対馬

対馬の最新ニュースをまとめて検索!

曖昧さ回避対馬」のその他の用法については「対馬 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
対馬
座標 北端:北緯34度42分
南端:北緯34度5分
東端:東経129度30分
西端:東経129度10分
面積 696.10(属島を含まない)[1]
708.5(属島を含む)[2]km²
海岸線長 915(属島を含む)[3]km
最高標高 648.5m
所在海域 対馬海峡朝鮮海峡
所属国・地域 日本長崎県対馬市
  

対馬(つしま)は、日本九州の北方、玄界灘にある長崎県に属するである。長崎県では最大の島であり、全国においても、本州北海道四国九州の主要4島と北方領土を除いて、第6位である[4]。対馬の大半を占める主島の対馬島(つしまじま)のほか、その周囲には100以上の属島が存在する。一般的にはこの対馬島と属島をまとめて対馬と呼ばれることが多い。古くは対馬国(つしまのくに)や対州(たいしゅう)、また『日本書紀』において対馬島(ただし、三文字引き合わせて「つしま」と読むのが書紀古訓における伝統的な読み方である)と記述されていた。

位置的に朝鮮半島に近いため、古くから大陸と日本とを繋ぐ、文化経済の窓口の役割を果たしてきた。

目次

地理

対馬島は、九州本土より玄界灘対馬海峡の東水道をはさんで約132km、朝鮮半島へは対馬海峡の西水道(朝鮮海峡)をはさんで約49.5kmである。南北に82km、東西に18km、面積は約700km2

南北に細長く延びる形をした対馬島と、100を超える小島から形成される。主島の面積は696.29km2であり、すべての島を合わせた面積は、708.61km2である。有人島は、主島・泊島・赤島・沖ノ島・島山島・海栗島の6島である。このうち海栗島を除く5島は橋梁または埋め立てにより結ばれている。

東海岸の一部と下島の西海岸の一部を除くほぼ全域でリアス式海岸が発達し、海岸線の総延長は915kmに及ぶ。特に中部には西から大きく切り込んだ浅茅湾(あそうわん)があり、東からも三浦湾、大漁湾(おろしかわん)などが切れ込む。その他にも各地に小さな湾があり、港として利用される。また断崖絶壁もまま見られ、高さが100mに及ぶものもある。

主島はかつて1つの島だったが、1672年に大船越瀬戸が、1900年万関瀬戸がいずれも人工的に建設され、細長い主島は南北3つに分離された。過去には南部を上島、北部を下島と呼んだこともあったようだが、現在は万関瀬戸より北部を上島(かみじま)、南部を下島(しもじま)と呼ぶ。

全体的に山がちで険しいが、下島の方が標高が高い。下島中央部には最高峰の矢立山(標高648.5m)があり、舞石ノ壇山(めいしのだんやま:標高536.4m)・龍良山(たてらやま:標高558.5m)などの矢立山系が内山盆地を囲む。その北東に有明山(標高558.2m)があり、浅茅湾南岸に白嶽(しらたけ:標高518m)がある。上島の最高峰は北部にある御嶽(みたけ:標高479m)である。島内の分水界は東に偏っていて、主要6河川のうち佐護川仁田川三根川佐須川・瀬川の5河川まで西向きに流れる。東へ流れる最大の川は流域面積5位の舟志川である。

各河川の下流部には谷底平野があるものの、耕作に適した平地は少なく、陸上交通も不便である。このような地形は人々の生活や歴史に大きな影響を与えてきた。

地質は、大部分が新生代第三紀に形成された堆積層[5]で、対州層と呼ばれる。上島北部の御岳周辺に玄武岩、下島東部に石英斑岩、下島中央部の内山盆地周辺に花崗岩、それを囲む矢立山系にホルンフェルスがそれぞれ分布している。更新世の中頃までは、日本列島と大陸は陸続きであったが、その終わり頃、海進によって九州と朝鮮半島の間が離れ、対馬は隠岐とともに地塁島(飛び石のようになった島)として取り残された。

自然

烏帽子岳から望む浅茅湾

対馬海峡には暖流の対馬海流が流れているため、その影響で比較的平年を通して暖かく、雨が多いという典型的な海洋性の気候である。

は西のアジア大陸から吹いてくる季節風が原因で、ゴビ砂漠などの黄砂の影響を受ける。は30℃を超える日は滅多になく、比較的涼しく過ごしやすい。は比較的雨が少なく、は大陸から吹く季節風の影響で寒さが厳しくなる。

生物

島の面積の89%を山林が占め、島の原始林や杉・大ソテツなどが国や県によって天然記念物に指定されるほど自然が豊かである。本来の植生は広葉樹林だが、林業による針葉樹林も多い。全般的に九州本土に類似するが、九州では山地に多い夏緑樹が低地にも見られる。

動植物とも、大陸系種・対馬固有種・対馬固有亜種・日本本土系種が混在する。九州で多くて対馬に全くいない種類や、対馬で多く九州で少ない種類もあり、独特の生物相を形成している。

主な対馬固有種・固有亜種

主な大陸系種

自然保護区

対馬島は固有の動植物や、日本では対馬でしか生息していないユーラシア大陸との共通種が数多く生育・生息しており、豊かな自然環境を呈するためいくつかの自然保護区が指定・設定されている。1968年(昭和43年)7月22日に、対馬島は壱岐島とともに壱岐対馬国定公園に指定されている。ツシマヤマネコなど希少種の保護のため、1989年(平成元年)11月1日に対馬島北部の伊奈は国指定伊奈鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定されている(面積1,173ha)。また洲藻白岳原始林・竜良山原始林・御岳鳥類繁殖地・鰐浦ヒトツバタゴ自生地が、国の天然記念物に地域指定されている。島の北西には環境省対馬野生生物保護センターがある。

サンゴ礁

対馬の沿岸部には、所々に小規模なサンゴ礁が分布している。2007年には、対馬のサンゴ礁でも白化現象が確認されている[6]

環境問題

対馬島の沿岸には、対馬海流に乗って外国からゴミが漂着する。中華人民共和国中華民国台湾)、ロシアからのものもあるが、その大半は大韓民国のゴミである。漂着ゴミは、プラスチック製の各種容器・生活廃棄物・漁具類のほか、テレビや冷蔵庫等の大型ゴミもある。また、2000年以降は毎年、韓国の養殖業で使用されたと見られる薬品用ポリタンクが大量に漂着する。これらのポリタンクには、塩酸や過酸化水素等とハングル表記されている。そして、実際に薬品が残っていた例もある。

これらの廃棄物は、1年間で約4400トンが漂着し、その量は対馬市が処理する一般廃棄物の3分の1に当たり、その費用として2001年からの7年間で2800万円を要する[7]。なお、韓国からゴミを回収するボランティアが来島したことがある。

歴史

対馬藩お船江跡

対馬市#歴史」、「厳原町#歴史」、「美津島町#歴史」、「豊玉町#歴史」、「峰町#歴史」、「上県町#歴史」、および「上対馬町#歴史」も参照

※古文書では對馬と書かれている。

原始・古代

縄文時代の対馬市峰町佐賀貝塚や同上県町志多留(したる)貝塚からは外洋性の魚の骨が出土し、また、峰町吉田貝塚からは縄文晩期の夜臼式土器、弥生前期の板付I式土器などが出土し、北九州と全く同じ文化圏であったことが分かる。北九州ではこの頃から水稲耕作が始まり、平野が開発されてゆくのであるが、対馬では河川に恵まれず、水田面積を拡大できず、弥生時代に入っても狩猟や採集・漁労の縄文時代と同じ生活であったと推定され、イネの収穫具の石包丁はほとんど発見されていない。しかし、大陸系磨製石器、青銅製や鉄製の金属器などが出土している。弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる。一方、北九州で製作された中広銅矛・広形銅矛が多く発見されている[8]

建国神話である『古事記』では、最初に生まれた島々の1つとして「津島」と記されている。また『日本書紀』には「対馬洲」「対馬島」と記されている(国生み)。

対馬島は古くから大陸との交流があり、歴史的に朝鮮半島に近い地理的関係から両国の中継地として日本と大陸との接点となった。

魏志倭人伝』(正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条)にはの一国として韓国の南岸の「狗邪韓国」(慶尚南道金海付近)の次に「対馬国」として登場する。対馬国は邪馬台国に属しており、他の倭の国にも見られる卑狗(ヒコ)という大官と、卑奴母離(ヒナモリ)という副官が置かれ統治していた。そこには千余戸が有り、人々は海産物を採集し、南北に交易を行って生活したと記されている。

古墳時代初期に築かれた出居塚古墳は前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃、管玉、鉄剣部分等が出土。前方後円墳は大和地方で発達した古墳の形態で、出土した有茎柳葉式銅鏃は、古式畿内型古墳の典型的出土品であり、この時代にすでに対馬はヤマト王権の強い影響下にあったことを示している。最も規模の大きい前方後円墳は、対馬市美津島町高浜ソネの海岸に集中して築造されている。えべすのくま古墳は全長40メートル、箱式棺で銅鏃12・管玉1・鉄剣を出土。鶏知(けち)ネソ1号墳は全長30メートル、箱式棺で管玉・鉄鏃・刀出土。同ネソ2号墳全長36メートル、主室から箱式棺、須恵器・鉄刀出土。副室からは箱式棺、土師器・鉄剣出土。えべすのくま古墳は前方後方墳の疑いもある。銅鏃は京都市妙見山古墳や福岡県石塚山古墳のものと同類で、古墳時代前期のものと推定でき、古墳の年代は4、5世紀の間と考えられる。ネソ1、2号はともに積石塚である[8]

島の首長について『先代旧事本紀』の「国造本紀」に津島県とある。古墳時代はヤマト王権が度々朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代といえる。こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載により知る事ができる。中でも特に対馬の地名が具体的に登場するのは、日本側の記録としては『日本書紀』に、対馬北端の和珥津(わにのつ、現在の鰐浦)から出航した神功皇后率いる大軍が新羅を攻め、服属させた上、屯倉を設置したと書かれてある。また、朝鮮半島側の記録としては、『三国史記』に、第十八代・新羅王・実聖尼師今・治世七年(408年)、倭人が新羅を襲撃するために、対馬に軍営を設置し軍備を整えていた事が書かれている。このように対馬はヤマト王権による朝鮮半島出兵の中継地として重要な役割を担っていた。

663年白村江の戦い以後、倭国は、新羅の侵攻に備え、664年、対馬に防人(さきもり)が置かれ、烽火(とぶひ)が8ヶ所設置される。防人は東国から徴発された。667年には浅茅湾南岸に金田城を築いて国境要塞となる。このため国府や、多くの神社などが置かれていた。674年、厳原(いづはら)に国府を置く。同年、対馬国司忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出したを朝廷に献上。これが日本で初めての銀の産出となる。この対馬銀山は含銀方鉛鉱鉱床で、鉱石を山上に運び数日間焼き続けることにより残った銀を採取した。この冶金法は灰吹法に類似する。701年、対馬で産出したと称するを朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって日本最初の元号大宝」が建てられた。741年聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬国分寺建立。

平安時代には、894年に新羅の賊船大小100、約2,500人が佐須浦(さすうら)に攻めてくるが撃退する。1019年、正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃。記録されているだけで殺害された者365名、拉致された者1,289名で、有名な対馬銀鉱も焼損した。のちに賊の正体が刀伊(女真族)であることが判明し、刀伊の入寇と呼ばれるようになる。

中世

12世紀には宗氏の始祖・惟宗(これむね)氏が対馬に入国する。惟宗氏は、元々大宰府の官人であったが、筑前国宗像郡から対馬に来た。1196年宗家の始祖・惟宗氏の名前が、対馬の在庁官人の中に初めて見られる。対馬守護地頭少弐氏の代官として次第に島での実権を握り、武士化する。それまで対馬では阿比留(あびる)氏が勢力を持っていた。阿比留氏は当時国交がなかった高麗と交易を行っていた。大宰府は咎めたが、従わなかったため、1246年大宰府の命により惟宗重尚(これむねしげひさ)が、鶏知(けち、美津島町)を中心に強い勢力を持っていた阿比留在庁(平太郎)を征討し対馬の支配を確立する。

鎌倉時代には、2度に渡るモンゴル帝国)とその属国高麗による日本への侵略(元寇)を受ける。対馬はその最初の攻撃目標となり、受難の時を迎える事となった。1274年、蒙古兵25,000人、高麗兵8,000人及び水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦に殺到する。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃する。しかし兵力の差は如何ともし難く、勇戦及ばず玉砕した。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえ付たという。これが文永の役である。1281年に2度目の日本への侵略弘安の役が起こる。元・高麗軍の陣容は、東路軍(合浦→現在の馬山市より侵攻)蒙古兵15,000人、高麗兵10,000人、水夫等17,000人。江南軍(寧波より侵攻)旧南宋兵100,000人。弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、《其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。》と記されている。

元寇終結後倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地の1つとなっていた。1366年、高麗が倭寇と海寇の取締を要請すると宗経茂はこれに答え高麗との通交が始まるが、1389年慶尚道元帥朴ウィに率いられた高麗軍が激化していた倭寇討伐のために対馬に来襲。倭寇船300余隻を撃破し、捕虜となっていた多数の高麗人を救出した。

高麗に代わり李氏朝鮮が成立すると、宗氏は引き続き李氏朝鮮と通交するが、1419年6月、倭寇征伐を大義名分とした応永の外寇が起こる。李氏朝鮮は兵船227隻・軍兵1万7,285人で来襲し、尾崎浦(おさきうら)を焼き払い続いて小船越を襲撃、更には仁位浦に進撃して如加岳(糠嶽、ぬかだけ)で対馬の兵と激戦となる。朝鮮軍は対馬側の待ち伏せなどの反撃により損害が大きく、膠着状態に陥った為対馬側の和平提案を受け入れ7月3日に巨済島へ全面撤退した。

1433年、宗氏の主君、少弐嘉頼周防大内氏に敗れ対馬に逃れ来て三根の中村に居を構える。これにより小弐氏・宗氏と共に筑前を失った。1438年頃確立される文引制および1443年に結ばれた嘉吉条約により日本から朝鮮へ渡航する者は宗氏の統制下に置かれることになり、対朝鮮貿易権の対馬集中が始まる。

1510年、朝鮮側の貿易抑制政策や恒居倭(朝鮮在留日本人)に対する締め付けに耐えかね、恒居倭と宗氏は反乱を起こすが、対馬当主の子息宗盛弘を大将とする宗軍約4,000~5,000名の軍勢は朝鮮軍に大敗し、熊川で宗盛弘は戦死した(三浦の乱)。

近世

1587年(天正15年)豊臣秀吉九州征伐に際して、宗氏は事前に豊臣秀吉への臣従を決定し本領を安堵された。1590年、従四位下侍従・対馬守に任ぜられ、以後その官位が宗氏の慣例となる。

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、出兵に先立ち1591年(天正19年)厳原には金石城の背後に清水山城が、上対馬の大浦には撃方山城が築かれ中継基地となる。対馬からは宗義智が5,000人を動員。宗義智率いる対馬勢は一番隊から九番隊に編成された派遣軍の中でも最先鋒部隊である小西行長の一番隊に配属。1592年(文禄元年)義智らは全ての日本軍の先陣となって渡海し釜山漢城(現韓国首都ソウル)、平壌(現北朝鮮首都)を次々と攻略する。このように常に日本軍の先頭に立って李氏朝鮮やと戦い活躍した。また義智は戦闘だけでなく行長と共に日本側の外交を担当する役割も担い折衝に当たっている。義智は1600年関ヶ原の戦いに際しては西軍に加わり伏見城攻撃に参加。大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を代理として参加させた。西軍敗北後徳川家康から許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担うこととなる。

宗義成の代に、大坂の陣に参加。柳川事件起こる。島原の乱に参加。佐須鉱山再掘。

江戸時代は宗氏が引き続き対馬を支配した。これを対馬府中藩(通称対馬藩)と言い、参勤交代制度に基づき3年に1度江戸征夷大将軍の元に出仕することとされ、江戸に藩邸を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な大名行列を仕立てて行き来した。外交面では鎖国体制の中、朝鮮通信使を迎える等の、日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝の中央権力から釜山で倭館貿易を許されていた。

対馬藩は10万の格付けであるが、山がちで平野の少ない対馬では米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、石高の大部分は大陸との交易による収入であった。また日本の蕎麦は対馬を経由して中国から伝えられたとされ、対州蕎麦は対馬の特産の1つである。

以後、宗氏は改易もなく明治維新まで断絶することなく続き、維新後伯爵となり華族に列した。

近代

江戸時代後期の1861年にはロシアの軍艦が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する事件が起こり、5月には外国奉行小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックがロシア軍艦を退去させた(対馬事件)。

1871年廃藩置県により厳原県となり、その後一時伊万里県へ編入された後すぐに長崎県へ編入された。

14世紀後半から江戸時代にかけて、対馬の宗氏は一貫して日本の中央権力に忠誠を誓ってきたが、朝鮮から官職を与えられ、特殊な役割を果たして来たことも事実である。ある日本史研究者はこれを対馬の境界性と表現している。

対馬要塞

詳細は「対馬要塞」を参照

近代にはロシア、イギリスによる対馬への接近に脅威を感じた日本政府、軍は国境最前線である対馬島の要塞化を図った。豊、竜ノ崎、竹崎、海栗島などに砲台が築かれ、昭和前期には対馬海峡全体を防衛できるほど整備された。特に豊砲台には、軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40cm連装砲塔が、竜ノ崎砲台には、戦艦「摂津」の30cm連装砲塔が設置された。豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。

また、対馬および周辺海域を防衛する部隊として陸軍対馬警備隊海軍竹敷要港部が置かれた。戦後の自衛隊でも陸上自衛隊対馬警備隊海上自衛隊対馬防備隊・航空自衛隊第19警戒隊が置かれている。

行政区画の変遷

1889年の市町村制度施行の際には上県郡に5村、下県郡に9村が発足した。その後合併や町制施行などを経て上県郡(峰町、上県町、上対馬町)と下県郡(厳原町、美津島町、豊玉町)の26町体制となっていたが、2004年3月1日に対馬のすべての町が合併して市制施行し、対馬市の1市体制となった。

詳細は「対馬市#歴史」を参照

近現代における朝鮮半島との関係

韓国の領有権主張状況

1949年1月17日李承晩は対馬は韓国領であるとして日本に返還を要求する[9]。また、第二次世界大戦後に日本を占領した連合軍総司令部 (GHQ) に対し、韓国李承晩政権は竹島だけでなく対馬についても「歴史的にこの島は韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」と述べ[10]、日本からの割譲を要求したが、GHQから「根拠がない」として一蹴された。

現在の韓国政府は李承晩政権時代のように対馬領有を主張しているわけではないが、2008年7月21日には韓国国会議員50名が韓国国会に対馬島返還要求決議案を提出しており、同案に対して世論調査機関リアルミーターが2008年7月に実施した世論調査によると韓国内では「日本に対馬返還要求すべき」との主張に賛成する人は50.6 %、反対意見は33.5 %である[11]

2005年3月18日慶尚南道馬山市(マサン)市議会は島根県議会の「竹島の日」に対抗すると称して「對馬島の日」(대마도의 날)条例を在籍議員30人のうち出席議員29人全員が賛成し可決した。条例は「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と規定している[12]。これに対して韓国政府は馬山市に条例の撤回を要請している。対馬市議会の波田政和議長は2006年10月6日、馬山市議会に『対馬島の日』条例の廃止措置を打ち出す事を要請した。これに対して馬山市議会は、「対応する価値がない」と条例を廃止しないことを明確にした[13]

この他の例として、2007年7月、金成萬(キム・ソンマン)前韓国海軍司令官は、対馬軍事侵攻計画を立案すべきと韓国政府に求める内容の寄稿文を著した[14]

李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟が1471年に編纂した『海東諸国紀』は日本国対馬島の図[15]を掲載し、本文では対馬島を日本国西海道に属すとして島内の事情を詳述している。ただ、16世紀に刊行された朝鮮の地理書『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」には対馬が朝鮮領とする記述は存在しないが、地図には朝鮮に隣接する領土外地域も共に描かれており、北方国境である鴨緑江豆満江北側のの領土が地図内に描かれていると共に対馬も地図内に描かれている。これを「八道総図」で対馬が朝鮮領として描かれていると解釈し、これを根拠に対馬は韓国領だとする主張も朝鮮・韓国内には存在する。

これらの韓国側の主張に財部能成対馬市長は「主張は自由だが、対馬は先史時代以降ずっと日本。『魏志倭人伝』にも倭国の中に入っている。対馬が韓国領土というのはあり得ない」と発言している[16]

韓国語版ウィキソース대마도의 날 조례안(対馬の日条例 内容)も参照のこと

尚、2008年7月23日に韓国の退役軍人らで構成する抗議団21人が対馬市役所前で「独島は韓国領土 対馬も韓国領土」と主張する横断幕を掲げ抗議活動を行い、一部の市民と道路を挟んで向かい合い怒号が飛び交うなど騒然とした雰囲気に包まれた。

韓国での対馬の呼称

韓国では昔から対馬のことを漢字表記の「對馬島(對は対の旧字体)」をそのまま朝鮮語式に読んだ「대마도(テマド)」と呼んでいたが、現在では、韓国政府の公式に出版する資料には、日本の「つしま」の音読みをあてて、쓰시마(つしま)(島)と表記される。

交流

対馬は1990年代頃から、日韓交流の拠点となるべくイベント等さまざまな活動を行っており、中でも対馬アリラン祭は島最大のイベントとなっている。他にも国境マラソンin対馬、対馬ちんぐ音楽祭などがある。さらに島内の殆どの道路標識に朝鮮語を併記するなど観光客の誘致に力を入れている。また、対馬島内の複数の中学校が韓国内の中学校と姉妹校縁組を締結しておりホームステイなどの交流を行なっている。対馬市は釜山広域市の影島区と姉妹都市提携を結んでおり、釜山市内に市の事務所を構えている。

対馬に流れ着いた漂着ゴミを減らす為、毎年、日韓合同で対馬北部の海岸の清掃(ゴミ拾い)を実行している。

韓国人旅行客のマナーの悪さ

1999年厳原港・比田勝港-釜山港間の定期船航路が開設されてからは、多くの韓国人観光客が対馬を訪れるようになった。しかし、韓国からの観光客が増えるにつれ、外国人には禁止されている撒き餌漁を行う、飲食店に自前の食料品を持ち込み、大して店での飲食をしないで居座るなど、一部の韓国人観光客のマナーの悪さが島内のみならず本土でも問題が取り上げられることも増え、報道番組で特集が組まれたことも複数回あるが、韓国大使館から圧力をかけられて放送中止となった番組もある[要出典]。壱岐対馬国定公園内に韓国の国花であるムクゲを無許可で植栽し逮捕者を出すなどの問題も起きた(韓国には対馬にムクゲを植える運動を広げる旅行社もある[17])。一部では韓国人受け入れ拒否の声も挙がっている[18]

また、一部の韓国人観光客の食い逃げが問題となっており、飲食店の中には韓国人観光客お断りの店も増えてきている。100円ショップやスーパーなどでの万引きも横行しており、島民は頭を抱えているという[19]

しかし、長崎県が推定した2007年度の韓国人観光客による経済効果は21億6000万円とされ、多くの商店では今や韓国人観光客によって支えられているという実態がある。それでも、習慣の相違による韓国人観光客のマナーの悪さなどがあるため、地道に日本のマナーを訴えていくことにしている[20]

韓国資本の土地買収問題

2008年頃から対馬の土地を韓国資本が買い占めているとの報道がなされるようになり、浜田靖一防衛大臣が「政府で検討すべき問題」、中曽根弘文外務大臣が「わが国の領土を守るのは国家の最重要課題」と国会で述べるまでに至った。同年12月20日には超党派の国会議員グループ11人が対馬を公式視察するに至り、視察団長の平沼赳夫海上自衛隊対馬防備隊本部の隣接地が韓国資本に買収されていることについて「領土意識が希薄になっていることを象徴している」との危機感を表明し、国境対馬振興特別措置法(防人の島新法)制定の必要性を訴えた[21][22]。また、2008年11月12日の合同会議では韓国資本による不動産買い占めについては、5500坪(島全体の0.26%)の買い占めを確認したと報告。新法では、国防等に関連する機関の設置や領土保全に対する特別措置などを盛り込むよう求めた。

しま交流人口拡大特区

長崎県が対馬全域を「しま交流人口拡大特区」として構造改革特別区域提案・申請し、2003年11月28日に認定された[23]。この認定により、以下の事業が可能になった[2]

  • 韓国人団体旅行者などが短期滞在型査証の発給を受ける場合、その手続きが簡素化される。
  • 長崎県立対馬高等学校国際文化交流コースにおいて、学校設定単位として、韓国との関係を重視した教科・科目を25単位設置する。

交通

島内交通

道路は、比田勝(上島北東岸)~上島の西部~下島の北部東岸~厳原(下島東岸中部)に至る国道382号と、厳原から下島を時計回りにほぼ一周して鷄知(下島東岸中部)に至る長崎県道24号厳原豆酘美津島線、上島東岸沿いを走る長崎県道39号豊玉上対馬線が南北の軸となっている。主要地方道はこの2路線の他に4路線、一般県道は9路線がある。

公共交通機関は、バス対馬交通)、タクシー、浅茅湾内を運航する市営渡船がある。

島外への交通

航空

船舶

国内航路
国際航路

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 離島振興対策地域一覧(平成18年3月31日現在)PDF5p
  2. ^ しま交流人口拡大特区構造区域特別区域計画PDF
  3. ^ 対馬市市勢要覧PDF3p 島のプロフィール
  4. ^ 国立天文台(編) 平成19年 理科年表 p.565 ISBN 4621077635
  5. ^ 粘板岩頁岩砂岩で、ところどころに石英斑岩斑糲岩(はんれいがん)・花崗岩が陥入している。
  6. ^ 水と緑のキャンペーン2007 | KBC九州朝日放送
  7. ^ YOMIURI ONLINE - 「対馬にごみ襲来 ドラム缶や注射器、韓国などから」。
  8. ^ 岡崎敬『魏志倭人伝の考古学』第一書房 2003年
  9. ^ 今日の歴史(1月7日) 聨合ニュース 2009/01/07
  10. ^ 韓国、サンフランシスコ講和条約で対馬領有権を要求 朝鮮日報日本語版2005/04/10 17:58:55
  11. ^ 「日本に対馬返還要求すべき」賛成50.6 %中央日報 Joins.com 2008.07.27 13:20:37
  12. ^ 朝鮮日報 2005/03/18 19:34:42馬山市議会が「対馬島の日」条例を可決
  13. ^ NAVER/釜山日報 2006-11-02 12:42
  14. ^ Korean National Security Net(韓国語)(2007/07/13 09:19)
  15. ^ 九州大学デジタルアーカイブ・海東諸国紀
  16. ^ 「竹島」抗議で対馬来島 韓国の退役軍人あす座り込み 長崎新聞HP 7月22日
  17. ^ 対馬は今「小さな韓国」中央日報2006.01.10 11:24:25
  18. ^ [1]
  19. ^ 『週刊SPA!』12/23・1/6号 28-29P
  20. ^ [2]
  21. ^ 2008年12月20日 産経新聞
  22. ^ 2008年11月28日 産経新聞
  23. ^ 構造改革特区について(長崎県)

参考文献

  • 講談社『日本の歴史ー14、周縁から見た中世日本』第3部「海域世界の交流と境界人」第1章「境界としての対馬島と喜界ヶ島」(高橋公明、2001年)
  • 長崎県環境部自然環境課編『ながさきの希少な野生動植物』(該当部執筆者 : 鎌田泰彦・邑上益朗・浦田明夫・谷口秀樹・池崎善博)2001年発行

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年10月22日 (木) 19:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【対馬】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!