奥野誠亮

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奥野 誠亮(おくの せいすけ、1913年大正2年)7月12日 - )は、日本内務官僚政治家。「おくの せいりょう」と呼ばれることもある(有職読み)。

奈良県御所市出身。平城遷都1300年記念事業協会特別顧問、奈良大学理事。兄は元工学院大学名誉教授の奥野治雄。

目次

[編集] 経歴

[編集] 内務官僚時代

旧制畝傍中学旧制一高を経て、1938年(昭和13年)3月、東京帝国大学法学部を卒業し、同年4月に内務省に入省。第二次世界大戦中の昭和18年に鹿児島県警察部特高課長として新興俳句弾圧事件の一つであるきりしま事件で同人37人を検挙した。

鹿児島県ならではの風景を詠んだ俳句「熔岩に苔古り椿赤く咲く」の「椿赤く咲く」が共産主義に通じるものだと奥野が曲解し、検挙の口実となった。このような言いがかり弾圧を行ったにもかかわらず、戦後の混乱で公職追放は免れた。

[編集] 自治官僚時代

内務省の廃止に伴い、自治庁(後の自治省、現在の総務省)に移る。自治庁税務部長、自治庁税務局長、自治省財政局長を経て、1963年(昭和38年)7月に自治事務次官に就任し、自治官僚のトップに就任する。同10月に衆議院議員総選挙に立候補するため退官した。

自治官僚時代には道州制を唱えて、県制と道州制のそれぞれの長所と短所を指摘した。衆議院議員に転進した後にも、県の合併に関する法案を出したが、廃案となった。

[編集] 政治家時代

1963年(昭和38年)11月、第30回衆議院議員総選挙に旧奈良全県区から自由民主党公認で立候補し、当選。以後、13回連続当選。政治姿勢は鷹派であり、憲法改正靖国神社参拝などを主張して来た。さらに、従軍慰安婦問題でも「従軍慰安婦は商行為」と発言し、積極的に反対論を展開していた。

1972年(昭和47年)、第2次田中角栄内閣文部大臣として初入閣。1980年(昭和55年)、鈴木善幸内閣法務大臣に就任。1987年(昭和62年)竹下内閣では国土庁長官に任命され、土地対策にその手腕が期待された。しかしその矢先、1988年(昭和63年)5月9日に衆議院決算委員会で日中戦争について「あの当時日本に侵略の意図は無かった」と発言[1]して批判を浴び、5月13日に国土庁長官を辞任。「国庁長官」などと揶揄された。

1974年(昭和49年)5月、メキシコのブラボ・アウハ教育大臣の日本訪問において、奥野と会談した際、日本メキシコ学院の設立が提唱される。

その後も、裁判官弾劾裁判所長、衆議院倫理審査会会長、自民党憲法調査会最高顧問などを務めた。自民党税制調査会でも地方税の権威として重きをなした。

この間、1993年(平成5年)8月の特別国会召集にあたって、自民党から衆議院議長候補に推されるが、当時の細川連立与党7党が推す土井たか子に議長指名選挙で敗れた。ただし、この時は事前の票読みで土井の選出が見えており、本来の候補であった河本敏夫が引っ込められて奥野が立ったともいう。

自民党内では初当選以来、無派閥を通すが、実際は田中角栄に近く、「隠れ田中派」の一人と目されていた。それを裏付けるように、通常、無派閥議員はポストを獲得するのが困難な中で、当選4回で初入閣を果たし、通算3度の入閣を経験している。また、法務大臣時代にも「灰色高官」を擁護する発言で物議をかもした。

アジア福祉教育財団の理事長を30年以上も務め、同財団を通じてアジア諸国との友好交流を進めてきた。また、国交のない台湾との友好親善にも力を尽くし、民間団体である日華交流教育会の活動を積極的に支援した。許國雄ら台湾側の国会議員とも緊密な関係を結んでいる。

2003年(平成15年)10月、第43回衆議院議員総選挙には高齢のため出馬せず、長男の奥野信亮に地盤を譲る形で政界を引退した。

[編集] 親族

[編集] 余談

  • 奥野は若い頃から剣道で鍛えられ、年齢より矍鑠としていた。ある時、院内をスタスタと移動中、杖を突きながら歩く鯨岡兵輔を追い抜く際、「年長者を挨拶無しに追い抜くとは何事か!」と怒鳴られたことがある。しかし実際には、1915年9月15日生まれの鯨岡よりも、1913年7月12日生まれの奥野の方が年長者であった(衆議院議員当選は2人とも同じ1963年)。また、政界を引退した後にも、岩見隆夫と遭遇した際、エスカレーターに乗った岩見がふと階段のほうを見ると、奥野がスタスタと階段を下りていたという(毎日新聞「近聞遠見」より)。
  • 引退して息子信亮を後継指名した際、世襲であることと信亮も60歳と(世襲の後継者としては)高齢であったことから、森喜朗が「尊敬していた政治家だけに残念」と苦言を呈した。
  • かつて自民党総務会で、野中広務が、「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言した麻生太郎を吊るし上げたことがある。この当時はまだ奥野誠亮がいて、「野中くん、きみは若いから知らないかもしれないが、麻生君が言うことは100%正解だよ。朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。そういう訴えが多かったので、創氏改名に踏み切った。判子をついたのは内務官僚、この私なんだ」と言ったら、野中はそこで中座して出ていってしまった。横で聞いていた野呂田芳成が、「いや、奥野先生、今日はホントにいい話を聞かせていただきました」と言った[要出典]

[編集] 著書

[編集] 脚注

  1. ^ 秦郁彦によれば、奥野発言は、蘆溝橋事件劉少奇中国共産党の一団が引き起こしたとの葛西純一の証言を引用して送られてきたファックスを真に受けてのものだったが、秦がその内容は信用できない所以を説明したところ、「不覚の至りだった」と憮然とした表情を見せたという。(秦郁彦「陰謀史観のトリックを暴く」、『Will』2009年2月号、193頁)

[編集] 関連項目

先代:
稻葉修
文部大臣
第93代:1972年 - 1974年
次代:
三原朝雄
先代:
倉石忠雄
法務大臣
1980 - 1981
次代:
坂田道太
先代:
綿貫民輔
国土庁長官
1987 - 1988
次代:
内海英男

最終更新 2009年10月26日 (月) 00:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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