小野組
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小野組(おのぐみ)は、初代小野善助に始まり、「井筒屋」を名乗った江戸時代の豪商。糸割符商人。数多くあった分家との区別を図るために、その名前から特に「善印」とも称す。
盛岡開府にあわせ南部藩に移り、南部氏の城下町盛岡(岩手県盛岡市)で広く活躍した、江州大溝(滋賀県高島市)出身の、近江商人団の一派である。2代目は叔父村井権兵衛を頼り、村井姓を名乗る。京や大坂など上方の下り物を扱い、奥州の産金などとの物流を通じて財を成し、のちには明治政府樹立のための資金を援助するなどして、政府為替方としての確固たる地位を固めた。
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[編集] 小野組転籍事件
明治3年(1870年)、小野屋が本社機能を京都から江戸へ移そうとしたところ、長州藩出身で京都府権大参事の槙村正直によって為替業務に制限[1]を受けた。この制限により小野屋の業務は支障をきたすようになり、小野屋は少しでも業務を簡潔にするために分家三社と合併、以後、小野組と名称を変える。
それでも業務の煩雑さは解決されなかったことから、明治6年4月に小野組は京都府庁へ転籍を申し出るに至った。小野助次郎は神戸へ、小野善右衛門は東京への転籍を希望したが、京都府庁はその届出を処理しなかった。小野組は当時、すでに全国28の支店を持つ大商人であり、租税収入の減少と献納金の喪失は京都府には受け入れがたかった[2]。神戸への転籍が受け入れられなかった小野助次郎はやむなく京都裁判所に「送籍命令」を出すよう訴え、小野善右衛門もそれに続いた。当時の明治政府は封建体制の範である移動の禁止を否定していたことから、戸籍制度を導入するにあたって移転の自由は認められていた[3]。しかし、京都裁判所は京都府への遠慮から、訴訟を受け取りながら裁判を行おうとはしなかった。この行政と司法の癒着に激怒したのは司法卿江藤新平だった。担当の裁判官は更迭され、代わって派遣された北畠治房は小野組の戸籍の送付を命令したが、これでも問題は解決しなかった。
当時、京都府において長州閥が形成されており、京都府および知事長谷信篤、大参事槇村正直は命令に対して、政府に伺いをたてている途中だからと裁判所の命令に服そうとはしなかった。京都裁判所はこの京都府の対応を見て、受け入れを迫るとともに命令に服さない場合は六円の賠償金を知事と大参事に納付するよう命じる。それでもなお、京都府は前回と同様の理由で速やかな対応を拒否した。さらに征韓論を巡る一連の事件によって江藤新平が下野するにおよび、事態はますます膠着状態に陥りつつあった。
しかし、その法を無視した京都府の対応に、明治政府から疑問の声が上がる。長州出身の文部卿木戸孝允だった[4]。木戸は知事長谷信篤に裁判所の命令に従うよう説得を始めた。京都裁判所の北畠治房もより厳しい態度で京都府に臨むようになり、明治6年12月31日、知事へ対して懲役100日もしくは贖罪金40円、大参事に対しては懲役100日もしくは贖罪金30円という命令を再度下し、両者がこれを守らないと見るや、大参事槇村正直が東京に出た機に身柄を拘束、ついに収監に至った。知事長谷信篤は司法の強硬な手法に動揺。ついに木戸の説得を受け入れ、翌明治7年、ようやく送籍手続きがとられて小野助次郎、小野善右衛門両名の希望は叶った。
[編集] 小野組製糸場(築地製糸場)
明治4年(1871年)、小野組が設立した日本で初めての製糸場。横浜での生糸貿易に多大な影響を与えた。
[編集] 三井小野組合銀行
明治5年(1872年)、渋沢栄一の仲介によって、三井組と共同で「三井小野組合銀行」(第一国立銀行の前身、現在のみずほ銀行)を設立するが、三井組は独自に金融機関(三井銀行の前身、現在の三井住友銀行ほか)を設立、三井組は規模を拡大したが、小野組は担保額の引き上げなどの一方的な金融政策の急変によって破産した。
[編集] 小野組と江戸
江戸の小野組は、日本橋本石町(現日本銀行敷地内)に為替会社を置き、日本橋田所町に油店を持っていた。
[編集] 小野組と盛岡
盛岡の小野組は、現在の盛岡市肴町(旧呉服町)、「岩手酒類卸株式会社」の地にあった。現在も当時の煉瓦塀の一部が残されている。また、みずほ銀行盛岡支店に隣接して、当時の蔵が一棟のみ残されている。小野組の破産後、政府為替方として「国立第一銀行盛岡支店」が開かれると、支店長には渋沢栄一の従兄で義兄である尾高惇忠が配されたが、この銀行も破綻した。代わって同じく渋沢が設立に関与した「国立第七十七銀行(現七十七銀行)」を盛岡に斡旋、岩手県の公金が隣県の宮城県を本拠にする銀行へ流れることに反対して、地元有力者によって「盛岡銀行」が設立された。小野組の系譜を引く小野慶蔵は、「国立第九十銀行」取締役の任にありながら、旧「岩手銀行」を設立した。なお、盛岡小野組が輩出した人物は次の通り。
- 古河市兵衛 - 豆腐行商に始まり盛岡小野組に奉公し、破産後は古河鉱業を興した。富士電機、富士通、ニフティの遠祖。
- 葛西重雄 - 古河市兵衛の下で足尾銅山ほか鉱山事業に参画。のちに岩手銀行頭取。東京駅を設計した葛西萬司の義父。
なお、刑法学者小野清一郎も、小野組の系譜を引く者の一人である。




