天覧試合

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天覧試合(てんらんじあい)とは、天皇が観戦している武道スポーツ試合競技のこと。天皇以外の皇族の観戦には「台覧」の語を用いる。

相撲においては神話の時代からの歴史がある。詳細は「天覧相撲」を参照のこと。

明治から昭和太平洋戦争以前については、武道の天覧試合が知られている。他の競技では、1929年(昭和4年)に、野球の早慶戦の天覧試合がおこなわれている。

太平洋戦争以後は、1947年(昭和22年)に都市対抗野球大会で、1950年(昭和25年)に早慶戦でおこなわれた。次いで1959年(昭和34年)におこなわれたプロ野球の試合が、歴史的イベントとして記憶されることとなった。また、昭和天皇が好んだことから、天覧相撲は東京場所の観戦という形で1955年(昭和30年)以降ほぼ毎年おこなわれた。

目次

[編集] 相撲

詳細は「天覧相撲」を参照

[編集] 武道

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1895年(明治28年)に京都で結成された大日本武徳会は当初試合のほとんどなかった武術剣術の撃剣や柔術の乱捕り試合を上覧にしようとして作られた団体であった。その後剣道柔道の天覧試合が行なわれ、なかでも1940年(昭和15年)6月、紀元二千六百年記念行事の天覧試合は盛大に行なわれた。この記念大会のおこなわれた柔道・剣道・弓道において、「昭和天覧試合」と言う場合、これを指すことが多い。

[編集] プロ野球

1959年(昭和34年)6月25日、後楽園球場で巨人対阪神のいわゆる「伝統の一戦」が天覧試合として催された。昭和天皇香淳皇后が後楽園球場のバックネット裏貴賓席に来場し、19時より試合が開かれた。この模様は日本テレビ(解説・南村侑広、実況・越智正典)とNHKテレビ(解説・小西得郎、実況・志村正順)にて全国生中継が行われた。

当日は、関係者は皆緊張しており、たとえば、水原円裕巨人監督も朝2度身を清め、口数も少なかったという(『巨人軍5000勝の記憶』)。

試合は巨人が藤田元司、阪神が小山正明の両エースの先発で始まった。両チームとも点の取り合いとなり、3回表・阪神が小山自らの適時打で先制点を挙げる。その後5回裏・巨人が長嶋茂雄坂崎一彦の連続本塁打で逆転すると、6回表・阪神、三宅秀史の適時打と藤本勝巳の逆転本塁打で2-4とする。

7回裏・巨人は王貞治の本塁打(王と長嶋が同じ試合で本塁打を放つことを表す「ONアベック弾」の第一号)で同点に追いつき、阪神は新人・村山実をマウンドに送る。同点のまま9回に入った時には21時を過ぎていたが、天皇・皇后が野球観戦できるのは21時15分までであったため、延長戦に突入した場合は天皇は試合結果を見届けられず、途中退席になる可能性があった。

しかし、21時12分、9回裏、先頭バッターの長嶋がレフトポールぎりぎりに入るサヨナラ本塁打[1](5-4)で接戦に終止符を打った[2]。天皇・皇后は試合結果を見届けた上で、球場を後にした。天皇の観戦は、卑しい職業野球と揶揄されたところから始まったプロ野球が日本を代表する人気プロスポーツとしての地位を得たことを示す契機といえる。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
阪神 0 0 1 0 0 3 0 0 0 4
巨人 0 0 0 0 2 0 2 0 1x 5

[審判](球) (塁)津田、国友、円城寺 (外)富沢佐藤

[編集] 天覧試合開催の経緯

2005年(平成17年)2月9日(再放送:同年2月17日深夜=18日未明)にNHK総合テレビで放映された「その時歴史が動いた」の中で天覧試合について取り上げている。同番組による経緯は以下のとおりである。

当初から巨人-阪神戦で天覧試合を開催するという決定ではなく、パシフィック・リーグでも天覧試合を開催したい意向があった。昭和天皇は水道橋方向(後楽園球場)を眺めていた時「あの灯りは何か?」と侍従に尋ねると「プロ野球のナイター試合であります」と答え、関心を示した。それを伝え聞いて、「絶好の機会にしよう」と考えた巨人軍のオーナーでもある読売新聞社社主・正力松太郎が「野球人気を高めるためには天覧試合を開催することが必要だ。それも巨人戦で」と宮内庁に交渉するように命じた。1959年1月、正力の部下と宮内庁の交渉をすると「単独の球団での要請では動けない。球界全体の総意が必要」と答える。それ以後、パ・リーグに気づかれないように交渉するも昭和天皇の公務の関係でスケジュール調整が進まなかった。

一方、パ・リーグ側も映画試写会に昭和天皇を招いた大映社長の永田雅一が、当時自らオーナーを勤めた大毎オリオンズ-西鉄ライオンズの試合を天覧試合にするように毎日新聞皇室担当記者を介して説得した。

同年6月19日、宮内庁から正式な回答があり、「6月25日午後6:45ご出門。プロ野球ご観覧のため後楽園球場にお出になられます」と、正式に同日の巨人-阪神戦を天覧試合とすることになった。永田は「神(昭和天皇)がプロ野球をご覧になるのは球界のためにも名誉になる。ごたごたを起こすわけには行かない」と語り、オリオンズの試合ではないことに異議を言わなかったという。

試合当日、パ・リーグからは試合の解説として当時の連盟会長・中澤不二雄が唯一参加した。

[編集] その他

これ以降、プロ野球公式戦では天覧試合は行われていないが、1966年(昭和41年)11月8日の日米野球、ドジャース戦にて、天覧試合が行われた。その試合でも長嶋は本塁打を放った。

なお、当時小学生だった浩宮徳仁親王(当時)は大の野球好きで知られており、1970年(昭和45年)・1971年(昭和46年)の日本シリーズ等プロ野球観戦回数も多かった。

2009年7月12日には、皇太子となった徳仁親王夫婦と子の愛子内親王が、神宮球場東京ヤクルト横浜戦を一家で観戦した。皇太子としては初めての観戦で、WBCで野球に興味を持った、愛子内親王の強い希望で実現した。皇太子一家は予定時間を超えて試合終了まで観戦。試合は1対2で横浜が勝った。

[編集] 参考文献

  『巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296

 p.32~35

[編集] 社会人野球

太平洋戦争後、日本野球界において初の「天覧試合」は、第18回都市対抗野球大会の開幕戦、大日本土木-豊岡物産戦(1947年(昭和22年)8月3日後楽園球場)であった。当時はプロ野球よりも学生野球、社会人野球の人気が高かったことから、同大会では開会式に皇族6人が列席するなど華やかな雰囲気に包まれて開会式が執り行われた。

[編集] 全米アメリカンフットボール

1975年(昭和50年)10月5日、訪米中の昭和天皇、香淳皇后がニューヨーク州シェイ・スタジアムにおいてアメリカンフットボールNFLニューヨーク・ジェッツニューイングランド・ペイトリオッツを観戦。

[編集] 競馬

詳細は「天皇賞#天覧競馬」を参照

[編集] 脚注

  1. ^ この本塁打について打たれた村山は終生ファウルだと主張し続けた。しかし、この試合で阪神のレフトを守っていた西山和良が『文句なしの豪快なホームランだった』と後に言っており、また打たれた村山はそのままベンチに戻り阪神の他の関係者からも抗議は出ていない。なお、村山は自身の1500奪三振を長嶋から奪った時、『これで天覧試合の借りは返せた。』とコメントしている。
  2. ^ 長嶋はこの試合を選手としてもっとも印象的な試合としている(日本野球25人 私のベストゲーム)。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年8月16日 (日) 12:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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