孫夫人
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孫 夫人(そん ふじん、生没年不詳)は、三国時代の呉の公主。諱は不詳。孫堅の娘で孫策・孫権の異母妹。 日本に於いては孫尚香の名で広く知られているが、これは京劇で使われる名前であり、小説『三国志演義』では孫仁(実際は彼女の同母兄とされる孫朗の別称)とされている。『三国志』では孫夫人と記されている。
[編集] 生涯
実在の人物ではあるが「正史」『三国志』において彼女に関する記述は非常に少ない。『三国志』蜀書法正伝には「北に曹操、南に孫権、更に内にあっては孫夫人の脅威があり、その中で我が君が志を遂げたのは、ひとえに法孝直の功績である」との諸葛亮の弁明が記されている。孫夫人の侍女百名ほどは、みな武装して侍立しており、劉備は奥に入るとき常にびくびくしていたと記載されている(新婚初夜の日、武装した侍女達を見た劉備は仰天して寝所から逃げ出したという説もある)。
『三国志』蜀書穆皇后伝によると、劉備が益州を平定した後に、孫夫人は呉に帰国した。『三国志』蜀書穆皇后伝の注に引く『漢晋春秋』によれば、孫夫人は劉禅をつれて呉に帰ろうとしたが、諸葛亮は趙雲に命じて長江を封鎖し、劉禅を奪還した。このため、劉備と孫夫人の仲は以前にも増して険悪になり、孫夫人は公安に新たな居城を築かせて住まいし、別居状態になったという。
呉へ帰国後の孫夫人の動向は、不明である。
[編集] 演義における孫夫人
『三国志演義』『漢晋春秋』などに基づいた記述は以下のとおり。
気が強く、身の回りには常に武装した侍女達が付き、自身も薙刀を操り常に腰に弓を装備していたことから「弓腰姫」と呼ばれている。
209年に劉備との政略結婚の話の時に初めて孫夫人の名前が出てくる。周瑜の発案で婚姻政策により劉備を呼び寄せ、国内に事実上拘留して骨抜きにさせるという計略であったが、劉備配下の趙雲が諸葛亮より授かった策を用いる事で、劉備は孫夫人と共に荊州へ脱出する事に成功する。夫となる劉備とは年が30歳近くも違っていたが、両人の仲は良好なものであったとなっている。
その後、212年頃に劉備と兄・孫権との関係が悪化する。そこで、張昭と魯粛の策で彼女の旧臣である周善という者を派遣させ、孫夫人の母が危篤との偽報を聞かせ、阿斗(後の劉禅)を引き連れて帰国させようとする。しかし、それを発見した趙雲と張飛によって周善は斬られ、阿斗を奪い返したので、彼女はそのまま、母国に帰国することになる。帰国した孫夫人はその後再婚せず、222年に夷陵の戦いで劉備が戦死したという誤報を聞き、絶望して長江へ身を投げたという設定になっている。


