扶余
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扶余(ふよ、プヨ、부여〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fúyú〕)は、満洲に存在した民族の一つ。夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。
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[編集] 概要
遅くともB.C. 238年 ~ 494年には満州地方に同名の国家を形成していた。その版図は、中国三国時代には、万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は挹婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)に接し、方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に及んでいたという。中国史料によれば、扶余族は、穀物には適しているが果物は余り育たない土地に定住し、勇敢だが他国への侵略はせず、歌舞飲酒を好み、慎み深く誠実であったと記録されている。種族に関しては諸説がある[1]。
前漢の時代は玄菟郡に属し、その後、三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の配下に入った。しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。ただし、北扶余は豆莫婁国と称して唐代まで続いた(穢貊の地に扶余の遺民が北上したものともいう)。『魏書』によれば、豆莫婁語はツングース系の勿吉とは異なるが、室韋、庫莫奚、契丹と同じである。
なお、沃沮(よくそ)・濊(わい)・高句麗も扶余と同族であったとされており、これらを広義の扶余族(濊族)と見なせば、扶余族は満洲のみならず朝鮮半島北西部(両江道・慈江道・江原道)にかけて広く分布していたということになる。他に百済王家も扶余系であったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余とつながりがあり、百済王の姓も扶余または余だからである。百済は26代聖王が538年に泗沘に遷都した後に国号を「南扶余」と自称していたこともある。
なお、多くの考古学者には否定的な説ではあるが[2]、騎馬民族征服王朝説によれば皇室の先祖はこの民族に由来すると言う。また言語が日本語に近かったとも言われている(高句麗語参照)。
[編集] 建国神話(東明伝説)
元来は扶余の始祖としての東明伝説があったが、後に高句麗の始祖朱蒙伝説に合わさって、高句麗の東明聖王伝説となっていったと考えられる。「東明聖王#扶余の建国伝説との比較」及び「東明聖王#建国神話」を参照のこと。
[編集] 東扶余
現在の中国吉林省延辺地域にあったと推測されている。高句麗の広開土王に討伐されたことが碑文にみえているが、詳しい歴史などは不明である。
『三国史記』高句麗本紀・東明聖王紀によれば、高句麗の始祖朱蒙(紀元前1世紀)が出る前のこととして、扶余の宰相の阿蘭弗が扶余王解夫婁(かいふろう、ヘ・ブル)に「天の神の子孫がいずれ国を作ります。東海に迦葉原(かはばる、かしょうげん)という地があり、そこは五穀が良く実ります。ここを離れ、その地に都を遷してください。」と進言し、解夫婁はその地へ遷都し、東扶余を建国したとあり、解夫婁が東方に移った後に、天帝の子を名乗る解慕漱(かいぼそう、ヘ・モス)が扶余に現れ、扶余王となった。解慕漱の死後に金蛙王が扶余王となり、金蛙王のもとで育った朱蒙が扶余から逃れて卒本扶余で高句麗を建国したとある。
[編集] 脚注
- ^ ツングース系の民族であると考えられることが多い(2008年2月24日serchina)、(鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』中公新書 )、(金達寿『朝鮮』岩波新書 )、(学習院大学教授 諏訪春雄通信)
- ^ 2002年11月18日朝日新聞
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X

