大阪市交通局30系電車
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大阪市交通局30系電車(おおさかしこうつうきょく30けいでんしゃ)は、1967年から1984年にかけて製造された、大阪市交通局の高速電気軌道(地下鉄)用通勤形電車である。
本項では30系の母体となった7000・8000形についても記述する。
| 大阪市交通局30系電車 | |
|---|---|
30系ステンレス車・冷房改造車(八尾南にて)
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| 編成 | 6両編成 (4M2T) |
| 起動加速度 | 2.5km/h/s |
| 営業最高速度 | 70km/h |
| 設計最高速度 | 100km/h |
| 減速度 | 3.5km/h/s(常用最大) 5.0km/h/s(非常) |
| 車両定員 |
座席39名・立席91名(先頭車) |
| 最大寸法 (長・幅・高) |
18,700×2,890×3,745mm |
| 車両質量 |
21.5t(3600形 アルミ製) |
| 軌間 | 1,435mm |
| 電気方式 | 直流750V(第三軌条方式) |
| 出力 | 120kW × 4基 × 4両 = 1,920kW |
| 主電動機 | 直流直巻式電動機 東芝製SE-540 |
| 歯車比 | 16:99=1:6.19 |
| 制御装置 | MMC-HTB-20D(弱め界磁起動1段、直列11段、並列8段、弱め界磁4段、発電制動17段) |
| 駆動装置 | WN平行カルダン駆動方式 |
| ブレーキ方式 |
発電制動併用電気指令式電磁直通空気制動(OEC-1) |
| 保安装置 | CS-ATC(千日前線車両のみ。現・消滅) |
| 製造メーカー | 東急車輛製造、川崎重工業 日本車輌製造、近畿車輛 ナニワ工機(アルナ工機) |
| 備考 | 数値は冷房改造後の値 |
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この表について
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目次 |
[編集] 概要
1970年3月14日(一般公開開始は翌15日)より180日間の日程で千里丘陵で日本万国博覧会(EXPO'70)が開催されることとなり、これに対応すべく大阪市は6路線で総延長64.2kmの新線建設を含む地下鉄網整備緊急5カ年計画を立案、日本国有鉄道(国鉄)大阪環状線内の地下鉄網の緊急整備と路面電車網の全廃、それに当時東海道新幹線との連絡駅である新大阪まで到達していた大阪市交通局高速電気軌道1号線[1]を江坂まで延伸、そこから先を大阪府や阪急電鉄などが出資した第3セクターである北大阪急行電鉄[2]が万国博中央口まで建設し、1号線と北大阪急行電鉄の間で相互乗り入れ運転とすることで万博会場へのメインアクセス機関とすることが決定された。
この際、大阪市交通局では新線建設に伴う車両の所用増[3]を充足すべく新造車両の投入が実施されることとなった。
しかしながら、当時の1号線では開業以来の100形を筆頭とする吊り掛け駆動方式の17m級片開き3扉車が、50系などの17m級両開き3扉WNドライブ車と混用されていた。混雑対策としては、開業当時に計画されていた通り増結に次ぐ増結で対処されていたものの、これも1964年9月の新大阪延長に伴う8両編成化で施設面からは当初計画の限界に達し、更にラッシュ時の運行間隔も旧式な打ち子式ATSや各形式の加減速性能の相違などにより2分15秒ヘッドで頭打ち、と既に輸送力の限界に到達しており、単純な新車の増備では想定される万博観客輸送に対応しきれないことが明白であった。
ここで当時大阪市交通局局長であった今岡鶴吉は1967年12月に一つの決断を下した。
それは、『最新(1967年当時)のWS-ATCに対応する新型18m級4扉車を一挙に240両新造して1号線へ集中投入し、予想される万博観客輸送に対応しよう』というものであった。
これにより、戦時中の酷使もあって老朽化が進行し故障頻度が増大していた、1号線在籍の1000形以前の吊り掛け駆動車の全車淘汰が可能となり、さらに車齢が若く充分な走行性能を備える1100形以降のWNドライブ車を輸送密度の低い2号線以下の各線に全車転用することで当時延伸計画が急ピッチで進められていたそれらの線区の車両需要が満たされ、しかもATC化された1号線で運用する車両を全て収容力の大きな新型車で統一することで運行間隔の短縮[4]と運用の効率化を実現して、必要となる車両の総数を当初計画より大きく削減[5]しつつ実質的な輸送力の増大を図ることが可能となった。
この計画に基づき、当時2号線(現在の谷町線)と4号線(現在の中央線)に新製投入されていた7000・8000形を基本としつつ、その後の運用実績を踏まえて改設計を行った上で製造されたのが本系列である。
本系列は2・4号線から転属となった7000・8000形からの編入車18両を含め、8両編成30本分で合計240両が万博開幕までに製造されたほか、万博終了後に同一設計であった北大阪急行電鉄7000・8000形[6]56両が編入され、更に1974年以降の新線開業に伴う所用増に対応して83両が追加製造されたため、総数は363両に達し、新20系がこの記録を破るまで局内最大勢力を誇った。
本系列以降の大阪市営地下鉄の新造車は、阪急電鉄との乗り入れ協定の関係から3扉車とせざるを得ない堺筋線用と、システムが根本的に異なる長堀鶴見緑地線・今里筋線用を除く第三軌条集電の各線向け車両が全て18m級4扉車で統一され、輸送力増強と規格統一による保守コストの削減、それに柔軟な車両運用に大きく貢献している。
本系列は大阪市営地下鉄の現有車両でもっとも古く、堺筋線で使用されていた60系が2003年11月に営業運転を終了した後は、現有車両で唯一の抵抗制御車となっている。
[編集] 車体
7000・8000形の構造を踏襲し、車両長18mのアルミニウム合金またはステンレス鋼[7]製の車体を備える。
ステンレス車体は本系列の前身である7000・8000形が、アルミ車体は本系列が、それぞれ大阪市営地下鉄での初採用である。
1つの車両系列に2つの車体構造が採用されたのは、当時ステンレス車体もアルミ車体も発展途上にあり、比較検討をするため[8]であったとされる。もっとも、車両調達を公開入札による大阪市交通局の場合、特定のメーカーしか製造できない構造のみを採用することは叶わず[9]、2種類の構造を併用することで入札の門戸を広くし、より多くのメーカーを製造に参加させることで万博開幕までの短期間での車両増備完遂を可能とする意図があった。
窓配置は運転台付きの車両がdD2D2D2D1(d:乗務員扉、D:客用扉)、中間車が1D2D2D2D1で、片側面に各4カ所設けられた客用扉は一般的な1,300mm幅の両開き扉とされ、戸袋窓は省略、扉間の2枚の窓は上段下降・下段上昇式のユニットサッシが採用された。
扉位置は軽量化のため台枠の台車ボルスタ位置を避けてあり、これにより強度保持に必要な梁の本数や太さを最小限とすることで大幅な軽量化を実現した。
屋根の断面形は工作の簡易化のために単一曲率の単純な形状が選択され、通風装置については1000形1020以降の在来車と同様、屋根上に通風ダクトが設けられ、ファンデリアがそれぞれ運転台付き車両は7基、中間車は8基設置された。
前面は7000・8000形と同様、ATCの車上機器設置のために左側の窓が小さくなり、その下に番号板が取り付けられた。その一方で8両固定編成での使用を前提に貫通路幅が700mmから610mmに縮小され、更に7000・8000形では左側窓上に設けられていた列車番号枠が廃止されて1段下がっていた窓そのものの寸法が拡大され、左右の前面窓の上辺が揃えられており、「前面は左右対称」という考えが一般的だった当時では画期的なデザインといわれた[10]。なお、7000・8000形からの編入車は列車番号枠は塞がれたものの、万博輸送中は前面に幌枠を付けて4両編成(C編成と呼称)単位で運用され、8両固定の通常編成[11]A+B編成が半分ずつ定期検査される際などにその欠を補い、更に必要に応じてC+Cで編成中間に運転台のある8両編成として運用されるなど、貫通可能な運転台構造を最大限に有効活用された。
1989年以降は警笛が更新され、独特の低音を発するエアークラクションが順次取り付けられた。
座席は全てロングシートである。1973年以前に製造されたグループは前身である7000・8000形の仕様を踏襲し、人間工学に従って設計されたとされるFRP製の枠に発泡ウレタンを詰め物として使用し、ビニールレザーを張った一人ごとに独立した座席[12]を備えていたが、特に夏場には非冷房車であることも手伝って、汗で滑ったりべとついたりしたため、乗客からは大変な不評を買い、1974年以降製造の後期増備車では通常のソファータイプモケット張り連続座席[13]に変更され、既存車両についても順次、全数がモケット張り座席に交換されている[14]。
また、1977年製増備車からは暖房装置の設置が行われ、その後在来車についても追加設置が開始された。
車体は腐食の心配が無いことから、最初御堂筋線に配置された際には全くの無塗装で使用された。その後、路線ごとのラインカラーを使用した案内を行うために、まず前面貫通扉が塗装され、次いで側面窓下に帯が入るようになった。色は御堂筋線がクリムソンレッド(■)、谷町線がロイヤルパープル(■)、四つ橋線がビクトリアブルー(■)、中央線がスペクトリウムグリーン(■)、千日前線がチェリーローズ(■)である。後に地上区間がある御堂筋線、中央線では保線員などの視認性向上のために前面ライト周りにも帯が入れられた。
なお、側面帯は側窓下部のみとされ、扉部分には入れられていなかった。また、ドア間には中央に1つずつ、片側に計3つの市営地下鉄シンボルマークが帯内に入っていた。ただし谷町線に現存する車両は後の冷房改造時にこれとは異なる帯に変更されている(後述)。
[編集] 主要機器
[編集] 主電動機
全電動車方式であった50系とは異なり、8両編成で中間に主電動機を持たない付随車を2両挿入して6M2T編成で使用することが当初より計画されていた。このため、定格出力を33%アップ[15]とした、補極付きの直流直巻式電動機である東芝SE-540が7000・8000形に引き続き採用されている。
駆動方式は大阪市交通局標準のWNドライブで、歯数比は6000形以来の103:14=7.36である。
[編集] 主制御器
主制御器として日立製作所製多段電動カム軸式制御器であるMMC-HTB-20Dを搭載する。
これは基本的には電動車2両分で8基の主電動機を1基の主制御器で制御する、1C8M方式を前提とする主回路構成となっている。だが、線区の輸送需要によっては端数が出る可能性があったことから、将来の転用を考慮して電動車1両での運用に備え、1C4M制御も可能なように主回路構成に工夫が凝らされている。
この制御器も6000形で初採用された日立製作所MMC-HTB-20A・20A1を改良した、7000・8000形用のMMC-HTB-20Bを更に改良したもので、段数はMMC-HTB-20Bと同じく限流ノッチ1段・直列11段・並列8段・弱め界磁4段・電制17段となっている。
[編集] 台車
6100形で採用された1自由度系のノースイング・ハンガー台車である住友金属工業FS-359の設計を継承する、全溶接構造オールコイルばね台車である住友金属工業FS-366(スキンステンレス電動車用)・366A(アルミ電動車用)・066(スキンステンレス付随車用)・066A(アルミ付随車用)と日立製作所KH-54(スキンステンレス電動車用)・54B(アルミ電動車用)・62(スキンステンレス付随車用)・62A(アルミ付随車用)が採用された。
これらの内、FS-366とKH-54はスキンステンレス車であった7000・8000形のものをそのまま踏襲しているが、アルミ車用の各形式は軽量化のために各部材の板厚を薄くし、ばねを定数の低いものとしてあり、重いスキンステンレス車には使用できない。また、付随車用4形式はいずれも主電動機支持架を省略するだけではなく軸距を100mm短縮して2,100mmとし、車輪径も860mmから762mmとするなど、徹底して軽量化が図られており、その一方で車体が軽すぎて揺動が抑えきれないのを防止するため、電動車用には無い枕ばねへのオイルダンパ追加が実施されている。
[編集] ブレーキ
旧6100形までのHSC-D電磁直通ブレーキに代えて、7000・8000形で採用された[16]電気指令式ブレーキ(局内呼称OEC-1形・三菱電機製MBS)が引き続いて採用されている。
このシステムは従来運転台のブレーキ弁から電気信号と空気圧で指令されていたブレーキ操作を、常用3本、非常1本[17]、それにグランド1本の5本の信号線を編成全体の1往復半引き通して伝達する[18]ことで応答性の向上を実現するもので、常用は3本の信号線を3ビットのデータバスと見なして7段の指令[19]を行い、更なる簡素化を実現している。
[編集] 形式と編成
本系列を構成する各車両の形式は以下のとおりであり、各車両の番号は4桁の数字の数字で示される。
↑南
- 3000形 (M1c)
- 八尾南駅方の先頭に連結される制御電動車。3300形とユニットを組む。制御器と集電靴を搭載する。
- 3300形 (M'2e)
- 2両目に連結される中間電動車。3000形とユニットを組む。蓄電池と電動発電機 (MG) 、空気圧縮機 (CP) を搭載し、3号車寄りの車端部には簡易運転台(営業時は扉の中に封印)が設置されている。
- 3600形 (T')
- 3両目に連結される付随車。2号車寄りの車端部に簡易運転台が設置されている。
- 3700形 (T)
- 4両目に連結される付随車。MGを搭載する。
- 3400形 (M1)
- 5両目に連結される中間電動車。3500形とユニットを組む。制御器、集電靴を搭載する。
- 3500形 (M'2ec)
- 大日方の先頭に連結される制御電動車。3400形とユニットを組む。CP、蓄電池、集電靴(運転台側のみ)を搭載する。
↓北
- 「ユニット」とは各車ごとに主制御器や電動発電機、空気圧縮機などの主要機器を集約分散搭載し、
- 「e」は蓄電池搭載車を表す、大阪市交通局独自の記号。
- 編成は谷町線を基準にしている。
[編集] 製造時期による車種分類
[編集] 7000・8000形からの編入車
1967年に製造された、当初7000・8000形と付番されていた試作的な車両をそれぞれ3000・3500形として本系列に編入したグループ。他編成との併結運転を考慮し、乗客が楽に通行ができる様に前面貫通扉幅が700mmと広めにとられており、その分運転台が狭い。前面貫通扉の上部の角は丸みを帯びており、すべての角が直角な30系とは異なるデザインであった[20]。また、前面左側窓上に運行番号表示器が設置されていた[21]。車内も網棚が戸袋部のみにあり、側窓天地寸法が以降のものと比較して50mm背が高い、などの差異が存在する。7006-8006の2両は、ファンデリアを試験的に千鳥型に配置したため、屋根上のモニターが2列になった。
なお、7007F(→3007F→3071F)はATO試験車で対応機器が設置されていたが、御堂筋線転属に際し50系の5070Fに移設された。
当初は2・4・5号線用として設計され、新造時こそ2・4号線で運用されたが、30系編入時に中間車を新造・編入し、8両編成として御堂筋線へ転属した。この時、7005 - 7007Fは、中間車を6両新造して8両編成化(3005 - 3007F:A+B編成と称した)、7001 - 7004Fと7008F・7009Fについては、中間車2両を新造して4両編成(3094 - 3099F)となり、通常は3094F+3095Fの様に2本を組んで、8両編成として使用された(C編成と称した)。
C編成のうち3098F(元7008F)は、1977年の谷町線(2号線)守口延長に備え、さらに2両の中間車を新造して6両編成となり、谷町線に復帰した[22]が、他のC編成は、10系増備時に、中間車を1両新造・編入し、番号を改番の上四つ橋線へ転属した。A+B編成となった3005 - 3007Fも、同時期に5両編成に短縮の上、四つ橋線に転属した。
側扉は当初スケルトンドアだったが、老朽化したため、1988年頃に後述の新30系で採用されたハニカムドア(窓ガラスはもともと大型化されており、それまでは四隅が角ばっていたが、こちらでは四隅が丸みを帯びている)へ更新された。そのため、新30系とは一見しただけでは見分けがつきにくいと思われがちだが、側窓天地寸法に差異があったり、側面車号板が2カ所のままだったので外観上からの識別は容易だった。
[編集] 30系としての新造車1(初期型)
1970年の大阪万博に備えて量産されたグループ。基本設計は7000・8000形に準ずるが、併結運転は考慮しておらず前面貫通扉幅は610mmと狭くされた。このグループから車内の網棚が扉間にわたって設置されるようになったため側窓の天地寸法が縮小され、側扉の窓ガラスは子供の事故防止のために小型化[23]された。
車体は7000・8000形同様のスキンステンレス構造(3001 - 3004F)と、設計時に比較検討されていた軽合金構造(オールアルミ車:3008 - 3025F)が採用された。
3008F(アルミ車)は当初2両編成で2・4号線に投入され、7000・8000形に混じって運用されていたが、7000・8000系共々中間車を新造して御堂筋線へ転属した。
この2両を除き、全て御堂筋線に新造配置されている。
1991年6月28日付で3019Fから3119・3219・3619・3719・3819の5両が余剰廃車となっており、このグループから30系初の廃車が発生している。また一連の初期型の廃車は、1995年6月30日付の3511Fまで続いた。
[編集] 北急7000・8000形からの編入車
万博開催時の輸送力確保のため、北急は2000形の他に7000形スキンステンレス車40両、8000形オールアルミ車(現在の8000形とは無関係)16両を製造した。これらは当初より万博終了後の大阪市への譲渡を前提として製造されたため、2000形と違い完全な30系の同型車であった。
7000形40両のうち、8両編成1本は先頭車のみで構成されており、残りの8両編成4本から中間車を3両ずつ挿入すると5両編成8本となるような編成を組んでいた[24]。大阪市が譲受後、まず先頭車のみで組成された編成(3055F:元7005F)を4両編成2本に分割し、四つ橋線で使用開始した。残りの編成のうち3051F(元7001F)は、1972年より8両編成のまま、暫定的に御堂筋線で使用された。1973年の5両編成化時に、未使用のまま休車となっていた残りの8両編成3本(3052 - 3054F)も含めて当初の計画通り編成の組み換えが実施され。全車四つ橋線での使用を開始した。なお、後述の後期型に属する3089Fよりも番号の若い4本(3085 - 3088F)と3091Fは、すべてこのグループから谷町線への転用改造を受けている。
8000形は30系アルミ車8両編成そのものであり、大阪市譲受後も8両のまま御堂筋線に配置され、3026・3027Fとなった。
この2編成は後に中央線へ転属し、3034・3037Fに改番された。この内3526号は御堂筋線9両編成化に伴う組換えで一時的に中間付随車3817号に改造され、当時の鉄道ファンから注目を集めたが、中央線転用時に制御電動車に復元された。なお、御堂筋線9両編成化の際にこの2編成の中間車は全て付随車3800形に改造され、30系他編成に挿入された。このため中央線転用時は同じく転用される他編成から捻出された中間車と元自編成の簡易運転台付き中間車を機能復元の上で挿入している。
[編集] 30系としての新造車2(後期型)
1973年以降に製造された車両ではマイナーチェンジが実施され、「新30系」と呼ばれるグループとなった。最初は四つ橋線へ、続いて谷町線にも投入された。
これら新30系では電笛の設置、途中から座席の改良(モケット張りに変更)が実施された。また谷町線へ投入されたうちの6両編成6本はアルミ車で構体に大形アルミ押し出し材を使用し、10系同様に車体軒けた上端に丸みが付加された。スキンステンレス車では工作の簡易化のために外板の継ぎ目を突き合わせで溶接されていたのが重ね合わせのみとなり、途中からスミ柱の形状と雨どいが変更された。側扉の窓ガラスも再度大型化されたため、これらはこれまでの30系とは趣が大きく異なる外観となった。
御堂筋線→中央線の転属に際し中間の2両を抜くことで6両編成化されたが、この転属第一陣の余った中間車8両[25]を活用すべく1984年に最後の増備車となる3043・3543・3097・3597の4両[26]が製造された。特にアルミ車は車体の形状や断面が古い設計の中間車とは大きく異なるため、3043Fは編成としての外観のまとまりを欠いていた。なお、これら4両は方向幕操作器は10系原型車、20系原型車と同じタイプであっ た。なお、4両のうちスキンステンレス車である3097は後述の冷房化改造の際に中間車へ改造され、残りの3両は解体された。特にこの中で3043・3543は1993年7月10日付で廃車となった、いわば歴代30系の中で最も生涯が短かった車両であった(在籍期間は9年)。
また、このグループは30系としては比較的車齢が若かったため冷房装置搭載の対象となり、谷町線・四つ橋線の配置車に限り冷房化され、のちに谷町線に集結して現在も在籍する。
[編集] 運用線区ごとの特徴
[編集] 御堂筋線
30系がその輸送力を最大限に発揮した線区であり、8・9両編成で運用されたのは同線のみである。前面部は最初貫通扉のみラインカラーである赤に着色されていたが、地上区間があることから警戒色を兼ねてライト周りも帯が入るように変更された。
ステンレス車とアルミ車の両方が配置されていたが10系の投入に伴う淘汰で最初はステンレス車が(→谷町、四つ橋、中央線)、続いて21系の投入に伴う淘汰でアルミ車(→中央、千日前線)が転属となり、1993年に御堂筋線の冷房化100%達成とともに同線から運用を撤退した。最後まで残っていた3014・3022Fは転属せずに廃車となった。
なかもず延伸に伴う9両編成化が行われたのはアルミ車のみで、新造は一切行わず3026・3027Fの一部と3010Fの余剰中間車2両を有効活用して、3800形が誕生した。
[編集] 谷町線
東梅田 - 谷町四丁目間開業に際し7000・8000形が最初に配置されたのは同線であるが、御堂筋線へ転属した際に50系と入れ替えられた。
その後、延伸区間の開業時に3098Fが復帰し、先頭車は新30系がメインの同線にあって長らく珍しがられていた。さらに御堂筋線・四つ橋線からの移籍の編成も存在していた。ステンレス車は30系と新30系の両方が、アルミ車は新30系のみが配置されていた。1995年に谷町線の冷房化100%達成とともに非冷房編成が運用を終了し廃車となった。以後は冷房化された新30系編成が集中的に運用されている(後述)。
[編集] 四つ橋線
この路線はステンレス車のみが配置されており、元北急車や元7000・8000形がある程度まとまった数配置されていた。その後、23系の登場により一部の編成が谷町線に転属し、1995年に四つ橋線の冷房化100%とともに非冷房編成が運用から撤退した。新30系編成の3本(3059 - 3061F)は1992年から1994年にかけて冷房化されたが、1996年に全て谷町線へ転用された。
[編集] 中央線
谷町四丁目 - 森ノ宮間開業に際し7000・8000形3編成が新造され、既に落成していた6本(谷町線で使用)とともに共通運用に投入された。また、30系アルミ車第1編成である3008Fも2両編成で投入されたが、間もなくして御堂筋線から転属した50系と入れ替えられた。
その後、御堂筋線の10系投入に伴う余剰車発生と長田延伸、および近畿日本鉄道東大阪線(現・けいはんな線)直通運転開始に伴う車両確保のため転属及び新造が実施された。このため30系新造車(30系、新30系のそれぞれステンレス、アルミ車体)4種が同時に配置され、地上区間があることからライト周りにも帯が入っていた。1995年、中央線の冷房化100%達成とともに同線から撤退した。
近鉄東大阪線直通のため、抑速ブレーキが装備されていた。
[編集] 千日前線
当初計画では7000・8000形が投入される予定だったが、実際に30系が投入されたのは10系の増備が進み御堂筋線から余剰車が大量に発生した1991年(平成3年)である。全てアルミ車で全電動車の4両編成を組んでいたが、すぐに新20系の増備が進み、千日前線では短期間の運用にとどまり、1995年の冷房化100%達成とともに営業運転を終了した。御堂筋線時代にあったライト回りの帯は、全区間地下のため転属時に撤去された。そのため、一度見られなくなっていたはずのライト回りのむき出し部分が復活した。 保安装置に車内信号式ATCを採用しているため、運転台には車内信号が設置された。
[編集] 現存車
現在は新30系のうち、アルミ車6両編成6本・ステンレス車6両編成6本の計12本72両が、谷町線で運用されている。なお3059編成は30000系の営業運転開始と入れ替わるように2009年3月31日付で廃車となった。
1992年から1996年にかけて冷房化工事が施工され、10系以降と同等の冷房装置[27]が1両あたり2基ずつ搭載された。なお、本系列は改造の工数を極力減らし、また天井高さを確保する目的で屋根上に風洞が追加搭載されており、補助送風機としてローリーファンを併用する。
この改造による重量増から、アルミ車の動力台車は心皿荷重上限の制約からスキンステンレス車からの廃車発生品と交換[28]されている。ただし、付随台車についてはFS-066A・KH-62A(局内呼称EO-30A)[29]のまま変更されていない。
また、冷房設置と同時に客室改良も施工され、座席はラインカラーを意識した紫色に1人ごとの着席区分のマークが入ったものに変更、化粧板も白色のものに張り替えられた。改造当初路線カラー帯は元のままだったが、すぐに太い紫の帯の中に細い白帯が一本入るものに改められ、ドア部分にも帯が入れられた。現在、シンボルマークはドア斜め上に紫で描かれている。
[編集] 保存車
3042号車[30]が森之宮車両管理事務所で、3062号車[31]が緑木車両管理事務所で静態保存されている。いずれも通常は非公開であるが、3042号車は2008年3月23日に開催された地下鉄開業75周年記念イベント「なつかし車両まつりin森之宮」において、初めて一般公開された。3062号車は緑木車両管理事務所の鉄道の日のイベントで公開されている(3062号車画像)。
[編集] 今後の予定
大阪市交通局は2009年3月より30系の置き換え用として30000系を導入、営業運転を開始した。[32]。30系全13編成は順次置き換えられる予定である。
[編集] 脚注
- ^ 現在の御堂筋線。1969年10月16日以降この愛称が使用されるようになった。
- ^ 本来は千里ニュータウンへのアクセス機関として計画されたが、仮設線として東西線と呼ばれる万博アクセス専用路線を建設した。
- ^ 当初は新大阪〜江坂間の延長に伴う運用数増から28両の増備が必要とされた。
- ^ 2分15秒から2分へ15秒の間隔切りつめが実現した。これにより、理論上1時間あたり約3本の列車増発が可能となる。つまり、8両編成であった当時の編成であれば、ラッシュ時の1時間に各列車に対し約1両の増結を行うのに等しい効果が得られることになる。
- ^ 当初計画では在来車254両に江坂延長に伴う増備車28両を加えて282両で対処する予定であったが、収容力が大きくしかも乗降時間の短縮が期待できる18m級4扉車で全数置き換えとなった結果、運用が大幅に効率化されて当初計画の約15%にあたる42両の削減が実現した。
- ^ 7000形は本系列のスキンステンレス車と共通設計で40両製造され、8000形は本系列アルミ車と共通設計で16両が製造された。なお、7000・8000系の大阪市への売却後も当初計画通り北大阪急行電鉄籍に残存した北急2000形についても、内装などに親会社である阪急電鉄の個性が現れていたものの、本系列を基本としてアレンジする形で設計されている。
- ^ 但し骨組は普通鋼のセミステンレス車体である。
- ^ 同時期の山陽電気鉄道2000系や帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)5000系でも同じ現象が見られた。
- ^ これが当時既に東急車輌によりオールステンレス車体が実用化されていたにもかかわらず、大阪市で採用されなかった理由である。
- ^ もっともこれは50系のATC化対応改造時に採用されたレイアウトが踏襲されたものであり、また左右非対称の前面レイアウトは関西では、第二次世界大戦前に製造された参宮急行電鉄2200系電車で両運転台の電動車において便所を一方の車端部に設置したために本来車掌台が設置されている側の窓を塞いだ例が既に存在しており、言われるほど画期的なものではない。
- ^ 車庫内では4両単位で分割可能とされ、A+B編成と呼称された。
- ^ 「セパレート」などと呼ばれた。
- ^ 自動車用に開発された軽量座席詰物を使用する。
- ^ もっとも、旧座席は座り心地は悪かったものの、若者などによる足の投げ出しのような行儀の悪い着席スタイル対策には極めて有効であった(きちんと着席としないと尻や腰が痛くなる)。
- ^ 端子電圧375V時定格出力120kW
- ^ 三菱電機と大阪市交通局の共同開発によるもので、日本初採用であった。
- ^ この信号線は常時通電されており、非常時にはこれが切れることで励磁されていた電磁弁が動作し非常弁が作用する構成である。
- ^ 編成全体を1往復半することで編成分断事故時の非常ブレーキ動作に備えている。
- ^ 3ビット=8段のブレーキ指令が可能であるが、そのうち1段はブレーキシリンダ圧力が0の状態に割り当てられるため、実際にブレーキ指令に使用できるのは7段分となる。
- ^ 万博輸送中は実際に併結運転を行ったため、当時は連結幌が取り付けられており、それを取り外した後のリベットが目立った
- ^ 30系への編入時に撤去されたが、蓋状のステンレス板で塞いだだけであり、痕跡ははっきりしていた。
- ^ 残り4両(3099F)は、検修作業時の予備車となった。ちなみに3098Fは30系編入時から廃車まで、車号変更を一切しなかった。
- ^ 当時は窓を小さくすることで子供が外を見る(=窓に近づく)ことがなくなり、手の引き込みなどの事故が少なくなると考えられていた。
- ^ 中間車を含む編成も、30系の8両編成とは違う編成であった。
- ^ スキンステンレス・アルミ車で各4両ずつ。
- ^ いずれも運転台付きで3097・3597がスキンステンレス、3043・3543がアルミ製。製造は3597のみ近畿車輛でそれ以外はアルナ工機であった。
- ^ 三菱電機CU74Dおよび日立製作所RPU-6008。いずれも冷凍能力20,000kcal/h。
- ^ FS-366AおよびKH-54B(いずれも局内呼称DO-30A)をFS-366およびKH-54(同DO-30)へ交換。
- ^ スキンステンレス車はFS-066・KH-62(局内呼称EO-30)を装着。
- ^ 元3008号車。アルミ車体で製造された第1号。
- ^ 元7001号車→3094号車。7000形のトップナンバー。
- ^ 公式ホームページにおける平成20年10月21日発表の30000系車両導入記事参考
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最終更新 2009年9月15日 (火) 10:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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