大黒屋光太夫

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白子港 - 日本・鈴鹿市(2009年3月撮影)
エカチェリーナ宮殿 - ロシア・サンクトペテルブルク(2003年8月撮影)

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日1828年5月28日))は江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。

天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島アムチトカ島に漂着。 首都ペテルブルグで皇帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国。

幕府老中松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周大槻玄沢蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与。桂川甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。

目次

[編集] 生涯

往時のアレウトの村の様子(1889年、コディアック島)。1世紀ほどずれてはいるが、光太夫の見たアムチトカ島の風景もほぼこのようなものであったろう。
光太夫はここでエカチェリーナ2世に謁見し、帰国の許しを乞うた。

天明2年(1782年)12月、光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国白子沖から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で、暴風にあい漂流する。一行は日付変更線を超えてアリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着する。光太夫らは現地人や毛皮収穫のために滞在していたロシア人と遭遇し、ロシア語を学習して彼らとともに協力してを作って天明7年(1787年)に島を脱出する。脱出後、カムチャツカオホーツクを経由して寛政元年(1789年)、イルクーツクに至る。イルクーツクに向かう途中、カムチャツカでジャン・レセップス (Barthélemy de Lesseps(フランス人探検家。スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父)に会い、レセップスが帰国後に著したレセップスの旅行日記[1] に光太夫についての記述がある。イルクーツクでは日本に興味を抱いていたキリル・ラクスマンと出会う。キリルを始めとする協力者に恵まれ、寛政3年(1791年)ロシア政府に帰国の願いを立てるためキリルに随行する形でペテルブルクに向かい、同年キリルらの尽力によりツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見して帰国を許される。日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と三人で根室へ上陸、帰国を果たしたが、小市はこの地で死亡、残る二人が江戸へ送られた。

光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。

帰国後は、11代将軍徳川家斉、老中の松平定信の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめ多くの写本がのこされた。また、桂川甫周は、光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂した。海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は蘭学発展に寄与することになった。

光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太千島列島に対し影響力を強めていくようになった。

その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川(東京都文京区)の薬草園に居宅をもらっている。ここで光太夫は新たに妻も迎えている。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ている。昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷伊勢へも一度帰国を許されていることが確認された。寛政7年(1795年)には、大槻玄沢が実施した新元会に招待されている。また、多くの人に招待されてロシアの話を語るなど、比較的自由な生活を送っており、決して軟禁されていた訳ではないようである。

[編集] 大黒屋光太夫に関わる史料

大黒屋光太夫が書いたとされる日本の地図。裏面には墨書で『天明九酋歳七月末日大日本国伊勢国白字大黒屋幸太夫』とある[2](1789年)。ロシア陸軍の医師をしていたゲオルグ・トーマス・フォン・アッシュ (de:Georg Thomas von Aschゲッティンゲン大学に送ったカードには、ドイツ語で「1793年イルクーツクで受け取る」と記してあった。ゲッティンゲン国立大学図書館 (Göttingen State and University Libraryアッシュ・コレクション(Sammlung Asch)所蔵
  • 北槎聞略 - 桂川甫周 1794年 報告用に編纂された将軍家斉への献上本 全10巻と絵図・地図
  • 北槎異聞 - 篠本久次郎 幕府正規の取調べ記録 全4巻
  • 魯西亜国漂舶聞書(おろしやこくひょうはくききがき)
  • 漂民御覧之記 - 桂川甫周 光太夫の将軍上覧の様子をまとめた
  • 我衣(わがころも) - 加藤曳尾庵が、65歳の光太夫を描いている。国立国会図書館所蔵。
  • 環海異聞 - 若宮丸漂民の聞き取りによる編纂を大槻玄沢に乞われ手伝った。その際、庄蔵と新蔵の消息、キリル・ラックスマンの死を知った。
  • 寛政五年神昌丸二漂民両目付吟味録
  • 光太夫談話
  • 一席夜話
  • 日本来航日誌 - アダム・ラックスマンの日誌。『大黒屋光太夫史料集』に日本語の全訳がある。
  • 芝蘭堂新元会図 - 市川岳山画、早稲田大学図書館・洋学文庫所蔵。芝蘭堂オランダ正月の会で、光太夫と思われる人物がキリル文字一月と筆書きしている。
  • レセップスの旅行日記 - フランスのバルデミー・レセップス(ジャン・レセップス (Barthélemy de Lesseps)がカムチャツカで光太夫と交流があり、その様子を記している。バルデミーはスエズ運河建設を指揮したフェルディナン・ド・レセップスの叔父。
  • 光大夫談筆記(こうだゆうだんぴつき) - 国学者伴信友の聞き取り記録。文政年間唯一の史料1826年。
  • 極珍書 - 磯吉の帰郷時、地元の心海寺住職実静が磯吉から聞き取りして記録したもの。

[編集] 大黒屋光太夫を描いた作品

[編集] 大黒屋光太夫記念館

記念館のエントランス。右に光太夫像が建つ。

2005年(平成17年)11月13日、光太夫の出身地である三重県鈴鹿市の生家跡近くに大黒屋光太夫記念館が開設された。設置者は鈴鹿市(文化振興部)。

光太夫の肖像や直筆の墨書、光太夫がペテルブルグで書いた手紙の複製、漂流記、ロシアから持ち帰った器物などが展示されている。また、年3回の企画展(春:帰郷文書公開、夏:光太夫の生涯、冬:光太夫のロシア文字墨書公開)や、特別展を随時行っている。

記念館の開館以前は、道を挟んで隣接する鈴鹿市立若松小学校内に「大黒屋光太夫資料室」が設けられていた[3]

[編集] 文献

[編集] 脚注

  1. ^ Journal historique du voyage de M. de Lesseps, consul de France, employé dans l'expédition de M. le comte de la Pérouse en qualité d'interprète du roi ; depuis l'instant où il a quitté les frégates Françaises au port Saint-Pierre et Saint-Paul du Kamtschatka jusqu'à son arrivée en France le 17 octobre 1788 , Paris, Impr. royale 1790 , 2 vol. Royal 1790, 2 vol. in 8. in 8. フランス語の原題 1790年英語に翻訳された。英題Travels in Kamchatka during the years 1787 and 1788 英語版を出典に使用している例が見られる
  2. ^ ゲッチンゲン大学蔵大黒屋光太夫筆日本図について 岩井憲幸 明治大学教養論集通巻269号(1994・12)pp.158
  3. ^ 大黒屋光太夫物語 - 大黒屋光太夫顕彰会・鈴鹿市観光協会・鈴鹿市 編(1992年5月再版) 巻末

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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最終更新 2009年11月20日 (金) 05:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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