小川邦和

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小川 邦和
基本情報
国籍 日本
出身地 広島県福山市
生年月日 1947年2月1日(62歳)
身長
体重
172cm
75kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1972年 ドラフト7位
初出場 NPB / 1973年
最終出場 NPB / 1983年
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

小川 邦和(おがわ くにかず、1947年2月1日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手投手)。

日本人としては初めて、自らの意志でメジャーリーグに挑戦した選手である。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] プロ入り前

池田善蔵(元阪急ほか)が監督を務めていた尾道商業高校に入学、厳しい指導でエースとなる。

この頃、下関商業高校池永正明(のち西鉄)、北川工業(現府中東高)・高橋一三(のち巨人)、倉敷商業・星野仙一(のち中日)、松岡弘(のちサンケイ)、岡山東商平松政次(のち大洋)、関西高校森安敏明(のち東映)ら球史に名を残す名投手と山陽路で競い1964年春の選抜大会出場。ノーマークだったが、横手から変化球を操る小川の2完封などで決勝へ進出。相手は3完封で勝ち進んで来た尾崎将司(のち西鉄)がエースの海南高校。第1回大会を除くと史上初の初出場対決となった決勝は、初めて外野席の入場制限が出るほどの大人気となった。試合は尾道商業が7回までリードし小川曰く「尾道市内をパレードしている姿が浮かんだ」が、体は既に限界を超え、8回尾崎の三塁打などを浴び逆転負けを喫した。

その後早稲田大学から日本鋼管硬式野球部に進み、1972年ドラフト7位で読売ジャイアンツ(以下、巨人)入団。

[編集] 現役時代

2年目に12勝を記録するなど、V9時代末期から第一期長嶋巨人を支えた。特に独持のアンダースローで大洋ジョン・シピンをきりきり舞いさせる"シピン殺し"で有名だった。1977年に30歳で引退。

1978年、反骨心から単身渡米してメジャーリーグに挑戦。史上初の日本人メジャーリーガーである村上雅則は野球留学中にスカウトされたので、小川が初めて自らの意志でメジャーリーグに挑戦した選手となる。村上以降は誰も挑戦する選手は無く、周囲も暴挙と揶揄した。この時代、小川の挑戦は日本では全く報道されなかった。

2年間、独立リーグミルウォーキー・ブルワーズ傘下のマイナーリーグ(2A、3A)でプレー、メジャーには上がることは無かった。小川の後、日本プロ野球を引退してメジャー挑戦した日本人選手は、1985年の江夏豊がいるが、その後は野茂英雄まで10年のブランクが開いた。

1981年、日本に戻り、広島東洋カープで3年間プレー。その後メキシコに渡り、日本では、ほとんど馴染みのないメキシカンリーグで活躍した。

[編集] 引退後

その後、千葉ロッテマリーンズのコーチ(1994年-1995年)、韓国・三星ライオンズのコーチ、文化放送NHK衛星第1テレビジョン野球解説者日刊スポーツ野球評論家、メジャーリーグフロリダ・マーリンズ極東スカウトを経て、ピッツバーグ・パイレーツの極東スカウトを務めた。

またマスターズリーグにも参加しながら東京都内でシニアリーグの指導にもあたり、日刊ゲンダイと契約して巨人の記事にコメントを寄せていた。

現役時代から読書家として知られ、自宅にはサルトルなどの哲学書をはじめ、傾倒していた坂口安吾などの小説、また学術書や英語の書物が山積みになっていたといわれる。また、テレビの英語会話講座への出演経験もあるインテリで、野球選手にしては一風変わっていた。

2008年4月1日付で、大分県・柳ヶ浦高校で61歳にして新任の英語教師となる。福岡ソフトバンクホークス王貞治監督からは、スラングばかり教えるなよと釘を刺されたという。英語は高校時代から好きで、甲子園に出ていなければ商社に入って海外で仕事がしたかった夢を、今若い世代に伝えようとしているという。

2009年、九州総合スポーツカレッジ野球部のコーチに就任した。

[編集] エピソード

  • 小林繁が巨人に入って、小川に大人の遊びを教えてもらったと語っている。
  • 第1次長嶋巨人時代の1975年10月15日、対広島戦(後楽園球場)の9回表に大下剛史のバントをファウルと判断しボールを見送ったところ、深く守っていた王貞治の捕球が遅れ内野安打となる。ベンチに戻った小川はあるコーチと言い合いになり、試合中にも関わらずベンチ内で大ゲンカとなった(ちなみにこの試合は広島が初優勝を決めたゲームである)。この後も選手とコーチの大ゲンカがあると、この時の話が引き合いに出される事がある。
  • 根っこからの放浪癖があったともいわれ1978年、1ヶ月ほど英会話教室に通い「これでバッチリ」と渡米。変則投手の噂を聞きつけられ2A・バンクーバーで1年、3A・ホールヨークで1年プレーした。帰国後、歓迎会を開いてくれた高橋一三関本四十四小林繁ら"さい会"のメンバーらが待つ割烹に、ヒゲを蓄えソンブレロの帽子に革のブルゾンブーツを履いた小川がやってきた。「お前、そのままメキシコに行け!」と言われ、広島を解雇された3年後、本当にメキシコに行った。メキシカンリーグではアグアスカリエンテスでプレーした(プロ野球三国志 - 有本義明毎日新聞社、1992年7月)。
  • 巨人退団後にON砲をバックに投げられて幸せだったと語っている。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績

年度 球団














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1973 巨人 32 0 9 0 0 3 0 - 231 57 2/3 50 12 16 0 34 23 21 3.26
1974 42 2 14 3 1 12 4 0 417 102 1/3 86 15 38 4 73 44 43 3.79
1975 53 3 21 6 1 8 10 4 543 129 2/3 121 13 38 7 62 65 54 3.74
1976 36 0 13 1 0 3 2 1 282 68 2/3 71 13 13 3 32 28 25 3.26
1977 9 0 3 1 0 0 1 0 62 14 15 4 6 1 11 10 10 6.43
1981 広島 37 0 18 0 0 3 3 4 217 51 2/3 49 5 16 0 21 24 21 3.63
1982 27 0 3 0 0 0 0 0 100 25 2/3 24 3 6 0 12 15 15 5.19
1983 12 0 4 0 0 0 0 0 51 11 1/3 15 4 3 0 7 8 7 5.56
通算 248 5 85 11 2 29 20 9 1903 461 431 69 136 15 252 217 196 3.83

[編集] 背番号

  • 45(1973年 - 1977年)
  • 29(1981年 - 1983年)
  • 83(1994年)
  • 72(1995年)

[編集] 解説者として出演していた番組

[編集] 関連項目

最終更新 2009年6月28日 (日) 06:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【小川邦和】変更履歴

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