太宗 (宋)
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| 太宗 趙匡義 | ||
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| 北宋 | ||
| 2代皇帝 | ||
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| 王朝 | 北宋 | |
| 在位期間 | 976年 - 997年 | |
| 姓・諱 | 趙匡義 | |
| 諡号 | 至仁応道神功聖徳文武睿烈大明広孝皇帝 | |
| 廟号 | 太宗 | |
| 生年 | 939年11月20日 (天福4年10月7日) |
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| 没年 | 997年5月8日 (至道3年3月29日) |
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| 父 | 趙弘殷 | |
| 皇后 | 永熙陵 | |
| 年号 | 太平興国 : 976年 — 984年 雍熙 : 984年 — 987年 端拱 : 988年 — 989年 淳化 : 990年 — 994年 至道 : 995年 — 997年 |
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太宗(たいそう)は北宋の第2代皇帝。太祖趙匡胤の弟。諱は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからは炅(日の下に火)に改めた。
[編集] 概要
太祖が後周の将軍であった頃から常に兄に協力しつづけ、趙普らと主導した陳橋の変の際に太祖を擁立する時も、中心となって太祖の説得に当たった。
太祖が死去してから当然息子が後を継ぐところを弟の太宗が即位したことには非常に不可解な点が多く、「千載不決の議」と呼ばれ、太宗による暗殺説も消えなかった。また後に太祖の長子趙徳昭を自殺させ、太祖の次子の趙徳芳が不可解な死を遂げた後に自らの息子の趙恒を即位させたことは、正統論の厳しい宋においては常に糾弾の声が絶えなかった。
太宗は、北漢を滅ぼし中国の再統一を達成したが(979年 ちなみにもうひとつ残った呉越は、その前年に自ら国を献じている)さらに燕雲十六州の回復を狙って遼に対する遠征軍を送り大敗するなど、外征面での太宗の評価は芳しくない。
内政面では太祖の路線を踏襲し科挙による文官の大量採用を行い監察制度を整えることで、それまでの軍人政治から文治主義への転換に成功した。
997年、死去する。
[編集] 在位中の宰相
[編集] 参考文献
- 独裁君主の登場・宋の太祖と太宗(竺沙雅章著、東京:清水書院(清水新書045)、1984年) ISBN 4389440454
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最終更新 2009年11月22日 (日) 08:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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