宮城野橋

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宮城野橋(みやぎのばし)


南西側から見た橋(2005年5月)。煉瓦が貼られた橋脚の下の道が掃部丁。その奥に並走して東北本線仙山線。上空を並走するのが東北新幹線

宮城野橋(みやぎのばし)とは、仙台市都心部JR仙台駅のすぐ北(北緯38度15分47秒東経140度52分58秒 )にある自動車歩行者両用の跨線橋。通称「X橋」(えっくすばし)。

地上の掃部丁(かもんちょう)・東北本線仙山線東六番丁の上を宮城野橋が直交してまたぎ、さらにその上空を東北本線と並走するように東北新幹線が通過する。

2015年平成27年)度の完成を目標に、2009年平成21年)度にも撤去工事が始まり[1]、片側3車線(合計6車線)の橋に架け替える計画が進行中である。

目次

[編集] 建設の経緯

現在のJR東北本線が開通する前は、仙台城大手門前を西端とする「大町・新伝馬町・名掛丁・二十人町」が仙台城下町を東西に貫くメインストリートで、現仙台駅付近ではその北側に元寺小路(東に鉄砲町が続く)が並走していた。これら2本の東西道は二十人町および鉄砲町の東の榴ヶ岡手前で合一して石巻街道となり、同街道最初の駅の原町宿、仙台の外港である塩竈日本三景松島東廻り航路の中心港・石巻へと繋がっていた。1887年明治20年)、日本鉄道本線(現在のJR東北本線)の開通に伴い、元寺小路と名掛丁の2つの並行する通りは東西に分断され、踏切が設置された。

踏切は、東北本線の複線化や操車場への線路増設などで、しだいに「開かずの踏切」のような状態となった。1917年大正6年)頃、踏切閉鎖と跨線橋設置の案が出された。反対運動もあったが、旧仙台城二の丸の第二師団と、歩兵第四連隊(現榴岡公園)や練兵場(現宮城野原公園総合運動場)との間を安定的に結ぶため、歩兵四連隊の強い要請によって宮城野橋は建設された。

1921年大正10年)に開通した初代の宮城野橋は、鋼拱橋で長さ30.8m、幅7.3m。仙台駅の東と西を繋ぐ重要路線であるため、当時としては高価なアスファルト舗装がなされた。当時の仙台市には舗装された一般道路が存在しておらず、同橋と広瀬橋広瀬川に架かる旧奥州街道の橋。旧城下町と長町とを繋ぐ)のたった2つの橋しか舗装されていなかった[2]。現在の宮城野橋は、進駐軍が完全撤退した後の1961年昭和36年)竣工である。

なお、1928年昭和3年)に名掛丁には線路の下を通る地下道が設置された(ただし、四ツ谷用水があったため少し曲がっている)[3]。また、2008年平成20年)には仙台マークワンS-PAL IIの建設に伴って、仙台駅西口ペデストリアンデッキと同じ高さで「仙台駅北部名掛丁自由通路」が設置され、仙台駅北側において人が通る東西通路として宮城野橋を補完している。

[編集] 「X橋」の由来

X橋の南西行き部分を廃止して建設されたアエルの上層階から撮影したX橋の東部分。(2008年9月)

宮城野橋は、並走する元寺小路と名掛丁を1本に束ねて、掃部丁・東北本線・東六番丁の上空をまたぎ、また2つに分かれるという「>―<」のような形であったため、いつからか「X橋」と呼ばれるようになった。その後は通称の「X橋」の方が一般に使われ、正式名称を知らない仙台市民が多くなった。なお、一般にこのような形状の橋はクローバー橋と呼ばれ、北海道釧路市釧路駅近くにある旭跨線橋が類似例として挙げられる。

再開発ビルのアエルの建設に伴い、西側のハピナ名掛丁(中央通り)に繋がる南西行き部分がなくなり、現在は上から見ると「ヽ―<」すなわちyを横にしたような形となっている。そのため「y橋」という方がより実情を表しているが、いまだに「X橋」と呼ばれている。今後、仙台駅東第二土地区画整理事業[4]により、東側の元寺小路に繋がる北東行き部分がなくなる予定であるため、「X橋」は普通の形状の橋になるとみられる。

橋の正式名称より通称の知名度の方が高くなってしまったため、駅前通りとの交差点名は「X橋交差点」となっている[5]。また、この付近を通る仙台市営バス宮城交通バス路線のバス停名称も「X橋」だった。但し、二十人町と鉄砲町で一方通行になっており、二十人町経由の上り線にのみ「X橋」バス停は存在し、鉄砲町経由の下り線にはなかった。バス路線の廃止とともに停留所も廃止されている。

[編集] 周辺

X橋の北は花京院、南は名掛丁と呼ばれる地区であるが、両者をまとめた地区名として「X橋」「X橋周辺」「X橋周囲」と言われることがある。

仙台駅の北側に隣接してあるため、戦前からX橋周辺には下町的な商工業集積の他に旅館が多くあり、名掛丁と東六番丁の交差点近くには島崎藤村が「若菜集」を書いた三浦屋もあった[6](三浦屋跡地は名掛丁塩釜神社となった)。一部は現在も各種宿泊施設として継続して経営がなされているが、県外資本ビジネスホテルが周辺部も含めて進出して競争が激化している。

X橋周辺を南北に貫く末無掃部丁(すえなしかもんちょう)・掃部丁・東六番丁などは、宮町通りと北一番丁の交差点の東にあった小田原遊郭(公娼遊郭)と仙台駅とを結び、X橋の東に続く二十人町は私娼料理屋が連なる東八番丁と交差していた。第二次世界大戦後、米軍の仙台進駐が分かると、小田原遊郭と東八番丁では進駐軍兵士が利用出来るように各々建物を改修した[7]。また、小田原中江南では東京第一陸軍造兵廠仙台製造所の寮が改修され、女性従業員400人中100人が慰安婦であるキャバレーが営業を開始した[7]占領期のX橋周辺は、これら売春街と仙台駅とを結ぶ途上にあるのみならず、進駐軍のキャンプ・センダイ(旧仙台城二の丸、第2師団等跡地。現・東北大学川内キャンパス)、キャンプ・ファウラー(歩兵第4連隊跡地。現・榴岡公園)、キャンプ・シンメルフェニヒ(東京第一陸軍造兵廠仙台製造所跡地。現・陸上自衛隊仙台駐屯地)を繋ぐ一本道の途上に位置し、X橋の南西詰の名掛丁(現在の仙台パルコの西端)にはGHQ/SCAP鉄道司令部 (Railway Transportation Office; RTO) があった[8]。また、全国に8つしかないバイヤーズ・ホテル(外国人客の遊興飲食税が5割引きされるホテル[9])に指定された青木ホテルも仙台駅前広場に面してあった。このため、X橋の西側を中心に進駐軍の米軍兵士相手のスタンドバーやクラブが軒を連ねて歓楽街となり、X橋の東には特殊飲食店街が続いて風俗街となった。また、X橋周辺にはパンパン街娼)が多く立ち、麻薬ヒロポン取り引きが横行していたと言われている(苦竹キャンプに隣接する苦竹駅前には「苦竹小路」と呼ばれる歓楽街が生まれ、オンリーの家が多かった)[10]

仙台の占領軍は、1952年昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効を機に撤収開始となるが、撤収完了は1957年昭和32年)、キャンプ地返還は1959年昭和34年)である。米兵が減少してもX橋周辺には街娼がいたが、1956年昭和31年)の売春防止法施行後は激減した。しかし、昭和40年代になってもまだ存在し、仙台七夕の前に警察が一斉摘発するのが恒例となっていた。その後もX橋周辺は風俗店がやや集積する地区として続いていたが、高度経済成長期に国分町が東北一の歓楽街として興隆してきたこと、また、東北新幹線建設に伴う仙台駅の建て替えに伴って周辺が整備されてきたこともあって下火となっていった。

戦前から橋沿いに隣接して2階建て家屋が建てられ、橋に面した2階から出入りする形の店舗が軒を連ねていた(橋からみると平屋だが、実際は2階建て)。また、近年まで、X橋周辺は駅に近接しながら職住混在の典型的なインナーシティとなっており、宮城県の左翼勢力の拠点の1つともなっていた。

仙台城天守台から見たX橋周辺の高層ビル群(2009年7月)

冷戦の終結に伴う左翼勢力の後退と仙台市の政令指定都市化で土地区画整理事業再開発が進み、X橋沿いの店舗は取り壊され、周辺の風俗店もほぼ姿を消した。しかし、バブル崩壊でいくつかの再開発ビルが建ったところで頓挫していた。中途半端な再開発で留まったことで家賃の安い物件が多く残り、カウンターカルチャー系の店舗(クラブなど)が進出したが、仙台の不景気の底と見られる2003年平成15年)以降、景気の上昇感によって再開発が再度軌道に乗り始め、地の利を生かした西側は徐々に20階~30階建てのビル建設が再始動し、東側はマンション街となりつつあるなど、近代的な街並みへと変貌してきている。

[編集] 作品の舞台

開発が進んだ仙台の中心部にありながら、2000年代に入るまで終戦直後の雰囲気を残す特異な空間だったため、仙台在住の文人や、仙台と関わりを持つ作家が題材としている。なお、表題に正式な名称である「宮城野橋」を採用した作品はない。

[編集] 脚注

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  1. ^ X橋を永遠に 石材活用し参道整備へ 仙台河北新報 2009年5月28日)
  2. ^ 地方通信(「道路の改良」第8巻 第7号 大正15年7月発行)
  3. ^ 駅東口「名掛丁踏切と地下道」(仙台市中央市民センター)
  4. ^ 仙台駅東第二土地区画整理事業(仙台市)
  5. ^ 仙台市自動車交通量調査/青葉区 X橋交差点(仙台市)
  6. ^ 仙台そぞろ歩き 文学編 (1) 藤村広場(河北新報 2008年10月2日)
  7. ^ 『流行歌「ミス・仙台」~郷土・仙台の近現代史散歩~』(著者:石澤友隆、出版:河北新報出版センター。ISBN 4-87341-196-3
  8. ^ 資料館ノート「なつかし仙台2」(仙台市歴史民俗資料館)
  9. ^ 第1号 昭和36年12月5日 梶本説明員の発言(第39回国会 衆議院 運輸委員会観光に関する小委員会)
  10. ^ 高城高「敗戦直後、若者たちのこんな生き方」新潮社」2008年12月号)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月20日 (金) 13:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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