宮沢賢治
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| 宮沢 賢治 | |
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宮沢 賢治
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| 誕生 | 宮澤 賢治 1896年8月27日 (戸籍上は8月1日) 岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市) |
| 死没 | 1933年9月21日(満37歳没) 岩手県花巻町(現・花巻市) |
| 職業 | 詩人、童話作家、教師、農業指導家、地質学者 |
| 国籍 | |
| 活動期間 | 1918年 - 1933年 |
| ジャンル | 詩、童話 |
| 代表作 | 『銀河鉄道の夜』 『風の又三郎』 『注文の多い料理店』 『雨ニモマケズ』 等 |
| 処女作 | 『春と修羅』(1924年) |
| 親族 | 宮澤清六(弟) |
| 文学 |
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| 作家 |
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宮沢 賢治(みやざわ けんじ、本名:宮澤-、1896年8月27日(戸籍上は8月1日)- 1933年9月21日)は、日本の詩人、童話作家。
目次 |
[編集] 概説
郷土岩手の地を深く愛し、作品中に登場する架空の理想郷に、「岩手(いはて)」をエスペラント風にしたイーハトヴ(Ihatov、イーハトーブあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。 その空前・独特の魅力にあふれた作品群によって没後世評が急速に高まり国民的作家とされるようになった。
[編集] 年譜
- 明治29年(1896年)8月27日 、岩手県稗貫郡里川口村(のちに花巻川口町から花巻町を経て、現・花巻市)に質・古着商の宮澤政次郎(1874年 - 1957年)とイチ(1877年 - 1963年)の長男として生まれ、戸籍の届出は1896年8月1日付けでなされた。
- 明治36年(1903年)、花巻川口尋常高等小学校に入学。エクトール・アンリ・マロの『家なき子』などの童話を好み、石や昆虫を採集し、綴り方に長じていた。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」と呼ばれる。父と有志が始めた「我信念」と題する仏教講話に参加。
- 明治42年(1909年)、旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。鉱物採集に熱中。「HELP」のあだ名がつく[1]。岩手山をはじめ、山登りにも熱中する。哲学書を愛読。在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせ、大正2年(1913年)、寄宿舎の新舎監排訴の動きにより退寮となり、盛岡の寺院に下宿する。
- 大正3年(1914年)、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。このとき、看護婦に恋心を抱くが片思いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける。
- 大正4年(1915年)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学。このころのあだ名は「神」[要出典]。関豊太郎教授の指導の下で地質調査研究をする。大正6年(1917年)、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア』を創刊。短歌・小文などを発表する。
- 大正7年(1918年)、3月、得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し、卒業。4月、研究生となる。卒業で徴兵猶予の特典が無くなったため、徴兵検査を受けて第二乙種合格となる(当時は、第二乙種には兵役は課せられなかった)。 この間、『アザリア』同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で研究生を退学処分となり、以後数年間に渡って保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。 同年肋膜炎を患い、医師の診断を受ける。このとき河本義行に「自分の命もあと15年はあるまい」と述べたとされる。
- 大正8年(1919年)、前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。この滞京中に友人宅で萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。近角常観の求道学舎にも訪れている。また、東京での人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。トシ回復とともに岩手に戻る。
- 大正9年(1920年)、研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。10月国柱会に入信。自宅で店番をしながら、信仰や職業をめぐって父と口論する日々が続く。保阪嘉内には国柱会の入信を手紙で強く勧めたが決裂(7月18日)。
- 大正10年(1921年)、1月23日家族に無断で上京し鶯谷の国柱会館を訪問。本郷菊坂町に下宿する。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう[2]。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。翌年11月にトシ病死。
- 大正12年(1923年)、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太を訪問。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。
- 大正13年(1924年)、4月、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。
- 大正14年(1925年)、7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩を発表。12月、花巻の北上川で発見したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学・早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。
- 大正15年(1926年)、3月末で農学校を退職。羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。12月に上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの「北アジア」についての講演(日本語)に参加し、ラムステットと会話を交わした。またヒューマニストとして労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。
- 昭和2年(1927年)、3月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成する。
- 昭和3年(1928年)、6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。
- 昭和6年(1931年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動もおこなった。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。
- 昭和8年(1933年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯、独身であった。死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
(花巻農業高校内)
[編集] 作品と評価
生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったといわれる。 しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から、主に草野心平の尽力により多数の作品が刊行された。また、何度も全集が刊行された。(主な作品は次項参照)
広く作品世界を覆っているのは、作者みずからの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては浄土真宗の暁烏敏らの講話・説教が挙げられるが、特に18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより賢治は後に国粋主義の法華宗教団国柱会に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素はこれらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は以後の作品に特有の陰影を加えた。
なお、特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力である。それは作品に極めて個性的な魅力を与えた。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できない。
また、童話作品においては擬声語(オノマトペ)を多用し、作品によっては韻文にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴である。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』などの児童文学作品とはかなり異質なものであった[3]。
賢治の作品にはコスモポリタン的な雰囲気があり、軍国的要素やナショナリズム的な要素を直接反映した作品はほとんどみられないが、賢治は24歳に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの生涯その一員であり続けたので、その社会的活動や自己犠牲的な思想について、当時のファシズム的風潮との関連も議論されている。また、当時流行した社会主義思想(親友・保阪嘉内など)やユートピア思想(「新しき村(武者小路実篤)」、「有島共生農場(有島武郎)」、トルストイ・徳富蘆花、「満州・王道楽土(農本主義者・加藤完治や、国柱会の石原莞爾)」など)の社会思潮の影響を考えるべきであるという見解も見られる。晩年には遺作『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教の救済信仰を取り挙げ、全人類への宗教的寛容に達していたことがうかがえる。 戦後は賢治の生き方や作品にみられるヒューマニズムや平和主義的側面が注目され、特に近年はエコロジー思想とも関連づけられて高く評価されることが多い。
賢治は、いったん完成した作品でも徹底して手を加えて他の作品に改作することが珍しくなかった。この点から賢治は「最終的な完成」がない特異な創作概念を持っていたという見方があり、自身が書き残した『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」という記述がある。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあり、作品によっては何度もの修正の跡が残されて全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくなかった。そうした背景から、原稿の徹底した調査に基づき逐次形態をすべて明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973~77年)が刊行され、作品内容の整理が図られた。
これらの草稿調査によって賢治の遺稿はほぼ調べ尽くされたと見られていたが、生家の土蔵から未発表の詩の草稿1枚(地形図の裏に書かれたもの)が発見されたことが2009年4月に公表された[4]。
賢治は音楽に深い関心を持っており、自身が作詞作曲の歌がいくつか残されている。 代表作「星めぐりの歌」は賢治ゆかりの作品等を通じて現在でも親しまれている。 この歌は知人の採譜によって譜面化されたものであり、直筆の譜面は存在しない。
賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である。[5]
[編集] 異性関係
上記の通り賢治は生涯独身であった。しかし、性に対して無知であったわけではなく、ヘンリー・ハヴェロック・エリスの著書などによって当時の性に関する科学的知識を持っていた。知人の結婚を助力したことも伝えられている。独身を貫いた背景として、高等農林の研究生時代に肋膜炎で医師の診断を受けたあと「自分の命もあと15年ほどしかない」と友人に語ったこともあり[6]、賢治自身が長生できないと認識していた可能性も指摘されている(実際の没年も15年後であった)。
盛岡中学校卒業後に岩手病院で看護婦に恋心を抱いた。農学校退職後の「羅須地人協会」時代に賢治に敬意を抱いた高瀬露は、彼女の没後の1970年代にその名前も含めて公になった。1928年6月に伊豆大島で農業指導をした伊藤七雄の妹である伊藤チヱは、密かに見合いの相手と目されていたともいわれている(同年春に兄妹で花巻を訪れて賢治とは面識があった)。だが、いずれのケースも「男女交際」には至らずに終わっている。
[編集] エピソード
- 尋常小学校2年の時、同級生が川に流され亡くなった。 賢治は暗闇の中、橋の上から子供を捜索する船の明かりを見つめていたと伝えられている[7]。
- 尋常小学校時代、罰として、水を満杯にした湯呑を持って立たされていた生徒を見かねた賢治は、辛かろうと言ってその場で水を飲み干してしまった[8]。
- 1916年春、寮の親睦会で寸劇が企画され、室長であった賢治は「全知の神ダークネス」役を演じた[9]、その迫真の演技は評判となり、しばらくからかいの対象となった。
- 賢治は熱心な音楽好きであり、暇を見つけてはレコードを買っていた。賢治が頻繁にレコードを買っていくため、地方の店の割に新譜レコードが多く売れるとして、行きつけの楽器店がイギリスに本社を置くポリドール・レコードから感謝状を贈られたという[10]。
- 蓄音機の竹針を炒め、音質を高める針を発明したこともある。 米ビクター社にサンプルを送り、製品化には至らなかったものの、その発想は高く評価された[11]。
- 浅草オペラのファン(ペラゴロ)で、上京した際には、しばしば観劇した。当時の浅草オペラの役者だった田谷力三らの名前を織り込んだ詩「函館港春夜光景」も残している。
- 教師時代、賢治はよく『ブッシュに行くぞ』と言って、生徒を花巻市内のそば屋『やぶ屋』へと連れ出していた(『薮(やぶ)』を英語やドイツ語に訳すと『ブッシュ』)。そこでは必ず天ぷらそばと三ツ矢サイダーを注文していた。『やぶ屋』は現存しており(店舗は当時の建物ではない)、同店のホームページに賢治の逸話が掲載されている。[2]。
- 法華経信仰に入った後、1918年に友人に手紙で「生物のからだを食うのをやめました」と書き、菜食主義を実践した。その考え方は童話「ビジテリアン大祭」にうかがうことができる。(賢治の採用したのは、摂取する動物質を健康を保てる最低量に控えるセミ・ベジタリズムであった[12]。)
[編集] 主な作品リスト
[編集] 童話
※は生前発表作品
- 『銀河鉄道の夜』
- 『風の又三郎』
- 『ポラーノの広場』
- 『グスコーブドリの伝記』※
賢治が自作の童話の題名を列記したメモが多数残っている(自選の作品集を構想していたとも言われている)が、そのうちの数点で、上記の4作品が「少年小説」あるいは「長篇」として一括りにされている。
- 童話集『注文の多い料理店』※所収
- 『貝の火』
- 『よだかの星』
- 『カイロ団長』
- 『フランドン農学校の豚』
- 『ツェねずみ』
- 『雁の童子』
- 『雪渡り』※
- 『やまなし』※
- 『氷河鼠の毛皮』※
- 『シグナルとシグナレス』※
- 『オツベルと象』※
- 『ざしき童子のはなし』※
- 『猫の事務所』※
- 『ビジテリアン大祭』
- 『土神と狐』
- 『楢ノ木大学士の野宿』
- 『マリヴロンと少女』
- 『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』
- 『虔十公園林』
- 『なめとこ山の熊』
- 『北守将軍と三人兄弟の医者』※
- 『セロ弾きのゴーシュ』
[編集] 詩
題名が〔〕で括られているものは、原稿の最終形が無題のため、冒頭の1行を題名の代わりにしているものである。また、題名の前の漢数字は、賢治が原稿に記載していた作品番号である。
- 『心象スケッチ 春と修羅』所収
- 『序』
- 『屈折率』
- 『春と修羅』
- 『真空溶媒』
- 『小岩井農場』
- 『岩手山』
- 『高原』
- 『原体剣舞連』
- 『永訣の朝』
- 『無声慟哭』
- 『青森挽歌』
- 「春と修羅 第二集」所収
- 『一六 五輪峠』
- 『一九 晴天恣意』
- 『一六六 薤露青』
- 『三一三 産業組合青年会』
- 『三一四 〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕』(逐次形態での題は『業の花びら』)
- 『三八四 告別』
- 「春と修羅 第二集補遺」所収
- 『葱嶺(パミール)先生の散歩』
- 「春と修羅 第三集」所収
- 『七〇九 春』
- 『一〇〇八 〔土も掘るだろう〕』
- 『一〇八二 〔あすこの田はねえ〕』
- 『一〇二〇 野の師父』
- 『一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く』
- 『一〇八八 〔もうはたらくな〕』
- 「口語詩稿」所収
- 『第三芸術』
- 『火祭』
- 『牧歌』
- 『地主』
- 『夜』
- 「疾中」所収
- 『病床』
- 『眼にて云う』
- 『〔丁 丁 丁 丁 丁 〕』
- 『〔風がおもてで呼んでいる〕』
- 『〔疾いま革まり来て〕』
- 『〔手は熱く足はなゆれど〕』
- 『夜』
- 「補遺詩篇I」所収
- 『〔雨ニモマケズ〕』
- 「文語詩稿 五十篇」所収
- 『〔いたつきてゆめみなやみし〕』
- 『〔水と濃きなだれの風や〕』
- 「文語詩稿 一百篇」所収
- 「文語詩未定稿」所収
- 『星めぐりの歌』
- 『精神歌』
- 『ポラーノの広場のうた』
- 『双子の星』
[編集] 水彩画
- 『日輪と山』
- 『月夜のでんしんばしら』
- 『手の幽霊』(仮題)または『ケミカル・ガーデン』(仮題)
- 『ミミズク』(仮題)
- 『ネコ』(仮題)
- 『赤玉』(仮題)
[編集] その他
- 『手紙 四』
- 『農民芸術概論綱要』
- 『竜と詩人』
[編集] 映像作品
※作品を映像化したものについては、該当作品の項目を参照。
- 『雨ニモマケズ』 - 映画(1958年)監督:蛭川伊勢夫 脚本:猪俣勝人・柴英三郎 出演:重森孝、北山年夫、納谷悟郎 音楽:眞鍋理一郎
- 『宮澤賢治-その愛-』 - 映画(1996年)監督:神山征二郎 脚本:新藤兼人 宮澤賢治:三上博史
- 『わが心の銀河鉄道~宮沢賢治物語』 - 映画(1996年) 監督:大森一樹 宮澤賢治:緒形直人
- 『イーハトーブ幻想~KENjIの春』 - テレビアニメ(1996年) 監督:河森正治
[編集] 出典・脚注
- ^ 自筆の伝記メモに「Helpと呼ばる」との記載があり、1910年に友人宛に書かれた現存最古の書簡にも「Help閣下」という署名がある。
- ^ 同じ謄写版印刷所に、戦後釜石市長となった鈴木東民がおり、当時の模様を「筆耕のころの賢治」(筑摩書房版宮澤賢治全集別巻『宮澤賢治研究』、1958年)として書き残している。
- ^ 『赤い鳥』を主催した鈴木三重吉は、寄稿を試みた賢治の作品を全く評価しなかったと伝えられている。
- ^ 「宮沢賢治の詩草稿見つかる」産経新聞2009年4月8日
- ^ [1] 宮沢賢治・自訳エスペラント詩集(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)
- ^ 堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』中公文庫、1991年、P146。
- ^ 扶桑社『宮沢賢治エピソード313』p6
- ^ 小西正保著『わたしの宮沢賢治論』p231
- ^ 『校本宮沢賢治全集第14巻』472項
- ^ 宮沢清六「兄とレコード」『兄のトランク』筑摩書房、1987年(執筆・初出は1954年)。原子朗編の『新 宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍、1999年)の「レコード」の項では「ポリドールの社長からレコードがよく売れるので、花巻の高喜商店に問い合わせがあり、町一番のコレクター賢治の名をあげたところ、社長から賢治あてに感謝状がきた」とある。
- ^ 扶桑社『宮沢賢治エピソード313』p112
- ^ 板谷栄城『素顔の宮沢賢治』1992年、平凡社等を参照
[編集] 関連項目
[編集] 地理関係
[編集] 人物
[編集] その他
[編集] 外部リンク
- 宮沢賢治記念館
- 宮沢賢治学会イーハトーブセンター
- 森羅情報サービス - 賢治の大半の作品のテキストを掲載している。
- 宮沢 賢治:作家別作品リスト(青空文庫)
- 宮沢賢治(日本詩人愛唱歌集) - 「どの詩に誰が作曲したか」や宮沢原作の「オペラ、音楽劇、ミュージカル」など。
- 宮沢賢治推奨サイト
- 聖人・宮沢賢治
最終更新 2009年11月10日 (火) 07:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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