天野為之

天野為之の最新ニュースをまとめて検索!

天野 為之(あまの ためゆき、1860年1月19日安政6年12月27日) - 1938年昭和13年)3月26日)は、明治大正・昭和期の経済学者政治家教育者法学博士衆議院議員東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任した。勲三等瑞宝章受章。

目次

[編集] 年表

  • 1860年1月19日(安政6年12月27日) - 江戸唐津藩上屋敷内にて、藩医天野家長男として誕生。父松庵・母鏡。
  • 明治維新の最中唐津に帰郷。十代初めに藩校志道館(佐賀県立唐津東中学校・高等学校の前身)に学ぶ。高橋是清より英語を教授される。
  • 1873年(明治6年) - 上京・開成学校東京大学の前身)に入学。
  • 1882年(明治15年) - 2月27日に東京大学在学の有志と共に鴎渡会を結成。高田早苗・岡山兼吉・市島謙吉・山田一郎・砂川雄峻・山田喜之助がいた。同年東京大学卒業。文学士の号を得る。大隈重信小野梓らと、東京専門学校の創設に加わり、講師を務める。
  • 1886年(明治19年) - 『経済原論』を著す。
  • 1890年(明治23年) - 国会開設に合わせて故郷唐津から立候補、衆議院議員となる(第2回選挙は落選)。
  • 1895年(明治29年) - 東洋経済新報社第2代主幹に就任( - 1907年(明治40年)まで)。
  • 1898年(明治32年) - 法学博士の学位授与。
  • 1902年(明治35年) - 早稲田大学商科(商学部の前身)科長に任命。同時に早稲田実業学校校長に就任。
  • 1915年(大正4年) - 8月、早稲田大学学長となる。早稲田実業学校校長を辞職。11月に勲三等瑞宝章を受ける。
  • 1917年(大正6年)- 早稲田騒動勃発。8月、大学学長を辞任。11月に同教授も退職。
  • 1918年(大正7年)- 早稲田実業学校の校長に再任。以後大学から距離を置き、実業学校の運営に注力する。
  • 1938年(昭和13年) - 3月26日午前3時45分腸チフスにより死去。享年79歳。同月28日に早稲田実業学校の学校葬。多磨霊園に埋葬。

[編集] 早稲田大学との関係

大隈重信はじめ、同志たちと東京専門学校の創設に参画し、商科校長を経て早稲田大学学長に就任した天野であったが、高田早苗一派との間に起こった早稲田騒動の末、絶縁に近い形で大学を辞した。天野はかつて校長を務めた早稲田実業学校に再び戻り、残りの人生を同校の運営に傾けた。それに合わせて、早稲田実業も大学と別の路線を歩んでいった。

しかし1961年、大学が彼の生誕100周年を記念し、大学草創期における事跡を顕彰して講演会や展示会を行ったことが契機となり、早実と大学の上層部が接近、1963年に合意書を取り交わし、早実が「系属校」として早稲田大学の傘下に編入した。

現在、早稲田大学内では、天野は大学の基礎を築いた「早稲田の四尊」の1人に数えられており、早稲田キャンパスの新11号館501教室は、彼を記念して「天野為之記念教室」と名付けられた。

[編集] 主な著書

  • 『経済原論』(冨山房、1886年)
  • 『商政標準』(同、1886年)
  • 『万国歴史』(同、1888年)
  • 『英国憲法精理』石原健三共著(同、1889年)
  • 『日本歴史』(同、1890年)
  • 『高等経済原論』(同、1891年)
  • 『コーン財政学』(同、1902年)

など多数

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年9月16日 (水) 14:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【天野為之】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!