孝静帝

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孝静帝 元善見
東魏
初代皇帝
王朝 東魏
在位期間 534年 - 550年
姓・諱 元善見
善見
諡号 孝静皇帝
廟号
生年 524年
没年 551年
清河文宣王・元亶(嫡子)
胡妃
年号 天平 : 534年 - 537年
元象 : 538年 - 539年
興和 : 539年 - 542年
武定 : 543年 - 550年
太昌 : 532年
永興 : 532年
永熙 : 532年 - 534年

孝静帝(こうせいてい)は東魏の唯一の皇帝。北魏孝文帝の曾孫で、祖父は清河王元懌(孝文帝第4子)。

目次

[編集] 生涯

534年、通直散騎侍郎に任ぜられた。8月、驃騎大将軍・開府儀同三司となる。孝武帝が勃海王高歓の排除に失敗して関中に入り、宇文泰に保護されたため、洛陽には皇帝が不在となった。このため10月に高歓は元善見を皇帝として擁立し、天平と改元した。これが東魏の建国である。この時、孝静帝はわずか11歳で、実質的な権力は高歓が掌握した。趙郡王元諶大司馬とし、咸陽王元坦太尉とし、高盛を司徒とし、高昂司空とした。まもなくに遷都した。

547年に高歓が死去すると、その長子の高澄が亡父の職を全て引き継ぐことになった。高澄は孝静帝の動静を崔季舒を通じて逐一報告させ、「朕は狗脚の朕」と孝静帝を侮辱し、また崔季舒が孝静帝を殴打する事件が起こった。これらのことを憎んだ孝静帝は、元瑾・劉思逸・元大器・元宣洪らとひそかに共謀し、高澄を誅殺すべく企んだ。しかし計画は察知されて、孝静帝は含章堂に幽閉され、共謀者たちは市で煮殺された。

549年に高澄は部下の蘭京に殺害され、次弟の高洋(文宣帝)が蘭京を誅殺して、兄の後を嗣いだ。550年1月に高洋は斉郡王となり、2月には斉王に上った。5月、高洋は相国・総百揆となり、帝位の禅譲が行なわれ、北斉が建国された。ここに東魏は滅んだ。

孝静帝は北斉の中山王に封ぜられ、一万戸を与えられた。しかし、551年12月[1]に毒酒で殺された。享年28。3人の子もまた殺された。鄴の西の漳北に葬られたが、後にあばかれて陵墓は崩壊した。

[編集] 宗室

[編集]

  1. 元長仁(皇太子)

ほかふたりの子がいたが、不詳。

[編集] 年号

  1. 天平534年-537年
  2. 元象538年-539年
  3. 興和539年-542年
  4. 武定543年-550年

[編集] 脚注

  1. ^ 西洋のユリウス暦では、552年のこととなり、英語版などではこちらを採用している。
先代:
東魏皇帝
534年 - 550年
次代:

最終更新 2009年2月28日 (土) 03:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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