小田急3000形電車 (初代)

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小田急3000形電車(初代)
3000形SSE車(1991年、JR松田駅にて撮影)
3000形SSE車(1991年、JR松田駅にて撮影)
編成 8両(連接)→5両(連接)
起動加速度 1.5km/h/s→1.7km/h/s
営業最高速度 110km/h
定格速度 SE車時代:75km/h
減速度 4.15km/h/s(常用最大)
車両定員 (1・8号車)52人、(2号車)49人
(3・6号車)38人、(4・5号車)44人
(7号車)40人
→(1・5号車)52人、(2号車)44人
(3号車)36人、(4号車)38人
全長 (1・8号車)15950mm
(2~7号車)12700mm
→(1・5号車)16150mm
(2~4号車)12700mm
全幅 2800mm
全高 3450mm
車両質量 (1号車)24.87t、(2・7号車)17.19t
(3号車)16.00t、(4号車)16.28t
(5号車)15.13t、(6号車)15.75t
(8号車)24.34t
→(1号車)28.32t、(2号車)19.08t
(3号車)18.60t、(4号車)19.09t
(5号車)28.38t
軌間 1067mm
電気方式 直流1500V(架空電車線方式
モーター出力 100kW
主電動機 東洋電機製造製TDK-806/1-A
歯車比 3.71→4.21
制御装置 電動カム軸式直並列指定制御方式東芝製MCM
駆動装置 中空軸平行カルダン撓み板継手
台車 (電動台車)シュリーレン式近畿車輛製KD-17
(付随台車)シュリーレン式近畿車輛製KD-18
ブレーキ方式 電空併用電磁直通ブレーキ方式新三菱重工業製HSC-D
保安装置 OM-ATS
製造メーカー 日本車輛製造東京支店・川崎車輛
備考
第1回(1958年
ブルーリボン賞受賞車両

小田急3000形電車(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、小田急電鉄に在籍していた特急形車両ロマンスカー)。愛称は「SE(Super Express)」で、5両編成化後は「SSE(Short Super Express)」。1957年昭和32年)に8両編成3本(24両)、1959年に8両編成1本(8両)の計32両が製造され、1991年まで在籍。1958年鉄道友の会第1回ブルーリボン賞受賞。

本稿では大井川鉄道(現・大井川鐵道)の3000系電車(初代)についても記述する。

目次

[編集] 概要

1948年東京急行電鉄大東急)から独立した小田急電鉄は、「新宿駅小田原駅間60分運転」という目標をたて、小田原線の完全復興を目指した。

当初、小田急は、軌道や変電所の強化による「60分運転」を計画したが、地上設備の改良は時間と費用を要することから、1954年に、超軽量車体とカルダン駆動の採用を基本方針とする、新型特急車の製造を決定した。

その基本設計にあたっては、日本国有鉄道(国鉄)鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所)の技術協力を得ると共に、日本車輛製造や川崎車両(現・川崎重工業)などの車両製造メーカーおよび東京芝浦電気(現・東芝)や東洋電機製造といった電気機器の大手企業が、共同開発を行うという形式がとられ、当時の最新技術を惜しみなく投入した革新的な特急形電車として完成した。

本形式は新製直後の1957年9月には、第2編成(3011F)が当時の国鉄に貸し出され、同月27日に東海道本線函南駅熱海駅間で、当時の狭軌の鉄道における速度の世界記録(145km/h)を樹立し、その後の国鉄151系新幹線0系の開発にも大きな影響を与えた。

なお、流線形や連接構造等、その後の小田急ロマンスカーの雛形となった車両という事で、近年の文献などで「初代ロマンスカー」と記述されることが多いが、小田急電鉄は、「ロマンスカー」という語を箱根湯本駅まで乗り入れを開始した1950年8月1日より使用しており、その当時の特急専用車両は、1910形であった。また、「ロマンスカー」とは、「ロマンスシート」を腰掛として使用した車両のことを指し、かつて、小田急以外にも、京阪電気鉄道東武鉄道などでも愛称として使われていた。

連接構造等、インターアーバンとしてシカゴミルウォーキー間で運転されたエレクトロライナーの影響を受けたと言われる。また日本国内における高速鉄道用連接車として、唯一の前例であった西日本鉄道500形電車(1942年製造)についても、計画に先立ち関係者による視察が行われている。

[編集] 製造までの流れ

小田急は、製造に際し、次のような構想を立てていた。

  • 5両固定編成。
  • 終始、定員乗車を前提とする「特急専用車両」(一般車への格下げを行わない)として使用する。
  • 台車の重さを可能な限り削減し、超軽量車体とする。
  • 台車間の床下を可能な限り低くし、低重心化を行う。
  • 曲線をスムーズに走行するため、連接構造とする。
  • 編成の前後に、展望席を設置する。

このうち、終始「特急専用車両」であることと、超軽量車体、低重心化、連接車とするプランが採用され、設計が行われた[1]

車体構造を研究するため、3回もモックアップが製作されたが、斬新な設計構想に対して小田急社内では反対意見が続出し[2]、一時は開発がストップするという事態に陥った。しかしながら、国鉄が新宿駅~小田原駅~伊豆方面に対し、直通優等列車の運行を開始するという情報が入ったことから、1956年6月、当初のプランを拡大して8車体連接車として新造することが急遽決定された。

本形式の製造に際しては、1編成あたり1億5千万円とその調達費用が巨額となることから、住友信託銀行と車両メーカー2社による車両信託制度という新しい制度が創出され、初期投資に伴う資金調達を最小限に抑制することに成功した。この車両信託制度はアメリカのフィラデルフィアプランに倣ったもので、以後日本の鉄道各社が車両新造に利用することとなった。

製造は日本車輛製造東京支店・川崎車輛の2社が担当した。

[編集] 車体

流線型である3000形SEの先端部(2007年10月撮影)

空気抵抗軽減と軽量化、それに低重心化のため、車体断面を着席乗客と通路歩行に影響を及ぼさない範囲で極力縮小し、設計の工夫と軽合金の多用[3]で、普通鋼を用いながら極めて軽量かつ低重心[4]な張殻構造車体として完成された。

窓配置は両端の運転台付き車体がd1x13、中間車体がD1x11(d:乗務員扉、D:客用扉)で、中間車体は2,5,6号車が1号車寄り車端部に客用扉を設置し、3,4,7号車は8号車寄り車端部に客用扉を設置していた。客用扉は開閉頻度の低い特急車であることから、軽量化のためにドアエンジン搭載が省略されて内開き式の手動扉となっていた。なお、各車間の貫通路は開放感を演出するため、そして運転台付き車体の場合客用扉が無く、乗降時には必ず貫通路を通行する必要があったことなどから広幅とされ、車両間の仕切扉は一切設置されなかった。

本形式は画期的な軽量設計をもって8両分全長約108mの車体で147t[5]という驚くべき軽量化を実現したが、その代償として冷房装置の搭載が断念[6]され、換気は屋根上に設置された風洞を介して各車天井に6基ずつ設置された16インチ径ファンデリアを用い、側窓は1段上昇式のスチールサッシそして座席はリクライニングを諦めて軽量構造でシートピッチ1,000mmの回転式クロスシートを設置するなど、接客設備面では様々な妥協が行われており、特に空調設備の不備は、翌年に竣工した近畿日本鉄道10000系“VISTA CAR”が二階建て構造に加えて大きな2層構造の固定窓による眺望の良さと完全空調を謳い文句としてデビューを飾り、続いて国鉄20系(→151系)特急形電車も同様の設備で竣工したことから、ひときわ目立つ結果となった[7]。ただし、それでも小田急ロマンスカーの象徴の1つである「走る喫茶室」のための売店設備については、3号車と6号車の2箇所に2人掛け座席3脚分のスペースを確保して設置してあった。

本形式をもっとも強く印象付けた流線形の前頭部形状は、当時の国鉄鉄道技術研究所の協力により、風洞実験を繰り返して空気抵抗を可能な限り減少させることを目的としてデザインされており、これも当時鉄道技術研究所に在籍した旧海軍空技廠出身の航空技術者たちのノウハウが盛り込まれたものであった。正面下にスカートがあるが、これは軽量な故、空気が床下に流入すると揚力により浮き上がり脱線転覆することを警戒して取り付けられたもので、やはり航空技術の応用である。

この流線形の採用で運転台部分の奥行きは2.5mと大きく取られたが、絞り込まれてもいるため、運転台はそれほど広くはなく、各種機器が密集して搭載されていた。なお、高速走行時のバードストライク問題を危惧してか、新造時は前面計器板上に防弾ガラスを設置してあった。前照灯は、鉄道車両として初採用となるシールドビーム2灯とし、高速運転時に十分な照度の確保を図っている。

また、設計当初は在来と同じ配色の外部色が検討されたが、前例のない高速運転を実施する車両であることから、警戒色としてオレンジ系統を基調とする新たな塗装の採用が決定され、そのデザインを当時秦野在住の画家宮永岳彦に依頼し、彼の提案によるオレンジバーミリオンにシルバーグレーのツートンを基調とし、白帯を配したものが採用された。以後、この塗装は、小田急ロマンスカーのシンボルカラーとなり、3100形NSE7000形LSEまで3代に渡って継承された[8]

このほか、日本初の試みとして、音響心理学研究所の意見と高速走行時の近接警報として日本放送協会テレビ番組NHKのど自慢の合格の鐘の音をヒントにし、エンドレステープに録音したビブラフォン調メロディを、屋根上に装備した指向性の高いスピーカーから流す「補助警報機」を初めて採用した。ただし、当時はテープの質があまり良くない上に使用頻度が多いため劣化が激しく、のちに発振装置による音源に変更された。なお、本形式が一部で「オルゴール電車」と呼ばれるのは、このミュージックホーンに由来している。

[編集] 主要機器

[編集] 電装品

主電動機は東洋電機製造TDK-806/1-A[9]、駆動方式は中空軸平行カルダン[10]、そして制御器は東芝MCM[11]を3基搭載し、電動台車は9台車中6台車、付随台車は両先頭部と4~5号車間となっていた。

主回路構成は、第1次車については当初計画の影響で5車体連接での使用が可能な設計で、実際にも5車体で運用されたことがあったが、第2次車(3031F)では回路簡略化のため、8車体固定編成仕様に変更された。

台車数で見た場合のMT比は6:3(SSE化後4:2)であり、起動加速度は1.5km/h/s(SSE化後1.7km/h/s)とされた。

[編集] 台車

3000形の連接部(2007年10月撮影)
3000形の連接台車・KD-17(2007年10月撮影)

台車は軽量設計であることを重視して近畿車輛KD-17(電動台車)・18(付随台車)シュリーレン式台車が採用され、前述の通り各車体間は連接台車とされた。これらは電動台車と付随台車で軽量化のために軸距が違えてあり、前者は2,200mm、後者は2,000mmで、車輪径も縮小されて840mmとされた。こうした様々な努力により、台車の自重は前者が3.8t、後者は3.6tとなっていた。これらはいずれも揺れ枕吊りが線路方向にスイングする、短リンク式と呼ばれる近畿車輛製シュリーレン式台車の第1世代に属する製品[12]であり、揺れ枕吊りのスイング方向の関係からか枕木方向の揺動特性が思わしくなく、枕バネがコイルバネであったためもあって、走行特性はともかくその乗り心地は今一つと評価された。なお、付随台車のブレーキには、川崎車輌の提案により、停車の時の安全性を確保するために日本の鉄道車両としては初のディスクブレーキを採用した。

[編集] ブレーキ

デハ2200形で初採用され、既に実績を積んでいた、新三菱重工業HSC-D電空併用電磁直通ブレーキを採用した。電動台車は両抱き式、付随台車はディスクブレーキで、電動台車は発電ブレーキを優先使用することでフラット発生の原因となる踏面ブレーキの使用を最小限に抑制する仕様となっており、これにより減速度4.15km/h/sを確保した。

[編集] 編成

車両番号は新宿方から3001-3002-3003…3008のように付番され、第2編成以降は順に3011…、3021…、3031…となった。

各車両の自重、最大長および定員は次の通りである。

  • 1号車:24.87t・15950mm・52名
  • 2号車:17.19t・12700mm・49名
  • 3号車:16.00t・12700mm・38名
  • 4号車:16.28t・12700mm・44名
  • 5号車:15.13t・12700mm・44名
  • 6号車:15.75t・12700mm・38名
  • 7号車:17.19t・12700mm・40名
  • 8号車:24.34t・15950mm・52名
  • 合 計:146.75t・108100mm・354名

[編集] デビュー・狭軌世界最高速度達成へ

車内に掲げられているブルーリボン賞受賞記念プレート(2007年10月撮影)

3000形は1957年7月6日より営業運転を開始し、従来とは全く異なる車両として社会の目を釘付けにした。事実、本形式が充当される特急の特別急行券は即日完売し、利用者からは「乗りたくても(特別急行)券が取れない」という苦情が、小田急にも寄せられた程であった。

また、第2編成(3011F)は、小田急が「曲線の多い小田急線よりも、線路条件の良い東海道本線を使い、高速走行試験をしたい」という意向を国鉄に示したところ運転局が快諾し、国鉄に貸し出されて[13]高速走行試験が行われ、9月27日に、当時の狭軌世界最高速度である145km/hを達成した。


また、翌1958年1月29日には、鉄道友の会より、1958年第1回ブルーリボン賞を授与された。なお、ブルーリボン賞は、本形式の優秀さに対し、同会が、鉄道趣味の見地から何らかの形で表彰をしようとしたことに由来しており、本形式こそが「鉄道友の会ブルーリボン賞」創設のきっかけを作ったといえる。

[編集] SSEへ

1968年国鉄御殿場線電化に伴い、1955年から気動車キハ5000・5100形)で運転されていた直通特別準急を電車に置き換えるため、小田急は、SE車をSSE(Short Super Express)車と呼ばれる5両編成への改造を実施した[14]

従来の8両4編成(32両)は、以下のように5両6編成(30両)に組み替えられた。なお、数字はSSE車になってからの新番号、(この書体の数字)はSE車時代の旧番号である。

  • SSE第1編成:3001(3001)-3002(3002)-3003(3006)-3004(3007)-3005(3008)
  • SSE第2編成:3011(3011)-3012(3012)-3013(3016)-3014(3017)-3015(3018)
  • SSE第3編成:3021(3021)-3022(3022)-3023(3026)-3024(3027)-3025(3028)
  • SSE第4編成:3031(3031)-3032(3032)-3033(3036)-3034(3037)-3035(3038)
  • SSE第5編成:3041*(3015)-3042(3005)-3043(3013)-3044(3004)-3045*(3014)
  • SSE第6編成:3051*(3035)-3052(3025)-3053(3033)-3054(3024)-3055*(3034)

なお、SSE車の車両番号の『*』は、中間車を先頭車に改造した車両を示す。また、この5両編成化に伴い、余剰となった30033023は、廃車となった。

SSE車では6台車中4台車が電動台車とされ、付随台車は2~3号車間及び3~4号車間となり、3号車は付随車となった。

SEカラーリング(左)とSSEカラーリング

また、重連運転の対応のための連結器や、3100形に準じた大形の電照愛称表示器の装備により、先頭形状は大幅に変更され、従来の流麗な印象から、ややいかつい印象となった。この改造にあたってはフランス国鉄・SNCFTEE車両「x2700形」のデザインを参考にしたともいわれている。また、SE車時代の面影を残しつつ、側面は乗務員室の後から始まって側面窓下部から裾までのオレンジが灰色に変更され、3100形の側面に準じた配色としている。ただし、本形式の車体側板にはビードがあるため、白の3本線は入っていない。正面は愛称表示器の下からV字形の白いラインで強調されている。

同時に、冷房装置を、床置タイプから天井に取付ける屋根上分散タイプに変更した。

この他、御殿場線乗り入れの関係で、ATS-S信号炎管などの新設、歯車比の変更(3.71→4.21)、車輪径の変更(840mm→860mm)が行われ、車内では喫茶カウンターの客席からの分離および男性用小便所が新設された。

なお、改造後の各車両の自重、最大長および定員は次の通りである。

  • 1号車:28.32t・16150mm・52名
  • 2号車:19.08t・12700mm・44名
  • 3号車:18.60t・12700mm・36名
  • 4号車:19.09t・12700mm・38名
  • 5号車:28.38t・16150mm・52名
  • 合 計:113.47t・70400mm・222名

[編集] 廃車・保存

海老名電車基地にて保存されている3000形(新宿方・SEデザイン復元)
海老名電車基地に保存されている3000形(小田原方・SSEデザイン)

SSEとなった後は、連絡急行「あさぎり」の他、小田急線内特急にも充当されていた。小田急線内では、多客時に2編成を連結した運転も行われ、その際には編成を区別するため『A編成』と『B編成』と呼称し、乗客が乗り間違えないように工夫された。また、最終期に「あさぎり」でも修学旅行を中心とした団体客があったことから2編成を連結した運転も実施された(冒頭の画像)。

1980年7000形LSEが就役開始し、1983年に4編成が揃うと、小田急は余剰となる本形式を経年の順に淘汰し、その後御殿場線乗り入れ専用車を新造して残り全車を置き換える計画を立てた。

その計画に従い、第1編成(3001F)は廃車となり、そのまま大井川鉄道に譲渡され(大井川鉄道での動態保存参照)、狭軌最高速度のレコードホルダーであった第2編成(3011F)も廃車解体されたが、その頃には乗り入れ先の国鉄において、長年の慢性赤字による国鉄改革の議論が台頭しつつあったことから、本系列を1対1で代替する御殿場線乗り入れ専用車の新造は困難な状況となっていた。

このため、社内でも反対論が根強く存在していたが、車齢25年を越えた本形式を更新修繕して、当面の間引き続き連絡急行運用に充当することとなった。

これに伴い、残された4編成[15]は、冷房時の外気遮断効果の向上のために側窓の固定化・冷房装置カバーのFRP化・座席モケットの変更[16]・天井や内張りなどの張り替え・乗降扉の電磁ロック装置設置・を7000形と同様のものへの交換などといった近代化工事が行われた。

その後、国鉄が分割民営化され、JRとなると、小田急は、御殿場線を管理する東海旅客鉄道(JR東海)との協議により、「あさぎり」の沼津駅までの乗り入れ延長と相互乗り入れ化、および両者で共通性を持たせた特急車両(20000形RSE・JR東海371系)を新造することが決定し、この20000形RSEの就役開始により、本形式は全車廃車されることとなった。

こうして1991年3月15日、「あさぎり8号」(御殿場駅→小田急線新宿駅)をもって本形式による定期運用が終了し、さらに翌年1992年3月8日の検査期限切れ直前に、新宿駅~唐木田駅間にて「さようなら3000形走行会」が実施され、本形式は全車廃車となった。

その後、3031F・3041F・3051Fの3編成は解体されたが、残存各編成中で最若番であった3021Fについては歴史的・技術資料的価値が認められ、保存の処置が取られた。

海老名電車基地にある保存庫と3000形「SE」

こうして3021Fは5両編成のうち新宿方2両は、登場時(SE)の形態および塗装に復元、残る3両も整備を実施し、1993年3月20日より海老名電車基地にて、静態保存となった。保存庫は屋根付きで、空気流通用換気扇まで設けられており、15年以上経た現在も保存車両は内外ともに非常に良い状態が保たれている。

なお、同編成は毎年10月に実施されるファミリー鉄道展で、保存庫の一般公開が行われ、車内見学も可能である。また、2007年度のファミリー鉄道展では、保存後初めて屋外に出されて展示された。

[編集] 大井川鉄道での動態保存

1980年代に廃車された2編成のうち、第1編成の3001Fは、1983年4月に大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ動態保存のために譲渡された。

譲渡にあたっては、3両編成への短縮も検討されたが、技術的な問題で断念し、5両編成のままで譲渡された。譲渡後、小田急時代は騒音問題から使用が中止されていたメロディホーンを復活させたほか、喫茶カウンターはそのまま残され、緑茶の販売が行われた。[17]また電動車の記号は「デハ」から「モハ」に改められた。

大井川鉄道では大井川本線にて電車急行運用(列車名は「おおいがわ」・「あゆの里」)に就いていたが、当初危惧されたように5両編成では輸送力が過剰であったことや、固定編成のしかも連接車であったため、定期検査時に通常の車両とは比較にならないほどの手間を要したこと、経年劣化で冷房装置が不調気味であったことが重なり、更には1984年から大井川本線で開始されたワンマン運転化に構造上対応が困難であったため、年数が経つにつれて運用の機会が減少してゆき、譲渡から僅か5年後の1988年には運用から外された[18]。その後は千頭駅に留置されていたが、長らく放置されたため車体が大幅に腐食してしまい、1993年3月31日に解体処分された[19]

現在では車体こそ現存しないものの、内外装の一部が千頭駅のSL資料館に保存・展示されている。

[編集] 歴史

  • 1957年5月30日 第1~3編成(3001F・3011F・3021F)車両設計認可。
  • 1957年6月22日 第1・3編成(3001F・3021F)竣工。
  • 1957年6月27日 「3000形SE展示会」を実施。
  • 1957年7月6日 第1・3編成(3001F・3021F)就役。
  • 1957年8月9日 第2編成(3011F)竣工。
  • 1957年9月20日28日 第2編成(3011F)が日本国有鉄道へ貸し出される。(9月20日は藤沢駅平塚駅間、9月21日26日大船駅~平塚駅間、27日~28日は函南駅沼津駅間にて運行)
  • 1957年9月27日 日本国有鉄道東海道本線函南駅~熱海駅間にて、当時の狭軌世界最高速度、時速145キロを樹立。
  • 1957年10月1日 第2編成(3011F)就役。
  • 1958年1月29日 3000形SEが1958年第1回鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。
  • 1959年2月18日 第4編成(3031F)車両設計認可。
  • 1959年2月27日 第4編成(3031F)就役。
  • 1959年3月2日 第4編成(3031F)竣工。(関係各所への竣工届の提出が、就役よりも遅かった。)
  • 1963年3月3日 臨時スケート特急「白銀号」を運行。
  • 1967年7月2日 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第2編成(3011F)竣工および就役。
  • 1967年12月2日 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第5編成(3041F)竣工。
  • 1967年12月6日 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第1編成(3001F)竣工および就役。
  • 1967年12月9日 3000形SSE、第5編成(3041F)就役。
  • 1968年3月7日 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第4編成(3031F)竣工および就役。
  • 1968年3月13日 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第6編成(3051F)竣工。
  • 1968年3月19日 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第3編成(3021F)竣工および就役。
  • 1968年3月29日 3000形SSE、第6編成(3051F)就役。
  • 1968年3月30日 御殿場線乗入用の5両編成化工事にて過剰となった、3003・3023号車が廃車。
  • 1968年7月1日 日本国有鉄道御殿場線への直通運転開始。
  • 1982年7月25日 向ヶ丘遊園でのイベントの関連企画として、新宿駅向ヶ丘遊園駅間で、女優伊藤つかさ車掌となって乗車する団体列車「你好(ニイハオ)つかさ号」が運行される。
  • 1983年3月30日 第1編成(3001F)廃車。大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ譲渡。
  • 1983年4月 大井川鉄道3000形として第1編成(3001F)就役。ロマンス急行「おおいがわ」・「あゆの里」として、大井川本線にて運行開始。
  • 1983年7月 新宿駅~片瀬江ノ島駅間で、団体列車「め組EXPRESS」が運行される。
  • 1984年8月9日 第5編成(3041F)の車体修繕工事実施。
  • 1984年10月14日 第6編成(3051F)の車体修繕工事実施。
  • 1985年1月17日 第4編成(3031F)の車体修繕工事実施。
  • 1985年3月27日 第3編成(3021F)の車体修繕工事実施。
  • 1987年3月27日 第2編成(3011F)廃車。
  • 1987年7月1日 1~3号車に禁煙車が設置される。
  • 1991年3月15日 定期列車から退くにあたり、新宿駅にて記念式典挙行。
  • 1992年3月8日 新宿駅→唐木田駅間で、「さようなら3000形走行会」実施。
  • 1992年3月31日 第3~6編成(3021F・3031F・3041F・3051F)廃車。
  • 1992年11月10日 大野工場に、3000形SSEの記念モニュメントを設置。
  • 1993年3月9日 第3編成(3021F)を大野工場にて静態保存用工事を実施。うち、新宿方2両が、登場当時のSEの姿に戻される。
  • 1993年3月16日 静態保存用工事を実施した第3編成(3021F)を海老名車両基地に回送。
  • 1993年3月20日 第3編成(3021F)を海老名車両基地内の保管庫へ搬送。静態保存へ。
  • 1993年3月31日 大井川鉄道に譲渡された第1編成(3001F)が廃車される。
  • 2007年10月20日21日 ファミリー鉄道展2007の開催に際し、14年ぶりに保存庫より出され、一般公開。

[編集] 脚注

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  1. ^ 開発の段階では3100形のように上に運転室を設置するプランや、二階建て車両とするプランも検討されたが、これらは低重心・超軽量車体による高速運転という基本コンセプトとの両立が困難であり、また前面展望席は衝突時の安全性確保の問題もあったため、本系列では採用が断念された。但し、展望席は本形式の直接の後継車である3100形において採用され、以後70001000050000と続く小田急ロマンスカーの本流である連接車シリーズに継承され、二階建て構造も後に20000形に採用されて日の目を見ている。
  2. ^ 特に連接車であることに対して保守陣から強硬な反対意見が出されたとされる。
  3. ^ 側窓部は上部が4°内傾し、台車部および連結面付近の台枠側梁がある部分のみ床面が125mm持ち上げられる(持ち上げ部から第1座席までの間をスロープでつないで円滑な歩行を可能としている)など、車体断面形状には工夫が凝らされ、各部を4.5mm以下の薄鋼板で構成すべく、プレス加工によりビードを形成して強度を確保した外板や、プレス加工で丸穴をあけて軽量化を徹底した桁材、内装へのアルミ材の多用など、その軽量化には航空機設計のノウハウがフルに活かされていた。
  4. ^ 定員乗車時の重心位置は軌条上面から1mとなるよう計画されていた。
  5. ^ 在来車の中でも軽量化が図られたカルダン駆動のデハ2300形特急車でさえ、4両編成(全長70m)の自重が135tであったから、劇的な軽量化であった。
  6. ^ 当初は設置が検討されたが、床下のスペースが限られることが問題となり、屋根上搭載や一時は冷媒ドライアイスや氷を用いることも真剣に検討されたものの、ドライアイス・氷の使用は折り返し駅となる箱根湯本駅での冷媒確保・補充が至難であるとの理由で却下され、冷房装置の屋根上搭載も重量の増加と低重心が損なわれるという理由で見送られた。このため、換気装置としてファンデリアが採用されている。
  7. ^ 近鉄は前代の特急車である2250系(大阪・山田線用)と6421系(名古屋線用)で既に川崎重工業KM-7集中式冷房装置を導入しており、特急車への冷房設置が当然という状況にあった。これに対し、小田急は既存特急車に対する冷房設置を実施しておらず、その接客サービスに対する姿勢の差が表面化したものであった。なお、本系列においても1962年に床置式の冷房装置が追加設置されたが、これに伴い自重が編成全体で14t増え、座席定員が32名減となった。
  8. ^ この塗色はロマンスカーに接続する箱根登山鉄道の車両の標準色ともなった。また7000形LSEについては、後日更新工事を施工した際に全編成が10000形HiSEに準じた塗装に変更されている。なお、2008年現在7000形は1編成(7004F)が登場時のオレンジバーミリオンの塗装となって運行されている。
  9. ^ 端子電圧375V時定格出力100kW/1,800rpm 300A、最弱め界磁率50%、最高回転数4,320rpm。最弱め界磁率以外は国鉄MT46に近似したスペックであり、外形寸法もほぼ同一であるが、自己通風式のMT46と異なり、こちらは自己通風とファンブロワーによる強制通風を直列で使用する設計となっており、自重も60kg重い。定格速度は75km/h、最高回転数時の理論最高速度は180km/hとなる(車輪研削を考慮しない場合)。
  10. ^ 駆動装置は東洋電機DND143-SH9921、歯数比は3.71。
  11. ^ 東芝とゼネラル・エレクトリック(GE)社との技術提携によって導入された、MA→PC→PCMと続いたGE社系自動加速制御器の掉尾を飾る電動カム軸式自動加速制御器。力行17段(永久直列14段、弱め界磁段3段)、電制17段(界磁3段、抵抗14段)で、いずれも並列段を持たないが、これは特急車ゆえに起動加速の回数が少ないことを考慮して、制御器1基が担当する2台車分4基の主電動機を永久直列接続として主回路を単純化したためである。
  12. ^ この時点では小田急がその後長く愛用することになる住友金属工業製アルストーム・リンク式台車は未完成で、曲線通過特性が良好でかつ高速走行に対応可能な新型軽量台車の選択肢が他になかったことから、シュリーレン式台車が採用された。
  13. ^ 形式上は国鉄側が小田急電鉄に対し貸し出しを要請した形にして、私鉄電車を試験に使用することに対する国鉄部内での反対論が封じられた。
  14. ^ 当初、小田急は短編成の専用車を新造する計画を立てていたが、国鉄の意向から、本形式を改造の上で充当することとなった。
  15. ^ 3021F・3031F・3041F・3051F。
  16. ^ 7000形に準じた色調に変更。
  17. ^鉄道ファン』No.267 交友社 1983年7月号 46~47頁 大井川鉄道に小田急電鉄のSE車登場 を参考。
  18. ^ 千頭駅のSL資料館の説明文より
  19. ^ 元来歴史的車両の動態保存のモデルケースとして譲受したものであったため、小田急電鉄にて第3編成(3021F)の保存が決定されるまで解体に踏み切れなかったとされる。(参考文献4・5)

[編集] 参考文献

  1. 鉄道ピクトリアル』 アーカイブスセレクション1 小田急電鉄 1950~1960 2002年 鉄道図書刊行会
  2. 『鉄道ピクトリアル』 アーカイブスセレクション2 小田急電鉄 1960~1970 2002年 鉄道図書刊行会
  3. 週刊鉄道データファイル』 第100巻 10-14頁 2006年 デアゴスティーニ・ジャパン
  4. 『週刊鉄道データファイル』 第128巻 128-13頁 2006年 デアゴスティーニ・ジャパン
  5. 『鉄道ピクトリアル』 No.436 1984年9月号 <特集> 大井川鉄道 1984年 鉄道図書刊行会
  6. 『私鉄車両編成表93年版』 1993年 ジェー・アール・アール

[編集] 外部リンク

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月2日 (月) 12:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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