大陸打通作戦

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大陸打通作戦(豫湘桂会戦)

戦争大東亜戦争日中戦争支那事変
年月日1944年(昭和19年)4月17日 - 12月10日
場所河南省京漢線沿線、洛陽湖南省長沙衡陽広西省桂林柳州
結果:日本軍の勝利、京漢鉄道・米空軍飛行場占領
交戦勢力
大日本帝国陸軍 中華民国国民革命軍
指揮官
畑俊六 衛立煌
戦力
兵力:400,000
火砲:1282
戦車:800
自動車:12,000
馬:70,000
兵力:390,000
損害
戦死者:10,000以上 遺棄死体:72,133
捕虜:40,598

大陸打通作戦(たいりくだつうさくせん)は、日中戦争支那事変)中の1944年4月17日から12月10日にかけて日本陸軍により中国大陸で行われた作戦。正式名称(日本側作戦名)は一号作戦。その結果発生した戦闘についての中国側呼称は豫湘桂会戦。前半の京漢作戦(コ号作戦)と後半の湘桂作戦(ト号作戦)に大きく分けられる。日本側の投入総兵力50万人、作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、計画通りの地域の占領に成功して日本軍が勝利したものの戦略目的は十分には実現できなかった。

目次

[編集] 背景

本作戦は服部卓四郎が企画立案し敢行したもので、次のような複数の戦略目的があった。

  • 華北と華南を結ぶ京漢鉄道を確保することで、南方資源地帯と日本本土を陸上交通路で結ぶこと。通商破壊により日本の海上交通は被害を受けつつあった。鉄道確保は、減少しつつある中国戦線の兵力の機動力を高めて、小兵力での戦線維持を実現する狙いもあった。
  • アメリカ陸空軍の長距離爆撃機B-29基地に使用されると予想される航空基地を占領し、本土空襲を予防すること。1943年11月に台湾新竹市が空襲を受けており、北九州空襲への危機感があった。
  • 蒋介石の率いる中国国民党軍の撃破とその継戦意思を破砕すること。
  • 戦況悪化の中で勝利のニュースを作り、国民の士気を維持すること[1]

当時、日本軍は太平洋方面での防衛体制構築のため、中国戦線から部隊を抽出しつつあり、支那派遣軍(司令官:畑俊六大将)は太平洋戦争開始時の兵力90万人以上から62万人へと減少していた。大陸打通作戦は1943年夏ごろから大本営で検討されていたが、このような兵力上の問題からなかなか実施決定に至っていなかった。しかし、台湾の新竹空襲など危機感の高まりから、ついに実施が決定したのである。支那派遣軍の指揮下にある25個師団と11個旅団のうち、歩兵師団17個と戦車師団1個、旅団6個が投入されることになり、太平洋戦争開始以来最大の作戦となった[2]。防諜上の観点から、参加部隊の通称号は、一部で正式なものとは異なる臨時の兵団文字符を使用した。

ただ、大陸打通作戦の実施については、なお異論もあった。第11軍参謀の間では、航空基地制圧及び中国国民党軍の経戦意思破砕という目的のためには、首都である重慶成都方面への侵攻の方が有利であるとの意見があった[3]

中国側の兵力は、1944年1月時点で全土に約300万人存在すると考えられた。

[編集] コ号作戦/京漢作戦

[編集] 序盤

まず、事前の準備として京漢鉄道の黄河鉄橋の修復が1943年末から開始され、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通した。4月14日、第12軍(司令官:内山英太郎中将)の部隊が列車で黄河の通過を開始した。内山中将の指揮下には第62師団第37師団第110師団、独立混成第7旅団の各歩兵部隊のほか、戦車第3師団と騎兵第4旅団が入った。

4月20日、日本軍は覇王城を守る中国第85軍に対して攻撃を開始した。中国軍はすぐに後退に移ったのに対して、日本軍は追撃を開始し、河南省密県での撃滅をめざした。第37師団の歩兵第225連隊により密県は攻略され、守備していた中国軍第23師団は壊滅させられた。

ついで日本第12軍は、許昌市の攻略と救援に来るであろう中国軍の包囲殲滅を狙った。日本軍の許昌進撃を知った蒋介石は、4月26日に許昌の死守を命じ、援軍を派遣させた。日本軍は第62師団を迎撃部隊として控えさせたうえ、4月30日に第37師団をもって許昌攻城戦を開始した。第37師団は城外のクリーク渡河に苦労したものの、山砲の集中と航空支援により翌日には許昌を占領してしまった。守備隊長の呂公良は戦死した。援軍としてやってきた中国側の第12軍(司令官:湯恩伯将軍)と第29軍も迎撃を受け、うち第12軍は5月7日までに壊滅した。

さらに中国軍の物資集積基地のあった盧氏県も、5月20日までに日本の第37師団歩兵第226連隊によって占領された。所在の飛行場と倉庫は日本軍の制圧下となった。湯恩伯将軍によれば、京漢作戦中で最大の打撃であったという[4]

[編集] 洛陽攻略戦

順調な作戦推移を見た日本の北支那方面軍司令部(司令官:岡村寧次大将)は、第12軍に洛陽の攻略を命じた。第12軍の内山中将は中国側の野戦部隊追撃を重視したため、5月19日に第63師団と独立歩兵第9旅団のみでの攻略を命じたが、容易には攻略できなかった。その後、戦車師団などを含む第12軍主力による攻撃に切り替えられ、5月23日~25日の戦闘で洛陽を占領した。

これをもって、前半の京漢作戦は完了した。京漢鉄道は開通し、日本軍の記録によれば中国軍の損害は遺棄死体32,390体、捕虜7,800人に及んだ。北支那方面軍司令官の岡村大将は、占領軍の規律を重視し、「焼くな、殺すな、犯すな」の三悪追放令を発した。この結果、例えば第110師団の占領地域では夜間でも女性が安心して外出可能なほど治安が向上し、終戦後の復員の際にも中国側担当者の胡宗南将軍により第110師団は優遇された[5]

[編集] ト号作戦/湘桂作戦

[編集] 第四次長沙会戦

湘桂作戦は漢口駐留の第11軍(司令官:横山勇中将)を中心に実施された。その兵力は固有の8個歩兵師団と1個旅団のほか、京漢作戦から転戦した第37師団など3個師団が加わって36万人を超えた[6]。第11軍の最初の任務は、航空基地が設置されていると見られる長沙市の占領であった。長沙は1941年にも攻略を目指しながら、2度にわたって完全占領に失敗し撤退していた。第11軍司令部としては、長沙の占領よりも中国側の野戦軍の撃滅を重視しており、都市攻略には3個師団のみをあて、主力5個師団は別に前進しての決戦を計画していた。5月27日の海軍記念日に日本軍は進撃を開始した。

対する中国側は、第9戦区軍(司令官:薛岳将軍)の29個師団を主力に、約40万人を有した。うち長沙の防衛には第4軍の3個師団を配置した。

6月16日、日本の第34師団第58師団第116師団は、長沙の攻撃に着手した。中国側の守備隊主力は郊外の丘陵に拠って応戦したが、6月18日に日本軍が水路で運びこんだ15cm榴弾砲2門が砲撃を開始すると、夜陰に紛れて撤退した。しかし、横山軍司令官は略奪などの発生を警戒して、部下将兵に長沙市街への入城は禁じた。同日夜、アメリカ軍機の激しい空襲により、長沙市街は全焼した[7]

この間、日本側の第11軍主力は中国軍主力の捕捉を試みたが、中国側は決戦を回避したために大きな成果を得なかった。

[編集] 衡陽の戦い

ついで日本軍は同じく飛行場所在地である衡陽の攻略に向かった。ここでも第11軍司令部は野戦軍の捕捉を重視し、第68師団と第116師団のみで衝陽占領を目指した。他方4個師団を中国軍との決戦兵力とし、2個師団は補給路の自動車道路構築にあてた。

6月26日から日本軍は衡陽攻撃を開始し、夜襲により速やかに飛行場の占領には成功した。しかし、衡陽城市の占領は簡単にはできなかった。中国側の第10軍(司令官:方先覚将軍)は4個師団の兵力で、養魚場やレンコン畑、丘陵などの地形を生かした防御陣地を構築していた。日本側の第一次総攻撃は7月2日までに頓挫し、第68師団司令部が迫撃砲の直撃を受けて師団長・参謀長が負傷するなどの被害を受けた。日本側は火砲・食糧・弾薬が不足しており、山砲などの到着を待って7月11日に第二次総攻撃を開始したが、これも将校の死傷が相次ぐなどして失敗に終わった。

事態を重くみた支那派遣軍総司令部は、総参謀長松井太久郎中将を現地に派遣して、第11軍に攻城戦への戦力集中を求めた。横山第11軍司令官はこの指示に従い、第58師団・第40師団第13師団(一部)と重砲部隊を衝陽に向けた。これにより日本側の砲兵は10cmカノン砲など重砲5門、野砲・山砲50門となり、開通した自動車道により弾薬も集積できた。第三次総攻撃は8月4日から開始され、激しい戦闘の末に8月8日についに中国第10軍は降伏した。中国側の援軍は、積極的な行動を行わず、衡陽には到着しなかった。40日間の戦闘で日本軍の損害は死傷19,380人に上り、これには志摩源吉少将(第68師団の歩兵第57旅団長)など390人の士官の戦死、同じく520人の負傷が含まれていた[8]

[編集] 桂林・柳州の戦い

日本軍の当初計画では、衝陽攻略後には速やかに桂林柳州へと南進する予定であった。しかし、衝陽での苦戦を見た日本の大本営は、以後の作戦の前に第11軍の再編と休養を行う方針とし、補充兵10万人を送ることにした。8月下旬には現地の統括司令部として第6方面軍(司令官:岡村寧次大将)を新設し、第11軍などを指揮下に入れて安定した作戦遂行を図った。第11軍は自動車道の開通で補給態勢がようやく整ってきていたので、大本営の方針を無視して進撃を続けたが、サイパン島が陥落し作戦目的は失われたと判断した大本営と作戦立案者服部が停止か継続かで対立、結局服部の意見が通り10月に興安県へ到達したところで発令された停止命令が解除された。 第6方面軍は11月3日の明治節を期して進撃を再開することにし、桂州と柳州を順に攻略するという計画を立てた。ところが、進撃開始後、第11軍は独断で桂州と柳州に同時侵攻し、方面軍の指導を無視して11月10日までに容易に双方を占領した[9]。日本軍は柳州付近での中国軍との決戦を想定していたが、中国側は戦闘を回避して後退していたのであった。日本軍は補給線が伸びきり自動車用の燃料が不足したために、これ以上の追撃は不可能だった。

第6方面軍の命令で第23軍第22師団南寧を再占領し[10]、12月にはフランス領インドシナに到達して、南方軍の派遣した一宮支隊と連絡に成功した。ここにおいて「大陸打通」は一応成功したことになる。その後、第23軍は翌1945年1月に、漢口と広東を結ぶ粤漢鉄道の確保も行った。 1945年3月服部が最前線部隊の連隊長に就き、中国国民党軍追撃命令を発令したが即変更し撤退命令をだした。すでにインドシナ半島も連合軍優勢となっていたためである。服部率いる日本軍は逆に中国軍の追撃と米軍の機銃掃射の中、かつて進撃してきた道を引き返した。

[編集] 航空戦

日本側は第5航空軍隷下の250機弱が中国戦線にある航空兵力であった。戦闘消耗と太平洋方面への転出で、1944年7月には150機に減少した[11]。アメリカ陸空軍を主体とする連合国側の航空兵力は逆に増加し、1944年5月には520機だったのが、7月には750機となった。日本側は新鋭四式戦闘機を装備した飛行第22戦隊を9月から1ヶ月限定で投入して、一時的に戦況を好転させたものの、全体としては連合国側が制空権を握っていた。日本軍の地上部隊は空襲を避けるために、夜間移動しなければならなかった。日本軍の補給線は激しい空襲を受けて、前線で弾薬などの不足をきたした。

[編集] 結果

日本軍は作戦目的地の占領には成功したものの、戦略的にはあまり利益を受けることができなかった。地図上では朝鮮半島釜山から、泰緬鉄道を経てビルマのラングーンまで鉄道で往復できることになったが、広大な大陸を点と線で結んだに過ぎず、京漢鉄道は中国軍のゲリラ的妨害活動を排除して運行するには長大過ぎ、まともに機能しなかった。第22師団と第37師団を主に徒歩でフランス領インドシナへ転用できた程度であった。また、B-29基地の使用阻止も、さらに内陸の老河口や成都などにも飛行場が作られたうえ、大陸打通作戦中の1944年7月にはマリアナ諸島が陥落したことで日本本土の大半がB-29の作戦圏となっていた。やむなく続けて老河口作戦を実施して飛行場を制圧したものの、マリアナ諸島が陥落している以上は、本土空襲予防という意味ではほとんど成果は無かったことになる。国民党軍の損害は軽微ではなかったものの、経戦意欲を失わせるには至らなかった。占領地が広がった華北では八路軍の攻勢に苦しめられる事となる。

他方で、バーバラ・W・タックマンの研究によると日本側の想像以上にその後の戦況に重大な影響を及ぼし、かつ日本の命運にも決定的な影響を与えたという[12]。それによると米国大統領フランクリン・ルーズベルトは開戦以来一貫して蒋介石を強く信頼し支持してきたが、本作戦により蒋介石の戦線が総崩れになったことで、その考え方を改めたという。ルーズベルトの配下のジョージ・マーシャル陸軍参謀総長やジョセフ・スティルウェル将軍が、かねてより主張してきたとおり、実は蒋介石の軍隊は軍隊の体をなしていない士気の沮喪したどうしようもない腐敗した組織であり、とても米国とともに戦う意欲もなければ能力もないことが明らかになってしまったのだという。その結果、ルーズベルト大統領は対日作戦のシナリオを、従来の中国大陸の航空基地から日本などを爆撃するというものから、太平洋の島々を逐次占領していくものに転換する。もうひとつ重要な点は、それまで蒋介石とその一派にのみそそがれ続けていたアメリカの目を、中国のもう一つの勢力、毛沢東指揮下の中国共産党軍に向けさせる効果をもったことである。堕落し、腐敗し、私利私欲を貪ることを最優先させていた蒋介石の政府と異なり、中国共産党は高いモラルと情熱をもった清潔な組織とアメリカ政府の目に映ることとなった。

[編集] 注記

  1. ^ 伊藤、299頁。
  2. ^ 伊藤294~295頁。
  3. ^ 伊藤、322~324頁。
  4. ^ 伊藤、312頁。
  5. ^ 伊藤、313~314頁。
  6. ^ 伊藤、316頁。
  7. ^ 伊藤、330頁。
  8. ^ 伊藤、340,343頁。
  9. ^ 伊藤、346頁。
  10. ^ 1939年にも一度日本軍が占領していたが、太平洋戦争開始に伴い放棄していた。
  11. ^ 伊藤、319頁。
  12. ^ バーバラ・W・タックマン 『失敗したアメリカの中国政策 ビルマ戦線のスティルウェル将軍』 朝日新聞社、1996年。

[編集] 参考文献

  • 伊藤正徳 『帝国陸軍の最後 2 <決戦編>』 角川文庫、1973年。

最終更新 2009年10月22日 (木) 16:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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