小出秀実

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小出 秀実(こいで ひでざね、天保4年(1833年) - 明治2年6月22日は、幕末旗本従五位下で大和守を冠す。また左衛門尉、修理とも称す。

[編集] 経歴

実父は江戸幕府大目付、土岐頼旨。丹波守頼旨は勘定奉行下田奉行・浦賀奉行から1845年に大目付に就任。同年、大番頭に移され1852年、留守居役となった。阿部正弘に抜擢され1855年に再度、大目付として海岸防禦御用掛(海防掛)を兼務している。1845年にアメリカ捕鯨船マンハッタン号が日本人漂流民22人を浦賀港に送り届けた際には、浦賀奉行としてクーパー船長の善意に感謝し、老中首座の阿部正弘と協議の上、薪水を給与する事で穏便に退去させた。1858年の日米修好通商条約締結では勘定奉行川路聖謨ともにアメリカ総領事タウンゼント・ハリスに質問書を提示し交渉に当たったが、徳川家の継嗣問題から両人とも大老井伊直弼により左遷された後に、罷免・隠居を命ぜられる。

土岐頼旨の次男である秀実は、実子がない普請役の旗本、小出英永の両養子として嘉永5年(1852年)に小出家の家督を相続し同年、大御番組入りする。秀実は昌平黌にて学び、講武所-銃隊調練の教導資格を得た。文久元年(1861年目付に登用された秀実は、文久2年(1862年)に箱館奉行に任ぜられる。箱館奉行時代、箱館奉行所の五稜郭内移転やアイヌ盗骨事件で英国との談判が幕府に評価され、慶応2年(1866年)、外国奉行に転じ、樺太国境画定交渉の遺露使節団の代表正使としてロシアへ派遣された。副使はのちに最後の北町奉行となる石川利政である。ただし、アレクサンドル2世との交渉は不調に終わり、互いの主権が存続した状態となり、結果的には失敗した。ただこの交渉の際、千島樺太交換条約が表面的に出たことは特筆でき、日露間樺太島仮規則が仮調印された。途中、プロイセンのオットー・フォン・ビスマルク宰相やナポレオン3世と謁見し、第2回パリ万国博覧会に参加している。このとき使節団に随行したのが、榎本武揚山川浩などである。

慶応3年(1867年)には小栗上野介配下として勘定奉行、金銀座取締役を経て留守居役となり、11月9日の大政奉還を迎える。翌年、江戸北町奉行となる。

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

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最終更新 2009年11月10日 (火) 14:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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