孫亮
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| 廃帝 孫亮 | ||
|---|---|---|
| 呉 | ||
| 2代皇帝 | ||
| 王朝 | 呉 | |
| 在位期間 | 252年 - 258年 | |
| 姓・諱 | 孫亮 | |
| 字 | 子明 | |
| 生年 | 243年 | |
| 没年 | 260年 | |
| 父 | 大帝(第7子) | |
| 陵墓 | 定陵 | |
| 年号 | 建興(252年 - 253年) 五鳳(254年 - 256年) 太平(256年 - 258年) |
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孫亮(そんりょう)は三国時代の呉の第2代皇帝。のち会稽王・候官侯。
[編集] 略歴
皇太子であった長兄・孫登が没し、次いで皇太子になっていた孫和が二宮事件の混乱の責任を取る形で廃されたため、孫権により皇太子とされ、父の死後に即位する。ただし、幼帝のために執政は太傅の諸葛恪に握られた。
即位後まもなく魏軍が南下を開始したが、諸葛恪・丁奉・留賛・呂拠らが撃退した。
253年、諸葛恪が魏を攻めたが、失敗し、疫病で多くの兵が死去した。同253年、一族の孫峻によるクーデターが起こり、専横を極めていた諸葛恪一派は一掃されたが、それは専制政治を正すものではなく、新たに孫峻が丞相となって専横を極めただけであった。そのため、254年に孫登の遺児・孫英によって、孫峻暗殺計画が建てられたが、この事件は未然に発覚し、孫英は殺された。
255年、孫峻は魏の毋丘倹・文欽らのクーデターに呼応して北上すると、司馬師に敗北した文欽が数万の兵とともに降伏してきた。翌年も魏討伐を行おうとしたが、実行する前に孫峻は病死した。
その後は従兄弟の孫綝が後を継ぎ、政敵に当たる滕胤と呂拠を殺害して大将軍となり、専横の極みを尽くした。257年には諸葛誕の挙兵に乗じて再び魏に攻め入るが大敗に終わる。
257年、孫亮は自ら政治を行い始め、孫綝に反対・反論することが多くなった。また、15歳以上18歳以下の兵士の子弟を選抜し、近衛軍を作り、日々演習を行った。
258年、孫亮は全尚・劉承・孫魯班らと謀り、孫綝を除こうと計画した。しかしこの計画は、孫亮側の動きを事前に察知した孫綝が先手を打ってクーデターを起こしたことで失敗に終わる。全尚・劉承は殺され、孫魯班は流罪、孫亮自身は廃位され、会稽王に格下げとなった。新たな皇帝には孫綝によって孫休が擁立された。
孫休の弟の先帝であり会稽王である孫亮が再び皇帝になるだろうという流言があった。また、孫亮が巫女に祈祷を行わせ、呪いの言葉を発しているという告発があった。260年、孫休は孫亮を侯官侯に位を降格させ、任地に向かわせたが、孫亮は任地に赴く途中で自殺した。『三国志』呉書孫休伝注引『呉録』は、孫亮の夭折に関し孫休による毒殺とする説があることを述べている。
[編集] 評価
『三国志』の著者の陳寿は、「孫亮は幼少であったのに、良い補佐役を得ることが出来なかった。彼が退位させられたのは当然の成り行きである。」と評している。
孫亮の治世6年間は、先帝である孫権の負の遺産が全て吐き出された年間といってよい。諸葛恪・孫峻そして孫綝らに政治の実権を奪われ、反乱やクーデターが何度も起き、内政においても255年に旱魃が起こったにも関わらず、ほとんど対処しなかったなど、国内は乱れに乱れ始めた。
孫亮自身は父に愛され聡明だったようであるが、幼帝だったのが災いしたとしかいえない。彼の治世の間に、呉は大きく衰え、滅亡の因を作ってしまったのである。
[編集] 関連項目
- 他の廃帝
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