安禄山

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聖武皇帝 安禄山
1代皇帝
王朝
在位期間 756年 - 757年
姓・諱 安禄山
諡号
廟号
生年 705年
没年 757年
年号 聖武756年 - 757年

安禄山(あんろくざん)は唐代中国軍人、大燕国皇帝本姓で、康国(サマルカンド)出身のソグド人突厥系の混血。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(rwxšn/roxš(a)n 明るい・光の意味)」の音訳。唐の玄宗に対し安史の乱を起こし、大燕帝国皇帝に即位したが、最後は息子に殺された。

[編集] 主な経歴

安禄山は、当時契丹との境域にあたる遼河西岸一帯を統括していた営州都督府の主邑・柳城の出身とされるが、父は康姓であることしか知られないが恐らく営州などのソグド人有力者であったとみられ、母は突厥の名族阿史徳氏出身の「巫師」であったという。『新唐書』巻225上 安禄山伝などによると、「軋犖山」という名の突厥の軍神に巫女であった母が祈ったところ、穹廬(ゲルなどのテント)を光が照らして懐妊し、野獣はことごとく鳴くなど祥瑞が現れた、と出生に関わる奇瑞譚が載せられている。父は早くに亡くなったが、母はその後ソグド人有力者、安延偃と再婚し、養父の姓をとって安禄山と名乗るようになった。安延偃には唐に仕えて「胡将軍」と呼ばれていた安波注という弟がおり、安波注とその息子たちは唐と突厥の双方に仕えたソグド人軍閥の有力者の一門であった。

安禄山は突厥契丹などの諸勢力が混在する地域に育ったせいか「六蕃語」、6ヶ国語に堪能であったため、初め互市郎(貿易官)に任じられた。その後、軍功を立て出世していき、742年には節度使になり、その後は玄宗と楊貴妃に取り入り、二つの州の節度使を拝命し、三つの州の節度使を兼任する事になった。

安禄山は200kgを越す巨漢であり、その膨らんだ腹の中には何が入っているのかと玄宗に聞かれた時に「ただ忠誠のみが入っています。」と答えた。また楊貴妃の養子になりたいと言い出し、おむつをして大きなゆりかごに入って出てきて、玄宗や楊貴妃を大いに笑わせた。これらの事は玄宗の「軍事力を背景に反乱を起こすのでは」と言う疑いをそらすための苦肉の策であった。また李豬児を自ら刀をふるって宦官にし、帯を締める時は、李豬児の頭で安禄山の巨大な腹を持ち上げさせたという。

安禄山は元々宰相李林甫の引き立てを持ってここまで出世してきたが、楊貴妃の従兄楊国忠と結んで李林甫を追い落とした。その後、後任の宰相となった楊国忠と安禄山による主導権争いになる。この勝負は常に玄宗の傍にいる楊国忠の方が有利であり、楊国忠は事ある毎に安禄山の讒言を玄宗に吹き込んだ。これに危機感を覚えた安禄山は755年に遂に反乱を起こした。

洛陽を陥落させ、翌756年聖武皇帝に即位し国号をとした。更に長安を陥落させ、玄宗は四川へ逃亡した。

しかしこの頃に安禄山は失明糖尿病性網膜症とも言われる)し、その影響から周りの人間に対し粗暴になり、自らの実子安慶緒を廃して、養子に後を継がせようとしたために、安慶緒に殺された。

その後、この乱は安慶緒を殺した史思明に引き継がれたために安史の乱と呼ばれるようになり763年まで続く。この乱により唐の屋台骨は大きく傾き、これ以降の唐は斜陽となる。

[編集] 聖武皇帝

聖武皇帝(せいぶこうてい)は、安禄山の帝号。正式には大燕聖武皇帝(だいえんせいぶこうてい)という。

ほぼ同時期の日本では、官職名等を唐風に変更しようとする動きがあり、天皇の称号も皇帝に変えようとする動きがあった。しかし、聖武天皇を皇帝にした場合、「聖武皇帝」となり、安禄山と同じものとなる。そこで、反乱軍の総帥と同じ諡にするのは如何なものかとの声が上がり、沙汰止みになったといわれる。

先代:
皇帝
初代:756年 - 757年
次代:
安慶緒

最終更新 2009年2月28日 (土) 06:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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