小野妹子
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小野 妹子(おの の いもこ)は飛鳥時代の政治家。姓は臣。子に小野毛人[1]。『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた[2]。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。名は「妹子」とあるが 男性である(当時は「子」が男女問わずに用いられた)。生没年不詳。
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[編集] 概要
『日本書紀』(巻第二十二)によれば、推古天皇15年(607年)、鞍作福利らと大唐に渡る。推古天皇16年(608年)に裴世清を伴って帰国、ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失し、(紛失に関しては諸説あり、[誰?]とても見せることが出来る内容ではなかったからであるとする説もある)一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。 翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された。
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝(ようだい)が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある[4]。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。
小野妹子は「華道の祖」とされることがある[5]。
[編集] 墓
小野妹子墓は大阪府南河内郡太子町の科長神社(しながじんじゃ)南側の小高い丘の上にある。
小野妹子公園(滋賀県大津市小野)そばの唐臼山古墳(からうすやまこふん)[6]を小野妹子の墓とする説がある。唐臼山古墳南方の古墳は妹子の父[7]の墓である可能性が指摘されており、大津市教育委員会による事前調査が行われたものの破壊され現存しない。
[編集] よくある誤解
古代の日本の人名の最後に「~子(あるいは古)」と付ける表現は男性名についても珍しいものではなかったが、明治以降になり日本では「~子」は女性名の最後に付ける文字の定番となった。このため、現代では一見すると小野妹子を女性の名前のように感じてしまうが、先述のとおり男である。また、「妹」という字が使われているのも誤解を助長する原因と言える。
ただし、男性名に“妹”の字を使ったのかは、今も誰も明確な答をだしてはいない。そもそも「妹」とは、かつては「いも」と読み、男性からみた同腹の女性の他、恋人や妻などの親しい女性全般を指す言葉であった。
[編集] 脚注
- ^ 小野妹子の子である小野毛人の墓は江戸時代に京都市左京区上高野の崇道神社裏山で発見され、石室から墓誌(国宝 金銅小野毛人墓誌)が発見されている。
- ^ 『日本書紀』巻第二十二推古天皇十六年には「唐国号妹子臣曰蘇因高」とある。
- ^ 小野氏は和珥氏の同族。小野氏の人物として小野岑守、小野篁、小野道風、小野小町など。
- ^ 『日本書紀』は随を大唐国と記し、国書の内容を記録していない。
- ^ 京都市の紫雲山頂法寺(本堂の名から通称「六角堂」)の本坊にあたる池坊(聖徳太子が沐浴した池(泉)にちなんだ名)の僧侶は六角堂の本尊如意輪観音に花を供えていた。池坊の始祖は小野妹子と伝えられることから、小野妹子は華道の祖とされることがある。
- ^ 埋蔵文化財学習シート 唐臼山古墳(からうすやまこふん)
- ^ 『尊卑分脉』、『諸家系図』は小野妹子の父を敏達天皇の息子、春日皇子としている。『新撰姓氏録』は小野朝臣を皇別とする。
[編集] 関連項目
- 小野氏
- 小野篁 - 遣隋使小野妹子の子孫で遣唐副使
- 増田こうすけ『増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和』(集英社/ジャンプ・コミックス、2000年-)現在ジャンプスクエアにて連載中。ジャージ姿の妹子と、聖徳太子を中心にストーリーが進む。
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月20日 (金) 11:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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