大鵬幸喜
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| 大鵬 幸喜 | |
|---|---|
大鵬幸喜像(川湯相撲記念館前)
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| 四股名 | 大鵬 幸喜 |
| 本名 | 納谷 幸喜 |
| 生年月日 | 1940年5月29日 |
| 出身 | 樺太敷香町 |
| 身長 | 187cm(現役時) |
| 体重 | 153kg(現役時) |
| 所属部屋 | 二所ノ関部屋 |
| 成績 | |
| 現在の番付 | 引退 |
| 最高位 | 第48代横綱 |
| 生涯戦歴 | 872勝182敗136休 |
| 幕内戦歴 | 746勝144敗136休(69場所) |
| 優勝 | 幕内最高優勝32回(歴代1位) 十両優勝1回 三段目優勝1回 |
| 賞 | 敢闘賞2回 技能賞1回 |
| データ | |
| 初土俵 | 昭和31年9月場所 |
| 入幕 | 昭和35年1月場所 |
| 引退 | 昭和46年5月場所 |
| 引退後 | 大鵬部屋師匠 |
| 備考 | |
| 金星1個(朝汐) | |
| 2008年6月2日現在 | |
大鵬 幸喜(たいほう こうき、本名:納谷 幸喜(なや こうき)、1940年(昭和15年)5月29日 - )は、大相撲力士。第48代横綱である。身長187cm。血液型はB型。樺太敷香郡敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉で育った。
目次 |
[編集] 人物
父親はウクライナ人のマルキャン・ボリシコ、母親は日本人の納谷キヨでハーフである。納谷は母の姓である。幸喜の名は皇紀2600年にちなんでつけられた。また、イヴァーンというウクライナ語名があったという。1960年代に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに「柏鵬(はくほう)時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録し、昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれる事もある[1]。
同じくハーフ(日本とウクライナ)である野球の太田幸司同様、大変な美男子だった。当時の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名度がわかる。大鵬本人は言葉に取り上げられること自体には好意的ではあるが、一方で「巨人と一緒にされては困る」と後に語っている[2]。理由は、自身がアンチ巨人だった事と、団体競技の野球と個人競技の相撲を一緒にしてくれるなという気持ち、何より「大鵬の相撲には型がない」などと盛んに批判された時期に「大人のファンは柏戸と大洋ホエールズ」などと評論家から返されたこともある為。引退後、「生まれ変わってもう一度相撲取りになったら、今度は柏戸さんのような相撲取りでいたい」とこぼしたこともあった。
入幕から横綱になるまでは柏戸に3勝7敗と合口が悪く、特に1961年(昭和36年)3月場所、1月場所に優勝してヨーロッパ招待旅行に行っていた柏戸に敗れた時は『こんなに稽古しても、ヨーロッパに行ってろくに稽古もしてない柏戸関に勝てないのか』と泣いて悔しがったという。
色白の美男であったためか若い頃の人気は物凄く、特に男性の相撲ファンから人気の高かった柏戸と比べて、大鵬は女性・子供からの絶大な支持を誇った。大鵬の取組の時だけは銭湯の女湯ががら空きになったという有名なエピソードがある[3]。全盛期には彼にあやかって「幸喜」と命名された男児がたくさんいた[4]。俳優・劇作家・脚本家の三谷幸喜はそのうちの一人である。
日刊スポーツの相撲担当評論家であり、本場所開催中(奇数日目)は同誌に解説「土評」を連載している(偶数日目は高砂浦五郎=元大関朝潮の「大ちゃん 大分析」)。
[編集] 来歴
[編集] 少年期から横綱昇進まで
ウクライナ系として樺太に生まれ、敗戦に伴い北海道に引き揚げることになり船で稚内に降り立つ。乗っていた船はその後小樽に向かった(納谷母子も小樽に向かう予定だったが母親が船酔いや疲労を理由に途中下船した)が、留萌沖で国籍不明の魚雷の攻撃を受け沈没した。母子家庭だったため家は貧しく、北海道に渡っても安住の地はなく、母の再婚相手が教師であった事もあり(毎年転任していた為大鵬が小学5年生のときに離婚)しばらくは各地を転々とした。納豆を売り歩きながら家計を助けた話はよく知られている。
中学卒業後はしばらく林野庁関係の仕事に就いていたが、そこでスカウトの目に留まり角界に入る事を決意。角界に入る際は母の反対にあったが、相撲部屋を見学しそこの人達の礼儀正しさを見た叔父が母を説得したという。
大鵬という彼の四股名は、翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里を飛ぶと言われる中国の伝説上の巨大な鳥に由来する。この四股名は、師匠二所ノ関が最も有望な弟子に付けるべく温存していたものであり、その点では師匠の期待以上によく育ったと言えるだろう。新十両が決まり、四股名がもらえることが決まった時には大砲と書くと思ったらしく、師匠に話すとそれは「おおづつ」と読むと言われ、横綱大砲の話をされたという[5]。
1960年(昭和35年)1月場所新入幕で初日から11連勝で12勝3敗の好成績を挙げた。幕内で初めて敗れた相手が柏戸である。翌場所は7勝に終わり唯一皆勤での負け越しとなった(それ以外は引退まで皆勤した場所はすべて2桁の勝ち星である)。11月場所で新入幕の年にも関わらず初優勝し、場所後史上最年少の20歳6ヶ月で大関へと昇進(関脇昇進の20歳3ヶ月も当時の最年少記録だった)[6]。入幕した年に大関昇進を果たした力士はその後も現れておらず(入幕から6場所での大関昇進も年6場所制後最短)、同じく入幕した年に年間最優秀力士賞獲得という、賞の発足後史上唯一の記録を立てる。
1961年7月場所で2度目の優勝、9月場所でも優勝し場所後に柏戸と共に横綱昇進(同時昇進は史上4例目)。このとき21歳3ヶ月。照國の持つ年少昇進記録を大幅に更新した(後に北の湖に破られる)。新入幕の翌年に横綱になった力士はそれまでになく、その後も出ていない。彼の三賞受賞数が少ないのは、早くに大関・横綱に昇進したためである。しかし、横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であるため、いったん体力が衰えて横綱の地位に見合った成績を出せなくなれば引退以外に道はないことを彼自身はよく認識していて、横綱昇進が決まった時にも喜びの気持ちは全くなく、むしろ引退する時のことを意識せずにはいられなかったという。
[編集] 横綱時代
横綱昇進後も2場所連続優勝。1962年(昭和37年)7月場所から1963年(昭和38年)5月場所にかけ最初の6連覇を成し遂げた。ところが、昇進している時はアイドル的に人気があったのだが、1963年前半はいわゆる「型のある相撲」を取っていた柏戸が不調で休場を繰り返しており、「型がない相撲」を取っている大鵬の一人勝ちのような状況になり観客が減少気味となり、大鵬の全盛期は大相撲の一時的な人気低迷と丁度一致してしまった。このため、この連覇直後あたりから神風正一など一部の評論家からは「大鵬の相撲には型がない」と盛んに批判されたりもした。
その柏戸が再起をかけた1963年9月場所千秋楽では柏戸に敗北。この事について、石原慎太郎に一方的に八百長疑惑をかけられた(後に石原は謝罪)。1964年(昭和39年)からは本態性高血圧に苦しみだす事になる。1965年(昭和40年)5月には、柏戸や北の富士らと共に拳銃を巡業先のアメリカ合衆国から密輸入していた事が発覚し書類送検されたが、相撲協会からの処分は譴責処分にとどまった。[7][8]この直後の1965年5月場所は絶不調で9勝6敗に終る(なお、千秋楽は休場して不戦敗だった。入幕二場所目とこの場所を除いて、入幕後皆勤して10勝に届かなかったことはない)。
それでも、1966年(昭和41年)3月場所からは再び6連覇。1967年には肘を負傷し、その分を取り戻そうと稽古で無茶をし左膝靭帯断裂で1968年(昭和43年)3月場所から3場所連続全休し、同9月場所初日に栃東に敗れた時はもう限界かとも思われたが、慎重に勝ちに行った結果、叩きを多用するなど相撲内容は冴えないが、同2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日の間に、双葉山(69連勝、最多連勝記録)には及ばなかったものの45連勝を記録(取り直し制度導入後では当時2位。後に千代の富士が抜き3位)。この記録は同場所2日目、平幕の戸田(後の羽黒岩)に敗れて途切れたが、ビデオ画像や写真では戸田の足が先に土俵を割っていた(押し出そうとして明らかに土俵の外に足を踏み出していた)ので、誤審であるとして問題となり、相撲の勝負判定にビデオ画像を参考にするきっかけとなった。
1969年9月場所初日、30回目の優勝(同年5月場所)に際して一代年寄「大鵬」が日本相撲協会より授与された。
現役晩年に至っても、北の富士と玉の海の両横綱に対しては、最後まで壁として君臨し続けた(北の富士・玉の海が横綱に昇進して以降の対戦成績は共に大鵬4勝2敗でリード)。引退2場所前の1971年(昭和46年)1月場所に玉の海を本割りと優勝決定戦の2番連続で降し32回目の優勝、同年3月場所ですら12勝と健在ぶりを示したが、翌5月場所栃富士に敗れ尻から落ちたことで引き時を感じ、5日目に当時上り坂の貴ノ花に寄り倒しで同じく尻から落ちる敗戦を喫すると引退を表明した。
大鵬の引退相撲は、1971年9月場所後の10月2日に蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて横綱最後の土俵入りが披露された。なお、玉の海はそれからわずか9日後の10月11日に急死、大鵬自身も相当なショックを受けたという。
[編集] 引退後
引退後は大鵬部屋を興し、関脇巨砲、前頭嗣子鵬らを育てた。現在は部屋を娘婿の大嶽親方(貴闘力)に譲っている。2000年(平成12年)に北の湖・千代の富士の一代年寄2横綱を率いて還暦土俵入りを披露した。
元々大鵬が入幕する前は各界の最大派閥は出羽海一門であったが、千代の山(出羽海部屋)や栃錦(春日野部屋)といった出羽海一門の横綱が引退しかつての勢いを急激に失いつつあった時期に、入れ替わるように大鵬と柏戸が横綱に昇進した都合上、現役時代は佐田の山など出羽海一門の力士から両力士は倒すべき標的にされていた。そのため出世は遅いと見られたが、ここまでの実績を残せばそれなりの扱いは受けてもよかった。ところが、1977年(昭和52年)に脳梗塞で倒れてしまい、後遺症が残ったことで理事長などの重要職に就ける見込みが無くなってしまった。
病気自体は不屈の精神でリハビリを重ねかなり回復した。かつて「巨人、大鵬~」と並び称された時代の一方の雄である長嶋茂雄が、同じ脳梗塞に倒れた時には、やはり特別な感情がわいたと語っている。
一方でそのために協会に配慮する必要がなくなったこともあってか、大相撲中継の解説者として、人気力士、看板力士であっても手厳しく切って捨てる姿勢は好角家の好評を得た。
かつては酒量は一斗に達していたという。同い年の親友でもある王貞治と若い頃に夜通し飲み明かしたこともあった。しかし飲酒量の多さが健康を害した原因と言われている。
2001年(平成13年)にサハリン州(樺太)で父マルキャン・ボリシコの生涯が明らかになり、サハリン州の日本研究家の働きかけでウクライナのハリキフ市に大鵬記念館が建設されることになっている。大鵬自身もハリキフで相撲大会を企画しており、ロシアをはさんで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びている。
2002年にはロシア連邦・北オセチア共和国出身のボラーゾフ兄弟を日本に招き、兄のソスランを露鵬幸生として自分の部屋に入門させた(弟のバトラズは白露山佑太として二十山部屋入り、後に北の湖部屋へ)。大鵬はソスランの四股名に自分の「鵬」、名前にも本名の「幸」の字を入れ、期待に応えた露鵬は大鵬の停年後の2006年3月場所で小結まで昇進して部屋頭となったが、2008年9月にドーピング検査で大麻の陽性反応が出たことを理由として弟と共に日本相撲協会を解雇された。
また慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売し、その収益を元にして、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)までは、老人ホームや養護施設にテレビを贈り、1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)までは、日本赤十字社に血液運搬車「大鵬号」を贈った。
血液運搬車の寄贈台数は、1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)までと1979年(昭和54年)から2001(平成13年)まで毎年2台ずつ、2002年(平成14年)から2009年(平成21年)まで毎年1台ずつで、2009年(平成21年)9月の70台目の贈呈を区切りにこの活動を終えた。
2005年(平成17年)に日本相撲協会を65歳の停年(定年)退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任したが、協会在籍中に理事長や執行部在任経験がなく(1期のみ審判部副部長を務めたが、脳梗塞をわずらったためにその後は退任し、地方場所部長の職が長かった)、先に停年退職していた理事長経験者の佐田の山と豊山が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われている。
朝青龍のよき相談役としても知られ、相手次第で取り口を変える、自身のような万能型の大横綱の道を歩みつつある朝青龍を厳しく、かつ温かく見守っている。また、朝青龍のサッカー問題など色々な意味で批判されがちの角界で、OBとして発言力を持つ一人でもある。ただ、露鵬の大麻問題では同じく渦中に巻き込まれた北の湖理事長と対応を協議する事態となっている。最終的に自分の後継者で娘婿でもある大嶽親方が責任を問われて相撲協会の委員から平年寄への2階級降格処分を受け、北の湖親方も理事長辞任となった。
なお、少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉の温泉街には、1984年に開館した川湯相撲記念館があり、化粧廻しや優勝トロフィーなどのゆかりの資料が展示されている他、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから現在に至るまでの歩みとを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもある。また、記念館の前には、彼の銅像も建っている。
2008年11月16日、11月場所中に開かれた相撲協会理事会で、体調不良のために2008年限りで相撲博物館館長を辞任することが承認された[9]。
2008年12月26日、日本相撲協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退いたが、「たまには国技館に足を運んで相撲をゆっくり見たい」と相撲への思いは変わらないと語った[10]。
2009年10月27日、相撲界から初となる2009年(平成21年)度文化功労者に選出された。これを受けた大鵬は記者会見で「私一人だけの力でなく、皆さんが力添えしてくれたからこそ。大きな賞を戴けて本当に有難いことです」と喜びを語った[11]。
[編集] 取り口、強さ
取り口は非常に手堅く、若い頃はもろ差しを得意にしていた。胸を合わせず、前かがみになって腰を引く「逆くの字」の体勢で相手の攻めを防ぎ、横へ回りながら自分有利の体勢に持ち込んでいき、投げで崩すか寄り切ると言うのが勝ちパターン。弱点である腰の脆さをこの体勢と身体の柔らかさと懐の深さで補っていた。その体の柔らかさは真綿やスポンジに例えられるほどのものであり、どんな当たりをも受け止め、崩れない相撲を可能にしていた。立合いもうまく、また受けて立つ強さもあり、最晩年の1971年3月場所で初挑戦の平幕大雪が一度目の仕切りで立った際は難なく捕まえ勝利している。
大兵であるにも関わらず、前捌きや回りこみが巧みで冷静・緻密な相撲を取っていた。投げ技の中では上手投げも強かったが、特に左差し手を十分に返してから放たれる掬い投げのうまさが際立っており、伝家の宝刀と称された。前傾姿勢で腰を引く構えによって、相手に廻しを取りにくくさせたが、自分も廻しが遠くなるため、掬い投げを多用したのである。1970年5月場所の千秋楽、北の富士の上手投げを掬い投げで打ち返して彼の全勝を阻止したが、北の富士は「柔らかさ負けしたよ」と嘆いた。通常、廻しを取らずに下手から投げる掬い投げは上手投げより効果が薄いとされるが、大鵬の場合、懐の深さに加えて柔軟な長身で上体の大きなひねりが可能だったことが、掬い投げを非常に有効にさせていた。突っ張りも強く、突っ張ってからの叩き込みも懐の深さゆえによく決まった。だが、左膝を痛めた1968年以後は叩き込みや肩透かしで勝つことが特に多くなって批判を浴びている。
基本的には左四つに組みとめての寄りと投げが主体のスタイルだが、押し相撲や右四つでも相撲が取れた。つまり、良く言えば究極のオールラウンダーであり、悪く言えば絶対的な型がなかったということである。この点は、右四つの完成された型を持った双葉山とは対照的であり、大鵬以前にはこういった相撲は小兵のやる事で横綱大関にはふさわしくないとみられていた。また、大鵬には反り腰がなく、上体が反ると残すことが出来なかった。そのため胸を合わせてがっぷり四つになるとなかなか勝負に出られず、立合いから上体を起されて押されると一方的に攻められることもしばしばあった。
まだ調子の出ない序盤や対戦経験の少ない平幕、そして押し相撲が相手のとき、そのような弱点を露呈させることが多く、「序盤・平幕・押し相撲」が大鵬の鬼門と言われた。その腰の弱点をカバーするため、腰を引いた前かがみの体勢を保っていたのであるが、この体勢が「へっぴり腰」と揶揄されることもあり、双葉山や貴乃花のように腰の力で相手の攻めを受け止めて寄る相撲を本格的とする立場の評論家(小坂秀二など)から、小さな相撲であると批判された。
ただし相手次第で取り口を変える柔軟性を持っていたという点では今でも非常に評価が高い。師匠である二所ノ関は「型の無いのが大鵬の型」「名人に型なし」と言って批判に反駁した。大鵬が勝ち続け、昭和の大横綱へと成長すると、「型の無い」大鵬の相撲は、状況に応じて相撲を変える「自然体」とも評価されるようになった。
その強さと出世の早さゆえか、相撲の天才と呼ばれることも多かったが、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてこれを嫌った。大鵬の素質に惚れ込んだ師匠・二所ノ関によって徹底的指導によって鍛え上げられたが、日々のノルマは四股500回鉄砲2000回、兄弟子の瀧見山による激しいぶつかり稽古と、その指導はスパルタ的なものであった。本人は、弟弟子の麒麟児(後の大関・大麒麟)のほうが天才と呼ぶにふさわしいと言っていた。
幕内最高優勝32回は2009年(平成21年)現在、最多優勝記録である。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退(1971年)までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は「一番破られにくい記録」と言われる。
[編集] 略歴
- 1956年9月場所 - 本名である納谷の四股名で初土俵、前相撲では三番出世だった。
- 1959年5月場所 - 新十両。納谷改め大鵬。
- 1960年1月場所 - 新入幕
- 1960年11月場所 - 初の幕内最高優勝
- 1961年1月場所 - 大関昇進
- 1961年11月場所 - 横綱昇進
- 1969年9月14日 - 同年5月場所で30回目の優勝を達成したことから、その功績を称え協会より一代年寄を授与される。現役中の一代年寄授与は大鵬と千代の富士(辞退)のみ。
- 1969年10月25日 - 紺綬褒章受章(以後7回飾版を追受)
- 1971年1月場所 - 32回目の優勝
- 1971年5月場所 - 現役引退、一代年寄「大鵬」を襲名
- 1972年1月 - 大鵬部屋がこの場所から独立。
- 1976年2月 - 役員改選に伴い、役員待遇に抜擢され、審判部副部長を務める。
- 1977年2月 - 脳梗塞を患う。
- 1980年2月 - 役員改選に伴い、理事に昇格し、地方場所部長(名古屋)を務める。
- 1984年 - 少年時代を過ごした北海道弟子屈町川湯温泉地区に川湯相撲記念館が開館。
- 1996年2月 - 役員改選に伴い、理事8期を務め退任する。(その後停年まで役員待遇)
- 2000年6月 - 還暦土俵入り(ただし、四股をふむことができないので立ち姿のみ)を行う。
- 2004年1月1日 - 娘婿である大嶽元関脇貴闘力が部屋を引き継ぎ、大鵬部屋の歴史に幕を閉じる。部屋の看板は縦書きの「大嶽部屋」と横書きの「大鵬道場」の2枚となる。
- 2004年11月3日 - 紫綬褒章受章
- 2005年5月28日 - 日本相撲協会を停年退職
- 2005年5月29日 - 相撲博物館第5代館長に就任
- 2008年12月26日 - 相撲博物館第5代館長を勇退。
- 2009年10月 - 文化功労者
[編集] 成績
- 通算成績:872勝182敗136休 勝率.827
- 幕内成績:746勝144敗136休 勝率.838(勝率では取り直し制度導入以降1位)
- 横綱成績:622勝103敗136休 勝率.858(同3位)
- 幕内最高優勝:32回(歴代1位)
- 全勝:8回(歴代1位タイ)
- 同点:2回
- 連勝数:45(1968年9月場所2日目~1969年3月場所初日。1926年の東西相撲合併以降、歴代3位)
- 他にも34連勝を2回、30連勝を1回記録している。
- 幕内在位:69場所
- 横綱在位:58場所(歴代3位)
- 年間最多勝:1960年(66勝24敗)、1961年(71勝19敗)、1962年(77勝13敗)、1963年(81勝9敗)、1964年(69勝11敗10休)、1967年(70勝6敗14休・柏戸と同数)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:25場所(歴代9位タイ、当時玉錦に次いで歴代2位・1960年5月場所~1964年5月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:25場所(北の湖に次ぎ歴代2位、当時歴代1位・1960年5月場所~1964年5月場所)
- 三賞:敢闘賞2回、技能賞1回
- 金星:1個(朝汐)
- 各段優勝:十両1回(1959年11月場所)、三段目1回(1958年3月場所)
[編集] 幕内での場所別成績
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1960年 (昭和35年) |
西 前頭 #13 12–3 敢 |
東 前頭 #4 7–8 |
東 前頭 #6 11–4 敢★ |
西 小結 11–4 |
西 関脇 12–3 技 |
東 関脇 13–2 |
| 1961年 (昭和36年) |
東 張出大関 10–5 |
西 張出大関 12–3 |
西 大関 11–4 |
東 大関 13–2 |
東 大関 12–3[12] |
西 横綱 13–2 |
| 1962年 (昭和37年) |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 13–2[13] |
東 横綱 11–4 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2[13] |
東 横綱 13–2 |
| 1963年 (昭和38年) |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 12–3 |
東 横綱 14–1 |
西 横綱 12–3 |
| 1964年 (昭和39年) |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 10–5 |
東 張出横綱 1–4–10[14] |
西 横綱 14–1 |
東 横綱 14–1 |
| 1965年 (昭和40年) |
東 横綱 11–4 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 9–6[15] |
西 横綱 13–2 |
東 横綱 11–4 |
東 張出横綱 13–2 |
| 1966年 (昭和41年) |
休場 | 東 張出横綱 13–2 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2[16] |
東 横綱 15–0 |
| 1967年 (昭和42年) |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 2–1–12[14] |
東 張出横綱 15–0 |
東 横綱 11–2–2[14] |
| 1968年 (昭和43年) |
東 横綱 1–3–11[14] |
休場 | 休場 | 休場 | 西 横綱 14–1 |
東 横綱 15–0 |
| 1969年 (昭和44年) |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 3–2–10[14] |
西 横綱 13–2 |
東 横綱 11–4 |
東 横綱 11–4 |
東 横綱 6–4–5[14] |
| 1970年 (昭和45年) |
休場 | 東 張出横綱 14–1 |
東 横綱 12–3 |
西 横綱 2–2–11[14] |
東 張出横綱 12–3 |
西 横綱 14–1[17] |
| 1971年 (昭和46年) |
西 横綱 14–1[17] |
西 横綱 12–3 |
西 横綱 引退 3–3–9 |
x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 |
||||||
- 幕内通算勝利・敗戦・勝率はその場所時点での数字
| 場所 | 地位 | 勝数 | 敗数 | 休場 | その他 | 幕内勝 | 幕内負 | 幕内休 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 昭和35年 1月 | 西前頭13枚目 | 12 | 3 | 0 | 新入幕、敢闘賞(初) | 12 | 3 | 0 | .800 |
| 昭和35年 3月 | 東前頭4枚目 | 7 | 8 | 0 | - | 19 | 11 | 0 | .633 |
| 昭和35年 5月 | 東前頭6枚目 | 11 | 4 | 0 | 敢闘賞(2)、金星(朝汐) | 30 | 15 | 0 | .667 |
| 昭和35年 7月 | 西小結 | 11 | 4 | 0 | - | 41 | 19 | 0 | .683 |
| 昭和35年 9月 | 西関脇 | 12 | 3 | 0 | 技能賞(初) | 53 | 22 | 0 | .707 |
| 昭和35年 11月 | 東関脇 | 13 | 2 | 0 | 優勝(初) | 66 | 24 | 0 | .733 |
| 昭和36年 1月 | 東張出大関 | 10 | 5 | 0 | - | 76 | 29 | 0 | .724 |
| 昭和36年 3月 | 西張出大関 | 12 | 3 | 0 | - | 88 | 32 | 0 | .733 |
| 昭和36年 5月 | 西大関 | 11 | 4 | 0 | - | 99 | 36 | 0 | .733 |
| 昭和36年 7月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝(2) | 112 | 38 | 0 | .747 |
| 昭和36年 9月 | 東大関 | 12 | 3 | 0 | 優勝(3) | 124 | 41 | 0 | .752 |
| 昭和36年 11月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(4) | 137 | 43 | 0 | .761 |
| 昭和37年 1月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(5) | 150 | 45 | 0 | .769 |
| 昭和37年 3月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝同点 | 163 | 47 | 0 | .776 |
| 昭和37年 5月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 174 | 51 | 0 | .773 |
| 昭和37年 7月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(6) | 188 | 52 | 0 | .783 |
| 昭和37年 9月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(7) | 201 | 54 | 0 | .788 |
| 昭和37年 11月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(8) | 214 | 56 | 0 | .793 |
| 昭和38年 1月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(9) | 228 | 57 | 0 | .800 |
| 昭和38年 3月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(10) | 242 | 58 | 0 | .807 |
| 昭和38年 5月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(11) | 257 | 58 | 0 | .816 |
| 昭和38年 7月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 269 | 61 | 0 | .815 |
| 昭和38年 9月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | - | 283 | 62 | 0 | .820 |
| 昭和38年 11月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 295 | 65 | 0 | .819 |
| 昭和39年 1月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(12) | 310 | 65 | 0 | .827 |
| 昭和39年 3月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(13) | 325 | 65 | 0 | .833 |
| 昭和39年 5月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | - | 335 | 70 | 0 | .827 |
| 昭和39年 7月 | 東張出横綱 | 1 | 4 | 10 | 途中休場 | 336 | 74 | 10 | .820 |
| 昭和39年 9月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(14) | 350 | 75 | 10 | .824 |
| 昭和39年 11月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(15) | 364 | 76 | 10 | .827 |
| 昭和40年 1月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 375 | 80 | 10 | .824 |
| 昭和40年 3月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(16) | 389 | 81 | 10 | .828 |
| 昭和40年 5月 | 東横綱 | 9 | 6 | 0 | 千秋楽不戦敗 | 398 | 87 | 10 | .821 |
| 昭和40年 7月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(17) | 411 | 89 | 10 | .822 |
| 昭和40年 9月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 422 | 93 | 10 | .819 |
| 昭和40年 11月 | 東張出横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(18) | 435 | 95 | 10 | .821 |
| 昭和41年 1月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 435 | 95 | 25 | .821 |
| 昭和41年 3月 | 東張出横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(19) | 448 | 97 | 25 | .822 |
| 昭和41年 5月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(20) | 462 | 98 | 25 | .825 |
| 昭和41年 7月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(21) | 476 | 99 | 25 | .828 |
| 昭和41年 9月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(22) | 489 | 101 | 25 | .829 |
| 昭和41年 11月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(23) | 504 | 101 | 25 | .833 |
| 昭和42年 1月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(24) | 519 | 101 | 25 | .837 |
| 昭和42年 3月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | - | 532 | 103 | 25 | .838 |
| 昭和42年 5月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(25) | 546 | 104 | 25 | .840 |
| 昭和42年 7月 | 東横綱 | 2 | 1 | 12 | 途中休場 | 548 | 105 | 37 | .839 |
| 昭和42年 9月 | 東張出横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(26) | 563 | 105 | 37 | .843 |
| 昭和42年 11月 | 東横綱 | 11 | 2 | 2 | 途中休場 | 574 | 107 | 37 | .843 |
| 昭和43年 1月 | 西横綱 | 1 | 3 | 11 | 途中休場 | 575 | 110 | 48 | .839 |
| 昭和43年 3月 | 東張出横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 575 | 110 | 63 | .839 |
| 昭和43年 5月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 575 | 110 | 78 | .839 |
| 昭和43年 7月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 575 | 110 | 93 | .839 |
| 昭和43年 9月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(27) | 589 | 111 | 93 | .841 |
| 昭和43年 11月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(28) | 604 | 111 | 93 | .845 |
| 昭和44年 1月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(29) | 619 | 111 | 93 | .848 |
| 昭和44年 3月 | 東横綱 | 3 | 2 | 10 | 45連勝達成、途中休場 | 622 | 113 | 103 | .846 |
| 昭和44年 5月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(30) | 635 | 115 | 103 | .847 |
| 昭和44年 7月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 646 | 119 | 103 | .844 |
| 昭和44年 9月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 657 | 123 | 103 | .842 |
| 昭和44年 11月 | 東横綱 | 6 | 4 | 5 | 途中休場 | 663 | 127 | 108 | .839 |
| 昭和45年 1月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 663 | 127 | 123 | .839 |
| 昭和45年 3月 | 東張出横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(31) | 677 | 128 | 123 | .841 |
| 昭和45年 5月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 689 | 131 | 123 | .840 |
| 昭和45年 7月 | 西横綱 | 2 | 2 | 11 | 途中休場 | 691 | 133 | 134 | .839 |
| 昭和45年 9月 | 東張出横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 703 | 136 | 134 | .838 |
| 昭和45年 11月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝同点 | 717 | 137 | 134 | .840 |
| 昭和46年 1月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(32) | 731 | 138 | 134 | .841 |
| 昭和46年 3月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 743 | 141 | 134 | .840 |
| 昭和46年 5月 | 西横綱 | 3 | 3 | 0 | 引退 | 746 | 144 | 134 | .838 |
| 通算 | 746 | 144 | 136 | - | |||||
[編集] 脚注
- ^ これには異論もあるが、ジャパンタイムズの記事"Whether crisis or not, sumo's show must go on"でも「恐らく現代(厳密には戦後)で最も偉大な力士」と紹介されている。
- ^ 大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書』日本経済新聞出版社、2001年
- ^ 同様のエピソードに、ラジオドラマ『君の名は』がある。
- ^ その世代の有名人の名を子供につけるという例は多い。夏の甲子園で人気を博した荒木大輔にちなんで名づけられた松坂大輔などの例がある。
- ^ のちに「おおづつ」と読ませる弟子、巨砲丈士を育てることになる。
- ^ 現在の最年少昇進記録は関脇・大関とも貴乃花が保持。
- ^ 2007年8月2日、毎日新聞東京朝刊
- ^ 情報ライブ ミヤネ屋、2008年9月10日放送
- ^ ベースボールマガジン社発行、月刊「相撲」2008年12月号71ページ閲覧
- ^ 元横綱大鵬が最後の喝 スポーツ報知 2008年12月26日付
- ^ 元横綱大鵬の納谷幸喜さん-文化功労者 時事通信 2009年10月27日閲覧
- ^ 柏戸・明武谷と優勝決定戦
- ^ い ろ 佐田の山と優勝決定戦
- ^ い ろ は に ほ へ と 途中休場
- ^ 千秋楽不戦敗・休場
- ^ 柏戸と優勝決定戦
- ^ い ろ 玉の海と優勝決定戦
[編集] 関連書籍
- 大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書』(日本経済新聞社、2001年2月) - ISBN 4-532-16377-3
- 『最強の横綱 私の履歴書 スポーツ』(日経ビジネス人文庫、2006年)で再刊。
- 大鵬『一流とは何か』(KKロングセラーズ、2008年)
- 大鵬監修『相撲道とは何か』(ロング新書・KKロングセラーズ 2007年)
[編集] 外部リンク
- 昭和35年 大鵬-栃錦戦(栃錦との対戦はこの一度限り)
- 大鵬 幸喜・生涯星取表
[編集] 関連項目
- 横綱一覧
- 大相撲優勝力士一覧
- マルキャン・ボリシコ(大鵬の父・ウクライナ人)
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最終更新 2009年11月3日 (火) 05:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【大鵬幸喜】変更履歴


