宋銭

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北宋銭
北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他)

宋銭(そうせん)とは、中国北宋代に鋳造された貨幣である銅銭のことである。また、宋代には鉄銭も鋳造された(辺境部である四川陝西において、西夏への銅の流出を防止するために、銅銭の所有・使用一切を禁じられて代わりに鉄銭が強制的に流通させられたため)が、一般的には、圧倒的に多い銅銭のことを指して宋銭と呼んでいる。

目次

[編集] 概要

建国当初の宋通元宝にはじまり、歴代の改元のたびに、その年号をつけた新銭を鋳造したため、太平通宝淳化元宝至道元宝咸平元宝景徳元宝・祥符元宝といった銅銭が見られる。

銅山の採掘と銅銭の鋳造のは国家の経営により、鋳銭監鋳銭院という役所で行われた。

当初は、1個が1(または1)の等価価値を持った通貨であり、これを小平銭小銭)と称した。しかし、宋朝の財政がインフレ状態に陥り逼迫してくると、当5銭(5文銭)や当10銭(10文銭)という貨幣も鋳造されるようになった。主に流通したのは、小平銭と当2銭(または折2銭)であった。銭の単位は、1,000個で・緡またはと呼ぶ。また96個の1文銭を銭通しに通してまとめても100文として通用し、通し100文と呼ぶ。さらに通し100文を10個、つまり960文を銭通しに通してまとめても1貫(通し一貫)として通用した。

建国当初の鋳造高は、年間70,000貫ほどであったが、次第に増鋳されて行き、神宗の治世時(1067年 - 1085年)には、6,000,000貫に達した。

[編集] 流通状況

宋銭は、や西夏、日本東南アジア諸国でも通用され、遠くは、ペルシアアフリカ方面にも及び、ほぼ全アジアで流通したため、当時の経済状況に多大な影響を及ぼした。これは当時の中国王朝の政治力を物語るが、一方ではの時代には既に経済規模に対して銅銭発行量が追いついていなかったといわれる中での更なる銅銭流出は、結果的には銭荒と呼ばれる銅銭不足の状態を恒常化させて中国経済を混乱に陥れた。この結果王朝は紙幣を発行し、銀と共に取引に使用されるようになった。

[編集] 日本での流通

日本で宋銭が本格的に流通したのは12世紀後半からといわれている。特に平清盛は宋との貿易に熱心で、以降大量に宋銭が輸入される。ところが、平家と後白河法皇の確執が深まった治承3年(1179年)、宋銭による資金力が平家を台頭させたと考える法皇の意を受けた松殿基房九条兼実が「宋銭は(日本の)朝廷で発行した貨幣ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである」として、宋銭流通を禁ずるように主張したもの[1]の、逆に清盛や高倉天皇土御門通親らがむしろ現状を受け入れて流通を公認すべきであると唱えて対立した。平家滅亡後の文治3年(1187年)、三河源範頼源頼朝の弟であり、実態は頼朝の提案に等しい)の意見という形で摂政となった九条兼実が流通停止を命令、建久4年(1197年)には改めて「宋銭停止令」が出された。だが、鎌倉時代に入ってその流通はますます加速して、嘉禄2年(1226年)に鎌倉幕府が、その4年後には朝廷が旧来の政策を改めてその使用を認めた。仁治3年(1242年西園寺公経が宋に派遣した貿易船は10万貫の銭貨を持ち帰ったと記録に残っている。13世紀に入ると、絹・布が持っていた貨幣価値を銭貨が駆逐し、次第に年貢も銭貨で納められるようになった。

[編集] 脚注

  1. ^ 九条兼実『玉葉』治承3年7月27日条。なお、この際、九条兼実は明法博士中原基広より唐土の銭(宋銭)は私鋳銭ではないが、日本の法令に基づいて出されているわけではないのでそれを流通させることは、私鋳銭と同じである、として宋銭の使用が私鋳銭の使用と同じく八虐に相当するとの説明を受けている。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年7月11日 (土) 08:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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