安保闘争
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安保闘争(あんぽとうそう)とは、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり、日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)に反対する労働者・学生・市民が参加した日本史上で空前の規模の反戦・平和運動であると同時に、火炎瓶や鉄パイプで暴力を振るう暴動・紛争という側面も持っていた。
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[編集] 安保条約
1951年(昭和26年)9月8日、米国サンフランシスコにおいて、米国をはじめとする第二次世界大戦の連合国49ヶ国と日本の間で、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されたが、主席全権委員であった吉田茂は、同時に「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に署名した。この条約によって日本を占領していたアメリカ軍は、在日米軍となり、継続して日本に駐留する事が可能となった。
[編集] 60年安保
[編集] 事件推移
1951年(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和33年)頃から自由民主党の岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月に岸以下全権団が訪米、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。6月19日に新条約が調印された。
新安保条約は、(1)内乱に関する条項の削除、(2)日米共同防衛の明文化(日本を米軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)、(3)在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供するための条約から、日米共同防衛を義務づけたより平等な条約に改正するものであった。
岸が帰国し、新条約の承認をめぐる国会審議が行われると、安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により紛糾する。また締結前から、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すなどの懸念により、反対運動が高まっていた。スターリン批判を受けて共産党を脱党した急進派学生が結成した共産主義者同盟(ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げて、総力を挙げて、反安保闘争に取り組んだ。
まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや、東條内閣の閣僚であった岸本人への反感があったことも影響し、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの」として、多くの市民が反対した。既成革新勢力である社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり貫徹したが、全学連の国会突入戦術には皮相的な立場をとり続けた。とりわけ共産党は「全学連=極左冒険主義のトロツキスト集団」のレッテルを貼り、激しく攻撃した。
5月20日に衆議院で新条約案が強行採決されると、「民主主義の破壊である」として一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化の一途をたどる。反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸信介は警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆の会合に派遣。松葉会会長・藤田卯一郎、錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダー尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。
さらに、3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請した。1つは岸自身が1958年に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼とヤクザで構成された全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」によると「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。岸は創価学会にも協力を依頼したが、これは断られたという[1]。
彼らは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた。」と書かれている。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”(サイレント・マジョリティの意)が聞こえる」と語った。しかし、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が退陣勧告をするに及び、事態は更に深刻化する。
6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、米国大統領アイゼンハワー訪日の日程を協議するため来日した大統領報道官(当時は新聞係秘書と報じられた)ジェームズ・ハガティ(報道は「ハガチー」表記)が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生(ハガチー事件)、6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、警官隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという事件が発生する。
このように激しい抗議運動が続く中、岸首相は15日と18日に、防衛庁長官赤城宗徳に対して陸上自衛隊の治安出動を要請した。東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたが、国家公安委員長石原幹市郎が反対し、赤城長官が出動要請を拒否した為、「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。追い詰められた岸は、実弟佐藤栄作と共に自決を覚悟したが、15日の惨事に民主主義崩壊の危機感を抱いた在京新聞社7社[2]は、6月17日に共通で「議会政治を守れ」としたスローガンを掲げた社告を掲載。国会デモ隊の暴力、社会党の国会ボイコット、民社党との過度の対立を批判した(七社共同宣言)。この七社共同宣言は、安保闘争に冷や水を浴びせ、政府にとって有利な内容であった。そのため、警察側の暴力を不問にした、議論の本質を「暴力反対」にすり替えた、といった批判が当時なされ、「新聞が死んだ日」とも評された[3]。
条約は参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職したが、岸首相自身も辞任直前に暴漢に襲撃され重傷を負った。
60年安保闘争は空前の盛り上がりを見せたが、戦前の東條内閣の閣僚でありA級戦犯容疑者にもなった岸とその政治手法に対する反感により支えられた倒閣運動という性格が強くなり、安保改定そのものへの反対運動という性格は薄くなっていたため、岸内閣が退陣し池田内閣が成立(7月19日)すると、運動は急激に退潮した。
その後、岸内閣の後を受けて成立した池田勇人内閣が1960年10月の総選挙に勝利したことにより、安保条約の改定が国民の承認を得た形になり、現在(2009年)まで約半世紀にわたり、安保条約の再改定や破棄が現実の政治日程に上ることはなくなっている。
[編集] 余波
デモ隊側から見れば、安保阻止は実現できなかったものの、自らの運動によって内閣を退陣させることに成功した意義は非常に大きく、活動の主体となった大学生による反体制運動は、続くベトナム戦争反戦運動により拍車がかかり、1968年(昭和43年)に起こる一連の大学紛争へ至る。一方では、安保闘争を「敗北」と総括した共産主義者同盟(ブント)をはじめ、急進派学生には、強い挫折感が残ることになった。全学連指導者の一人だった唐牛健太郎は、安保闘争の終結直後に運動から身を引き、香山健一、森田実などは、「体制側」(保守側)に身を転じていく。新左翼党派は、ブントが四分五裂の分裂を開始し、北小路敏ら全学連指導部の一部は、ブントから革命的共産主義者同盟全国委員会に移行するなど、再編成の季節を迎えることになる。
1963年(昭和38年)2月26日、東京放送(TBSラジオ)が実録インタビューで構成した番組『歪んだ青春-全学連闘士のその後』を放送する。この番組は60年安保闘争時の全学連が、戦前の日本共産党の指導者で60年当時は土建会社を経営しながら「反共右翼」としての活動を行っていた田中清玄から資金援助を受けていたことを暴露する。日本共産党は「ブント全学連の挑発者としての正体が露呈した」とキャンペーンを行い、現在でも共産党の主張する「新左翼=ニセ「左翼」暴力集団」論の実例として引き合いに出される。田中清玄自身は、「アジア主義右翼としての『反岸』と『反共産党』という立場から全学連に共感を持った」と語っている。
ソビエト連邦は安保改定を自国への挑戦と受け止め、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で確約された「平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を返還する」約束を撤回し、米軍が駐留可能となる地域が増えることは好ましくないとして、日本政府に対して一方的に不返還を通告した。日本政府は、共同宣言発効の際には既に安保条約が存在しており、双方は矛盾しないとして抗議、結局ソ連が不返還通告を撤回することで収束した。
[編集] 評価
新安保条約や60年安保闘争への評価は政治的な立場により異なるが、新安保条約は現在(2009年)まで約半世紀にわたり存続しており、日本の政治体制・軍事体制の基礎として完全に定着しており、新安保条約により日本が戦争に巻き込まれる危険が増したなどの主張は現在では余り聞かれない。1994年7月成立の村山内閣で、日本社会党委員長である村山富市首相が国会の所信表明演説において「日米安保堅持」と発言するなど、左翼陣営の中でも安保条約への反発は少なくなっている(もっとも当時の村山は自社さ連立政権に担がれた“雇われ総理”であり、その実態は自民党政権であった)。
保守系の評論家の中には「安保反対と言って騒いでいた中に安保条約の中身を読んで反対していた人間はろくにいなかった」と公言している者もいる。(小室直樹、西部邁(当時の全学連中央執行委員)など)
60年安保闘争の経緯を知る世代がもはや60代以上になった今、日米安保体制について問題意識を持つこと自体が難しくなったこともあり、日米が新安保条約において主たる仮想敵国とみなしたソ連が80年代末から90年代初頭にかけて崩壊し、東西冷戦構造が崩れたのにもかかわらず、安保体制は対中軍事同盟・トルコ以東地域への軍事的存在感維持などの新たな意義づけのもとに維持されている。
[編集] 60年安保闘争の経緯
- 1959年(昭和34年)
- 3月 - 日本社会党、日本労働組合総評議会(総評)、原水爆禁止国民会議(原水禁)などが安保条約改定阻止国民会議を結成。
- 10月 - 社会党の西尾末広が改定阻止国民会議に反対を表明し離党。
- 11月 - デモ隊が国会構内に乱入。
- 1960年(昭和35年)
- 1月19日 - 日米政府間で条約調印。
- 1月24日 - 西尾末広らが民主社会党結成。
- 4月 - 全学連が警官隊と衝突。
- 5月20日 - 衆議院で強行採決。以降、連日デモ隊が国会を囲む。
- 6月11日 - ハガチー事件(大統領秘書が来日するが、羽田でデモ隊に包囲されヘリコプターで脱出)。
- 6月15日 - 全学連と警察隊の衝突で、大学生樺美智子死亡。
- 6月17日 - 在京新聞7社が共同でデモ隊の暴力を批判、社会党の国会復帰を呼びかける。
- 6月19日 - 条約が自然成立(23日に発効)。
- 6月23日 - 新安保条約の批准書の交換、全手続きを終了。岸内閣総辞職を表明。
- 7月14日 - 自由民主党総裁選挙 。池田勇人を自民党第4代総裁に選出。総理大臣岸信介が暴漢に襲われ重傷を負う。
- 7月15日 - 岸信介内閣が総辞職。
- 7月19日 - 池田勇人、内閣総理大臣に就任。第1次池田内閣が発足。
- 10月12日 - 日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、山口二矢(当時17歳)に暗殺される。
- 11月20日 - 11月20日第29回衆議院議員総選挙。自民党が議席を増やす。
[編集] 70年安保
10年間の期限を迎えた日米安保条約が自動延長するに当たり、これを阻止して条約破棄を通告させようとする運動。学生の間では1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて全共闘や新左翼諸派の学生運動が全国的に盛んになっており、東大闘争、日大闘争を始め、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。街頭闘争も盛んに行われ、新左翼の各派は、1967年(昭和42年)10月、11月の羽田闘争、1968年(昭和43年)1月の佐世保エンタープライズ帰港阻止闘争、4月の沖縄デー闘争、10月の新宿騒乱事件(騒乱罪適用)、1969年(昭和44年)4月の沖縄デー闘争、10月の佐藤首相訪米阻止闘争などの一連の闘争を「70年安保闘争の前哨戦」と位置づけて取り組み、「ヘルメットとゲバ棒」スタイルで武装し、投石や火炎瓶を使用して機動隊と戦った。
国会前へのデモンストレーションは1970年(昭和45年)6月14日に行われたが、新左翼の各組織はその2年前からの街頭実力闘争ですでに疲弊しており、当日のデモンストレーションを「威力闘争」あるいは「政治戦」と位置づけて、大勢として実力闘争よりも大衆動員に力を入れた。
条約は自動継続となった事もあり、個別の安保条約そのものに対する一般的な運動としてはあまり盛り上がらず、少数の新左翼各派の運動として終始した。社会党や共産党などの既成左翼勢力は、「70年安保闘争」を沖縄返還運動とセットの「国民運動」として位置づけ、70年の「自動延長」そのものには60年安保闘争ほどの力量を割かなかった。
「安保延長反対」の世論と運動への国民の支持も少なく、幅広い市民の参加も見られなかった。70年安保期の1969年(昭和44年)12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣を支える自民党は国会での議席を増やす一方、「安保延長」に反対した社会党は約50議席を減らして大敗し、佐藤長期政権は1972年(昭和47年)まで継続した。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 西部邁(2007年)『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』洋泉社MC新書、ISBN 9784862481498
[編集] 関連項目
最終更新 2009年11月21日 (土) 09:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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