天叢雲剣

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天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ、あめのむらくものつるぎ)とは、三種の神器の一つで、熱田神宮神体である。草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)・八重垣剣(やえがきのつるぎ)とも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。

目次

[編集] 神話での記述

スサノヲ命(須佐之男命)出雲国で倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)の尾から出てきた太刀で、天叢雲という名前は、ヤマタノオロチの頭上に常に雲気が掛かっていたためとしている。剣はスサノヲ命から天照大神に奉納され、天孫降臨の際にニニギ尊(瓊瓊杵尊)に手渡された。

[編集] 古代における記述

ニニギ尊が所有して以降、皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡(やたのかがみ)とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に皇女豊鍬入姫命により八咫鏡とともに皇居の外に祀るようになり、途中で垂仁天皇の皇女倭姫命に引き継がれ、あわせて約60年をかけて現在の伊勢神宮内宮に落ち着いた。(「60年」以降の部分は『倭姫命世記』に見られる記述である。詳細記事:元伊勢

その後、倭姫命から、東国の制圧(東征)へ向かう日本武尊に渡された。東征ののち、尾張国で結婚した宮簀媛の元に剣を預けたまま伊吹山の悪神を討伐しに行くが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまった。宮簀媛は剣を祀るために熱田神宮を建てた。

[編集] 剣の名前の由来

諸説あるが、実際は余り判っていない。

海部氏系図』、『先代旧事本紀』の尾張氏系図、津守氏古系図等に載る「天村雲命」との関係も推測され、また外宮祀官家の渡会氏の祖先にも「天牟羅雲命」の名が見える(『豊受大神宮禰宜補任次第』)。

[編集] 天叢雲剣

[編集] 八俣遠呂智由来説

一部の『日本書紀』にある説より。ヤマタノオロチ(八俣遠呂智)の頭上にはいつも雲がかかっていたので「天叢雲剣」と名付けられた。実際、山陰地方は曇り日が多く、出雲安来へ行った人間はよく「弁当を忘れても、傘を忘れるな。」と言われた話を、今も聞く[要出典]。安来地方の山奥、奥出雲町にある船通山(鳥髪峯)山頂には天叢雲剣出顕之地の碑があり、毎年7月28日に船通山記念碑祭・宣揚祭が開催される。神剣を気軽にヤマトタケルに預けてしまう点、神剣で草を薙ぐなどあり得るかという疑問などから、「天叢雲剣」「草薙剣」の二剣が歴史的には別の剣ではないかという議論が起こった元にもなっている[要出典]が、『古事記』などもあわせて考えると、本説がもっとも主流の説となっている。 「天叢雲剣」や「叢雲」の名は『日本書紀』において本文の注として記されるのみであり、『古事記』には一切その名は見られない。従って、この剣の本来の名は「草薙剣」であるとも考えられる[要出典]。また、「天叢雲剣」の名の由来である、「大蛇の上に雲気有り」という表現に関して『史記』や『漢書』からの引用だと考えられており、漢の高祖の持つ斬蛇剣などとの関係性が説かれることも多い。

[編集] 草薙の剣

[編集] 「草を薙いだ剣」

日本武尊が伊勢神宮でこれを拝受し、東征の途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えた。この説は広く知られている。

[編集] 「蛇の剣」

クサは臭、ナギはの意(ウナギ#名前などを参照)で、原義は「蛇の剣」であるという説。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。  高崎正秀は『神剣考』「草薙剣考」において、クサ=串=奇、で霊威ある意とし、ナギ=ナダ=蛇であるとして、この剣の名義を霊妙なる蛇の剣であると説いている。また、その名はヤマタノヲロチに生贄にされかけた奇稲田姫に通じるものであり、本来奇稲田姫はヤマタノヲロチに対する祭祀者でありながら同時に出雲を支配する女酋的存在ではなかったかとする。

[編集] 現在の所在諸説

神話上重要な剣であるため、この剣は模造、偽造、盗難、消失、水没と様々な遍歴を辿った。結果、現在の所在については諸説語られている。

[編集] 熱田神宮説

熱田神宮の奥深くに神体として安置されているという説。神話の記述の通りであればこうなる。

これに拠れば天智天皇7年(668年)に新羅・道行が熱田神宮の神剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした。しかし船が難破して失敗し、その後は宮中で保管されていた(草薙剣盗難事件も参照)。朱鳥元年(688年)6月に天武天皇が病に倒れると、これが神剣の祟りだということで熱田神宮に戻された。

江戸時代神官が神剣を盗み見たとの記録がある。それによれば長さは2尺8寸(およそ85センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。神剣を見た神官は祟りで亡くなったとの逸話も伝わっている。 昭和天皇時代の侍従長であった入江相政氏の著書によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために木曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江氏が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き、唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長山岡 鉄舟の侍従封があり、それを解いたところで明治天皇の勅封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めたという。

[編集] 壇ノ浦水没説

平家滅亡の折に、二位の尼が腰に差して入水し、そのまま上がっていないとする説。

吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの元暦2年(1185年)3月24日の条で「二位ノ尼は宝剣(天叢雲剣)を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する」とある。また戦いの後の同年4月11日の条に、戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は御座すが、宝剣(天叢雲剣)は紛失」と記されており、古くから唱えられた説のひとつである。

この時に所持していた物は宮中で元々使用されていた模造品という説がある[要出典]

[編集] 宮中安置説

宮中儀式に使われているものが本物だという説である。


[編集] その他

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • NHK編『古代史の謎に挑むI』1988 日本放送出版協会(NHK歴史への招待 第2巻)
  • 大林太良吉田敦彦[著]『剣の神・剣の英雄』1981 法政大学出版局

最終更新 2009年11月18日 (水) 03:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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