安土城
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安土城 (滋賀県) |
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安土城大手道
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| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | 望楼型地上6階地下1階(1579年・非現存) |
| 築城主 | 織田信長 |
| 築城年 | 1576年(天正4年) |
| 主な改修者 | 羽柴秀吉 |
| 主な城主 | 織田氏、明智氏 |
| 廃城年 | 1585年(天正13年) |
| 遺構 | 天守台、曲輪、石垣、堀 |
| 指定文化財 | 国特別史跡 |
| 再建造物 | 一部の石垣・大手道石段・門跡 |
| 位置 | 北緯35度9分21.29秒 東経136度8分21.87秒 |
安土城(あづちじょう)は、滋賀県蒲生郡安土町下豊浦にあった日本の城(山城)である。城址は国指定特別史跡。
目次 |
[編集] 概要
安土城は、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇ったが、1582年(天正10年)の家臣明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺の変後まもなくして何らかの原因によって焼失、その後廃城となった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧している宣教師ルイス・フロイスなどの記録によってその様子をうかがい知ることができる。
安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団、いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。ただし、安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、特定の「穴太積み」なる技法の存在を想定するのは難しい。
建造当時は郭が琵琶湖に接していたが、昭和に入って干拓が行われたため、現在は湖岸からやや離れている。安土山の全体に城郭遺構が分布しており、当時の建築としては城山の中腹に所在する摠見寺の境内に仁王門と三重塔が残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。滋賀県は1989年(平成元年)から20年計画で安土城の発掘調査を行っており、南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模った本丸御殿などの当時の状況が明らかとなりつつあり、併せて石段・石垣が修復工事されている。
築城の目的は岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、越前・加賀の一向一揆に備えるため[要出典]、上杉謙信への警戒のためでもあった。その規模、容姿は太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
[編集] 歴史・沿革
[編集] 安土桃山時代
- 1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。
- 1579年(天正7年)5月、完成した天守に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。
- 1582年(天正10年) 本能寺の変の時は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、本能寺の変による信長の横死後、蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。山崎の戦いの後、明智秀満率いる明智軍の退却後、天主とその周辺建物(主に本丸)を焼失した。
本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっている。
[編集] 近代
- 1918年(大正7年) 安土城保存を目指して「安土保勝会」が設立される。
- 1926年(昭和元年) 1919年(大正8年)に施行された史蹟名勝天然紀念物保存法により、安土城址が史蹟に指定される。
- 1927年(昭和2年) 内務省(現・総務省)が城跡に「安土城址」の石碑を建てる。
- 1928年(昭和3年) 滋賀県が史蹟安土城址の管理団体に指定される。その後、大手門跡などに標石を建てたり、二の丸跡の復旧、城内石段の改修や天主・本丸跡の発掘調査を行う。
[編集] 現代
- 1950年(昭和25年) 文化財保護法施行に伴い史跡安土城跡となる。その後、特別史跡に指定される。
- 1960年(昭和35年) 城跡修理に着手、1975年(昭和50年)まで継続。それを基に1978年(昭和53年)、安土城跡実測図(縮尺千分の一)を作成する。
- 1988年(昭和63年) 「第1回特別史跡安土城跡調査整備委員会」が開催されるに到る。
- 1989年(平成元年)から2009年(平成21年)までの「調査整備20年計画」を開始する。
- 1992年(平成4年) セビリア万国博覧会に、「天主指図」を基に復元された安土城天主の一部(5・6階部分)が出展された。現在、復元天主は安土城天主信長の館に保管、展示されている。
- 1999年(平成11年) 本丸跡から内裏の清涼殿と同じ平面を持つ建物が発見された。これは、当時の信長の思想を推定する上で重要な発見である。
- 2005年(平成17年) 安土町のプロジェクトチームがイタリアのローマに渡り、「安土城之図」と伝わる屏風絵を探したが発見には至らなかった。しかしローマ教皇に大野俊明氏が模写したミニ屏風絵を寄贈し、屏風絵の捜索を依頼した。
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(51番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
[編集] 天主・本丸の焼失
前述したように、安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物は、山崎の戦いの後まもなくして焼失している。あくまで焼失したのは、天主、本丸などであり後に織田秀信が二の丸に入城したように、二ノ丸をもって十分に機能していた。
焼失の原因についてはいくつかの説がある。
- 織田信雄軍が明智の残党を炙り出すために城下に放火したのが天主に延焼したという説。これは当時の宣教師の記述(日本耶蘇会年報)によるもので、その記述には「織田信雄が暗愚だったので放火した」とある。
- 明智秀満軍が敗走の際に放火したとの説(太閤記)。しかし秀満は坂本城での自刃の際、多くの文化財を明け渡してから放火している事や、出火したとされるのは6月15日(兼見卿記)で、山崎の戦い(6月13日)のために出陣し、敗退して坂本城に入った秀満が火を放つのは難しいと思われる。
- 略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説。
- 落雷によって焼失したとする説。
現在の研究[1]では略奪目的の土民が放火したとされている。資料によっては城下町にも放火したとの記述が見られるが、これは誤りである。
なお、加越能文庫の「松雲公採集遺編類纂」中の文書に、天正6年5月に一度天主が倒壊したとの記述があるが、他の資料にはその記録がなく、真偽は不明である。
[編集] 復元
[編集] 発掘調査・整備
調査整備20年計画が1989年から2009年まで行われる予定である。
- 1989年(平成元年) 伝羽柴秀吉邸跡で五棟の建物跡を検出する。
- 1990年(平成2年) 環境整備の基本構想を策定する。伝羽柴邸跡で櫓門跡を検出する。136メートルにわたり大手道の当初ルートを確認する。
- 1991年(平成3年) 伝前田利家邸跡で建物四棟と木樋暗渠を検出する。黒金門に至る大手道の全ルートを解明する。
- 1992年(平成4年) 環境整備工事に着手する。
- 1993年(平成5年) 大手門とその東西に続く石塁跡を発見する。東家文書を調査し旧安土城下の絵図を多数発見する。
- 1994年(平成6年) 旧摠見寺境内地を調査し当初の伽羅配置を明らかにする。摠見寺の高石垣を解体し当初の大手道を検出する。
- 1995年(平成7年) 百々橋口道及び主郭部周辺をめぐる周回路を調査する。
- 1996年(平成8年) 搦手道の調査に着手する。米蔵付近より金箔貼りの鯱瓦を発見する。
- 1997年(平成9年) 搦手道の全ルートを解明する。台所跡から流し・釜戸ともに飾り金具を発見する。
- 1998年(平成10年) 天主台下から焼失建物とともに多数の遺物を発見する。一建築金物、十能・鍬、花器、金箔瓦、壁土等や搦手口の湖辺で木簡、完形に近い金箔瓦等を発見する。大手道の整備工事が完成する。
- 1999年(平成11年) 本丸跡から清涼殿と同じ平面を持つ建物を発見する。
これらの事業により、仏教に関連するものが多く発掘されたことから、これまで仏教に対して厳しい姿勢を取っていたと思われていた信長が実はかなり寛容であり、単に宗教と軍事とを分離しようとしていただけという説も出始めている。
[編集] 天主
天主のその具体的な姿については長年研究が続けられており、多数の研究者から復元案の発表が相次いでいる。基本的には同時代人の記述にかかる「信長公記」や「安土日記」に基づき、イエズス会宣教師の記述を加味するところまでは一致しているが、解釈をめぐっては意見が分かれており未だ決着を見ない。その姿は5重6階地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角形をしており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされる[2]。
信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風がアレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈られ、彼の離日に同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られて教皇庁に保管されているとの記録がある。それは安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていない。
[編集] 天主復元のために参考にされる史料
[編集] ルイス・フロイス『日本史』
ポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・フロイスは著書『日本史』に、天主に関して次のように記している。
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[編集] 太田牛一『安土日記』
信長の家臣であった太田牛一は、天正7年1月『安土日記』に村井貞勝による天主に関しての記述を次のように引用して記している。
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ほかに、バチカンへ送られた屏風に描かれたとする安土城天主の一部と見られている建物をフィリップス・バン・ウインゲがスケッチしたものが残っている[3]。また、加賀藩大工に伝わる「天守指図」等があり、それを安土城天主の平面設計図であるとし、内部には階層を貫く吹き抜けが造られ、地階に仏塔があったなどとする復元案(内藤昌案など)もある。
[編集] 天主復元案
以下は、様々な証拠や証言、文書の記述などを参考に各学者・研究者などより出されている復元案の一部または想像図の概要である。
- 奥村徳義案-1858年(安政5年)
- 層塔式7重8階又は7階で初重平面は長方形である。壁は真壁で色彩は分からないが破風も千鳥破風と唐破風のみというシンプルな外観である。6・7重は八角堂に四方の望楼という姿である。
- 土屋純一案-1930年(昭和5年)
- 望楼式6重7階で初重平面は長方形である。壁は下見板張りで、3重目に吹き降ろした屋根に付属するように小柄の入母屋が付く。破風の位置は名古屋城天守や福山城天守に類似する。5・6重は八角堂に熊本城天守のような内高欄廻縁の四方の望楼が乗るような姿である。
- 桜井成広案-1959年(昭和34年)
- 望楼式6重7階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで、3重に向唐破風の出窓4重目に大入母屋がある。5・6重は八角堂に宝形屋根の四方の望楼が乗った姿である。
- 西ヶ谷恭弘案-1993年(平成5年)
- 望楼式6重7階地下1階で、初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪が形成されている。外観は下見板張り、大入母屋を交互に重ねた形。5・6重は夢殿を模した八角堂に金閣を模した杮葺の切妻を載せたような入母屋屋根(しころ屋根)で全面金箔貼の四方平面の望楼が乗る姿である。
- 内藤昌案-1994年(平成6年)
- 望楼式5重7階地下1階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで、複雑に入り組んだ屋根が特徴的。4・5重は赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。内部を「天守指図」に習って、吹き抜けにしている。
- 宮上茂隆案-1994年(平成6年)
- 望楼式5重6階地下1階で、初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪が形成されている。外観は下見板張り、3重目に大入母屋がある。4・5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。
- 佐藤大規案-2005年(平成17年)
- 望楼式5重6階地下一階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで2重目・3重目を交互に大入母屋が乗る。4・5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。
[編集] 作品
[編集] 現地情報
- 交通アクセス
- 利用情報
- 入山料(2006年(平成18年)9月1日より摠見寺が徴収)
- 大人500円
- 小人100円
- 摠見寺本堂特別拝観1000円(2009年(平成21年)4月より日曜祝日のみ開堂:雨天時閉堂)
- 日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
- 滋賀県立安土城考古博物館
- 開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 休館日 月曜(休日の場合は除く)、休日の翌日(土曜日・日曜日の場合を除く)、12月28日~1月4日まで
- 町立安土城天主信長の館受付
- 開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 休館日 月曜(休日の場合は除く)、休日の翌日(土曜日・日曜日の場合を除く)、12月28日~1月4日まで
- 安土城郭資料館
- 滋賀県立安土城考古博物館
[編集] ギャラリー
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武井夕庵邸跡 |
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織田信忠邸跡 |
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織田信長公本廟 |
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[編集] 脚注
- ^ 林屋辰三郎著『日本の歴史』12 ISBN 978-4122045224 等
- ^ 秋田裕毅文「安土城」 平井聖監修『城 5近畿』毎日新聞社 1996年
- ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年 ISBN 978-4055001601
[編集] 参考文献
- 滋賀県安土城郭調査研究所編集「特別史跡安土城跡」
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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