安藤信友

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安藤 信友(あんどう のぶとも、寛文11年(1671年) - 享保17年7月25日1732年9月13日))は、江戸時代中期の大名で、備中松山藩の2代藩主、のち美濃加納藩の初代藩主となった。また、徳川吉宗の時代に老中を務めた。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった。

目次

[編集] 系譜

安藤家4代。安藤重博の長男で、母については、『岐阜県史』[1]が正室である戸田光重の娘とするのに対し、『寛政重修諸家譜[2]は正室以外の「某氏」とする。姉は出石藩小出英益の正室、妹は伊勢崎藩酒井忠寛の正室。男の兄弟はいない。

正室は牧野忠成の娘であるが、二人の間に子はなかった。

長男の松千代は早世、次男の信易も14歳で早世したため、祖父の弟の子にあたる安藤信周を養子として迎えた。養女に、信周正室(長島端得の娘)、大久保忠胤正室(京極高或の娘)、藤堂高朗(高豊)正室(信周の娘)がいる。

[編集] 生涯

天和元年(1681年)10月28日、11歳のときに初めて将軍綱吉に拝謁する。貞享2年(1685年)、長門守に叙任。元禄11年(1698年)8月9日に父が死去し、10月3日、幕府の許しを得て備中松山藩(6万5000石)藩主の地位を継いだ。宝永元年(1704年)に奏者番となり、同6年(1709年)には寺社奉行を兼任する。宝永8年(1711年)2月15日、美濃加納藩(美濃国内に6万石、近江国内に5000石の計6万5000石)に転封される。正徳3年(1713年)に寺社奉行を辞めるが、享保2年(1717年)に再び寺社奉行となる。翌年、大坂城代となり、享保7年(1722年)、8代将軍・徳川吉宗から老中に任じられ、享保の改革の推進に関与した。

享保12年(1727年)6月7日、跡継ぎとなるべき養子の信周が死去した後、同月22日、信周の長男信尹を跡継ぎとすることを幕府に許される。享保17年(1732年)6月に病に伏せ、7月25日に62歳で死去し、曾祖父重長が中興開基した江戸麹町の栖岸院(大正9年に杉並区永福に移転)に葬られた。法名は「賢誉濬哲龍徳院」(正しくは「龍徳院殿賢誉秀儀溶哲大居士」)。

[編集] 官位履歴

[編集] 幕府での職歴

  • 宝永元年(1704年)10月9日、奏者番
  • 宝永6年(1709年)11月23日、奏者番 兼 寺社奉行
  • 正徳3年(1713年)3月12日、奏者番
  • 享保2年(1717年)10月5日、奏者番 兼 寺社奉行
  • 享保3年(1718年)8月4日、大坂城代
  • 享保7年(1722年)5月21日、老中

[編集] 文化人としての面

[編集] 俳諧・発句

宝井其角に師事し、水間沾徳などとも交流があった。さまざまな書物でたびたび紹介され、もっともよく知られた句は、雪の降る寒い日に駕籠で江戸城へ登城する途上で、酒屋の丁稚小僧が薄着で素足の姿で御用聞きをして回っているのを見かけてよんだものである。

雪の日や あれも人の子 樽拾ひ

「樽拾ひ(たるひろい)」とは酒屋の丁稚のことで、自分の子にはとてもまねさせられないが、あの丁稚も同じ人の子なのにとても不憫である、という意味である。

また、信友が藩主だった頃の備中松山藩内では、俳諧が流行した。

[編集] 茶道

詳細は、御家流 (茶道)を参照。

信友は、はじめ織部流であったが、後に米津田盛の二男米津田賢の門人となり、千利休からそのままの形で細川三斎(忠興)、一尾伊織、米津田賢へと伝えられてきたとされる三斎流(一尾流)を学んだ。その後、三斎流を基本として織部流を組み合わせることで独自の流儀を確立させた。これが安藤家で「御家流」として代々伝えられて、今日に至る。

[編集] 脚注

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  1. ^ 『岐阜県史 通史編 近世 上』475ページ
  2. ^ 『新訂 寛政重修諸家譜 第17』178ページ

[編集] 参考文献

  • 寛政重修諸家譜」巻第1114、『新訂 寛政重修諸家譜 第17』(続群書類従完成会、1965年)所収
  • 安藤綾信『徳川譜代大名 安藤家の伝承ごと -茶道・香道・礼法-』(東洋出版、2005年、ISBN 4-8096-8206-4
  • 丹霊源編『大家常用因縁集』(顕道書院、1911年)p.121-123
  • 『岐阜県史 通史編 近世 上』(岐阜県、1968年)

[編集] 外部リンク

先代:
松平光煕
加納藩(安藤家初代)藩主
1711年 - 1732年
次代:
安藤信尹

最終更新 2009年9月23日 (水) 01:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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