輯製図『金澤』陸地測量部(明治21年(1888年)輯製)にも「大門山」の名が記されている。
『石川県石川郡誌』[3]によると、大門山は2つの小峰からなり、南側を「岩戸山」、北側を「高舂山」という、とある。一方、天保元年(1830年)頃成立したとされる『加能越三州地理志稿』では、「岩戸山」・「大門山」・「高舂山」は独立した山として記述され、明治初期に成立した『皇国地誌』[4]では、「岩戸山」は大門山の一部のような記述となり、「高舂山」は大門山の北に接する別の山となっている。 今日では、高舂(たかうす)山=多子津山と考え[5]、岩戸山=赤摩木古山と考える[6]ことが多いようである。
また昭和初期の『石川郡誌』によると、周囲の山々の呼称は、現在(地形図の表記)と若干異なっていた。県境上、南に続く赤摩木古(あかまつこ)山は、赤摩不古山(あかまふこやま または あかまつこやま)と呼ばれた。県境上、北に続く赤堂山・月ヶ原山等は、百山(ももやま)と総称され、その内訳として阿咸堂(あかんどう)、尻高、赤目缼(あかめがけ)、地獄、矢代(やしろ)、等と呼ばれていた。 「百山」の呼称は、文政年間の測量図[7]にもある。昭和初期に「百山」の呼称が残っていた一方で、五万分一地形図『西赤尾』陸地測量部(明治42年(1909年)測図)には「百山」の呼称が反映されておらず、これは現在の地形図も変わっていない。そのためか「百山」の呼称は今日では忘れ去られてしまったようである。
[編集] 登山道など
現在登山道は「加賀富士」の名がありながらも金沢市側からはなく、南砺市ブナオ峠の車道脇から尾根づたいに頂上に至る。登山道自体はごく短く、短時間で登れるが、ブナオ峠に至る道路が幅員せまい悪路(通行止めになることは珍しくない)で、豪雪地帯で通行可能期間が短く、登山者にとっては近づき難い山だと言える。
ブナオ峠に至る道路は、加賀平野部と越中五箇山を結ぶ間道で、真宗教団の布教・連絡路、物資の交易ルートを兼ねた。特に江戸期には五箇山で生産された塩硝が、ブナオ峠を越えて金沢の土清水の塩硝製造所へ運ばれた(富山県道54号福光上平線)。
かつての山域の道は現在と若干異なっていた。五万分一地形図『西赤尾』陸地測量部(明治42年(1909年)測図)によると、山頂部や尾根には道がなく、石川県側の倉谷集落から倉谷川沿いを登り、月ヶ原山・多子津山をかすめ、大門山の北側斜面を通り、ブナオ峠に至る道があった。ただこの道は登山道というよりも、世俗的な交易路と捉えるべきだろう。 この道は、五万分一地形図『下梨』陸地測量部(昭和5年(1930年)修整測図)では消えている。
一方で、『皇国地誌』・『石川郡誌』によると、かつて石川県側から「登路」[8]があったとしている。この「登路」とは、先の明治42年測図地形図のものと一致するか、それとも今日で言うバリエーションルートに近いものかは定かでない。
[編集] 脚注
- ^ 「加賀国石川郡村誌第十四巻」『皇国地誌』
- ^ 『三洲測量図籍』金沢市立玉川図書館近世史料館蔵。現南砺市の福光からブナヲ峠を経て西赤尾に至る往来道筋を描いたもの。この史料は、既にこの時代、越中側から「大門山」と呼んでいたことを示す上でも重要である。
- ^ 『石川県石川郡誌』石川県石川郡自治協会(1927年)
- ^ 「加賀国石川郡村誌第十四巻」『皇国地誌』
- ^ 石川の山編集委員会編『石川の山』石川県山岳協会(1989年)など
- ^ 『角川地名大辞典 17 石川県』
- ^ 『三洲測量図籍』金沢市立玉川図書館近世史料館蔵
- ^ 『石川県石川郡誌』石川県石川郡自治協会(1927年)。「登路は倉谷より二里三十一町三十間」
[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
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