小金牧
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小金牧(こがねまき)は、江戸幕府が現在の千葉県北西部の北総台地に軍馬育成のため設置した放牧場である。
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[編集] 概要
5つの「牧」により構成され小金五牧の通称もあった。江戸時代以前からの牧を継続する形で慶長年間に設置され1869年(明治2年)まで存続した。
幕府の牧には千葉県中央部に小金牧と共に下総牧と総称される事もあった佐倉牧、県南部に嶺岡牧、駿河に愛鷹牧があった。ただし、設置時期が違う牧もある。小金牧に関しては青木更吉が第一人者で、著作に詳しい記述がある他、地元の研究家の調査がある。
[編集] 沿革
古くから千葉県北部は軍馬育成の地として知られ『延喜式』にも記述がある。諸国牧参照。鹿島神宮・香取神宮との歴史的地理的関係ともあわせ、起源は「蝦夷」征伐時の前線への軍馬の供給にさかのぼると推定される。香取市側高神社の神が東北地方で捕えた馬を神社周辺で放したとの伝説があり、松戸市に同じ読みの蘇羽鷹神社がある。『和名抄』に葛飾郡厩戸の地名がある。
平将門も同地域に関係が深い。
『平家物語』・宇治川の先陣争いの「池月」(生食)も同地域産で国道6号と国道16号が交差する柏市「呼塚」は同馬を呼んだ塚に因む、同馬が松戸市高塚(現高塚新田)に葬られたとの伝説があるが、同様の話は埼玉県等にもある。また、同地域は千葉相馬氏発祥の地で、相馬野馬追の相馬にも小金牧と共通する野馬土手(後述)等の遺構がある。
以前から牧が存在したため、牧を管理した世襲の牧士頭、後の野馬奉行も、同地域の旧領主・小金城主相馬一族の高城氏の旧臣で同族の綿貫夏右衛門が任命された。牧士については後述する。 同様に半野生の馬、野馬がいる牧を引継いだため、特定は難しいが、幕府による正式な設置は1614年(慶長19年)、綿貫夏右衛門が牧士頭に任命された時と考えられる。任命は徳川家康直々で、四月朔日・一日と書いて「わたぬき」と読む姓があるため、旧暦4月1日という伝承がある。『徳川実記』等によると、同時期、家康は東金方面に度々出向いており、直々の任命もあり得る一方、期日の特定は難しい。明治39年の貴族院議員三橋彌による新聞掲載の解説を転載した大正12年の『千葉縣東葛飾郡史』(以下東葛飾郡史)に慶長9年とあるが、他にも同書だけの記述や地名の誤植があり、誤植の可能性が高い。牧士を務めた家柄の一つが三橋家で、旧鎌ヶ谷村の村長も輩出している。
牧の範囲は享保期以前は広範囲に及ぶやや曖昧なもので、場所の変遷、享保以降の牧内での新田開発・耕作もある。
享保期まで、牧士頭は小金牧と佐倉牧を管轄した。初期は高城氏の旧臣、後に地元の名主等を取り立て任命した牧士頭、後の野馬奉行配下の現地役人は牧士(もくし)と呼ばれ、武士待遇で、苗字帯刀乗馬とその格式の他、野犬等から馬を守るための鉄砲の所持携行も認められた。牧士は文武天皇の代に設けられた職制・身分(東葛飾郡史)で、呉音訓である事も古い起源を裏付ける。当地域での任命は北条氏政の時代、牧士が廃されたのは明治5年である。
江戸時代初期には、七牧が存在したが享保の改革以降、代官小宮山杢之進により、統廃合が行われ、野田の庄内牧は廃止、鎌ヶ谷の一(壱)本椚牧は中野牧に統合され、現・柏から船橋・白井にかけ、北から順に高田台牧、上野牧・中野牧・下野牧、やや東の印西牧の五牧となった。牧の名称は寛政期の代官岩本石見守の命名による。 牧士頭が野馬奉行となった。
水田のない畑作新田も含め新田開発も行われ、牧に新田が近接する結果となり、新たに野馬土手が築かれた。牧内でも開発が行われ、新田と入り組んだ所も多い。この時築かれた物を新土手、新堀、新木戸等と呼ぶ。 享保以降、中野牧・下野牧は松戸市陣屋前の金ヶ作陣屋の管轄、御小納戸頭取支配となった。中野・下野牧と佐倉牧の佐倉藩預となった牧以外の牧を野馬奉行が管轄した。 牧も含め一帯は徳川将軍家・水戸家の鷹狩場であり、水戸侯の捕馬見物の記録もある(柏市史)。
馬は牧別に焼印が定められ管理された。松戸市立博物館等に展示の焼印は高田台牧が琴柱(千斤)、上野牧が笠、中野牧が千鳥(飛鳥)、中野御囲が木瓜、下野牧と神保入御囲が輪違(重輪)、印西牧が瓢箪である。( )内は『下総旧事考』(下総国旧事考、以下旧事考)による。
牧は庶民にも知られ、歌川広重[1]・歌川国芳・渡辺崋山の絵画、後述する小林一茶の句[2]が残り、天正期までは「金」こ記す事の多かった小金が金原亭馬生の名のもととなった。松尾芭蕉の通過については鎌ヶ谷市参照。馬の捕獲は公開され、庶民の娯楽となり、見物人目当ての茶店も出るほど賑わった[3]。
慶應期にナポレオン三世から贈られたアラビア馬20または26頭が中野牧高木村の厩舎で飼育され、うち1頭は後に駒場農学校で割と長生きした(東葛飾郡史)。徳川家茂参照。
明治に廃止、東京府管轄の開墾が開始され、主に東京の「無産之徒ヲ」「開墾ニ使役」、開墾できた土地は入植者に、また、現地で開墾を取り仕切った三井組主体の開墾会社とその出資者に出資額に応じた土地を与えるとされたが、三井等の画策により多くの非出資入植者には耕作権だけが与えられ、ごく少数の大地主、少数の地主、多数の小作農が生じた。争議、法廷闘争も起こり、明治28年、岩瀬謙超『小金原開墾之不始末』が出版され、田中正造も明治29年に国会で取り上げた。人力での開墾適地の多くは享保期に新田となっており、開墾は困難で、また、ほとんどの耕作地は戦後まで入植者(の子孫)の所有にはならなかった。非開墾地、特に野馬土手は自動的に国有地となり、軍用地になった所、日露戦争戦費調達のために払い下げられた所、後に小学校等公共施設の用地の一部となった所も多い。発掘調査報告書で地先等と記され地番のない所は公有地である事を示す。三井が取得した土地も多い。周囲の以前からの農民は自費による通い農民とされていたが、先祖が開墾した耕作地も取られ、争議等に発展した例もある。
周辺の農民の他、他からの士族・江戸の職人等失職者が入植した事が一因となり、「こすい、あるっけ?」等旧牧内外のわずかな方言の違いが1970年頃まで存在した。
地理的人的条件等、間接的な理由によるが、明治以降も牧場・競馬場等、馬に関わるいくつかの施設が置かれた。
現存する土手には、ケヤキクヌギコナラ等を優占種とする二次林としての雑木林・斜面林がある所も多く、かつて里山の一部であった。森林が残る所では、騒音緩和や「緑の回廊」としての効果もある。ただし、一帯は、常に馬が草を食べ、薪炭林等として利用されてきたため、「極相林を見る事は希(沼田真)」である。
[編集] 地名
元は小金宿近くの原を小金原と称していたが、小金牧の設置により牧全体を小金原と呼ぶ事もあった。明治には、佐倉牧と共に開墾されたため、共に小金原と呼ぶ事もあった。由来とは逆に、小金宿に作られた駅は小金原の北のため北小金駅となった。
佐倉牧と合わせ、明治の開墾入植計画の順に従った地名がつけられた。順に初富(中野牧・鎌ケ谷)、二和(下野牧・船橋)、三咲(下野牧・船橋)、豊四季(上野牧・柏)、五香(中野牧・松戸)、六実(中野牧・松戸)、七栄(佐倉牧・富里)、八街(佐倉牧・八街)、九美上(佐倉牧・香取)、十倉(佐倉牧・富里)、十余一(印西牧・白井)、十余二(高田台牧・柏)、十余三(佐倉牧・成田および多古)である[4]。( )内後はその地名がある現市町村名。当時未開墾の佐倉牧小間子牧等は、後の開墾時に鍋島開墾等となった。
牧全域が明治期の開墾地ではなく、習志野等、牧内に当るが地名の異なる所、後に住所表記が変更になった所もある。
江戸時代まで、ほぼ日本全国で馬が飼育され、馬場等、他にもあるが、特に該当地域には、馬・駒・木戸・土手等、牧に因む地名が多く残る。馬込・駒込は捕込(後述)に因むものと死馬を埋めた事に因むものがある。
郷土史等に、松戸市金ヶ作等の「作」は土手も含めた柵の意とある。千葉県教育委員会による該当地域の文化財埋蔵地の約50の「作」は、ほぼ牧がなかった流山市・市川市に無く、我孫子市の7箇所以外、牧の縁に相当する地にある。新田開発に伴う畑作の「作」の可能性も含め、牧との強い関連性を示す。金ヶ作付近には特に柵から転じた作のつく地名が多い。松戸市突柵はクグリマセと読む。マセは馬柵である。一方、牧から少し離れた松戸市新作はシンザク、佐倉牧の矢作牧はヤハギである。他も、城下町・街道等の柵との関連が強く、我孫子市の「作」近くには「木戸」地名がある。
[編集] 牧の構造
小金牧を構成した牧はそれぞれ100~300平方キロメートルの面積をもち、馬が逃げ田畑を荒らす事を防ぐため、各牧の周囲には野馬土手という土手が築かれ、土手は通常二重で間に野馬堀という堀があった。土手は主に堀の土と周囲から集めた土を用い、通常、牧内側の土手「小土手」は馬の怪我を防ぐために低くなだらかで馬の勢いを殺ぎ、牧外側の土手「大土手」は馬の逃走を防ぐために高く急斜面である。馬が堀に入っても牧内側に戻るしくみである。場所により三、四重の土手もあった。牧は主に台地上にあったため、谷津との境では土手が無い場所、堀だけの場所もあった。谷津との境の土手は台地の縁、斜面の上に築かれる事が多く、斜面下の土手は湧水を流すためのハケと考えられる。地域により、野馬除土手、馬土手、ぬま土手、ほぼ堀だけの場合は野馬堀とも呼ばれる。木の柵が併設された所もある。後述の勢子土手とともに、かつての一割程度が残ると言われるが、道路等他の構築物との誤認や途中の変遷もあり、正確な位置が不明の場合もある。東葛飾郡史によると、周囲の土手は75967間1尺、約140キロメートルであった。かつての四十里野の名称による160キロメートルとの説も大きな間違いではない。
牧内には、馬の集約捕獲時の誘導路となる勢子土手または中土手、最後に馬を集める捕込(とっこめ・とりこめ、取込・鳥込とも表記)があった。捕込は捕獲後の馬の移動のため、各牧の端で街道と谷津頭の近くにあった。 捕込近くに特定の馬を集めておく囲土手(≒コラル)があった。その性格上、勢子土手は分岐や食い違い構造をもつ、やや複雑な形状であった。捕込は200 メートル四方、中は通常3区画からなる四角形の土手である。囲土手と重複する場合もあるが、幕府騎乗用の良馬を飼育する御囲(おかこい)という囲みがあり、中野牧・下野牧には各2箇所あった。 一部の軍馬に適した馬以外は農耕馬等に払い下げられ、牧内の草銭場での薪拾い代等と共に幕府の収入となった。
土手には幕府の命で築かれた御普請土手と住民が自主的に築いた自普請土手があり、後者には公文書にないものもあると見られる。初期には各牧の境界は明確でなく、馬の侵入防止に村近くに築かれた短い土手も多い。
谷津は牧に適さず、水田に適したため、牧と谷津の「隙間」に農村集落が形成され、馬の追込・鷹狩・鹿狩の勢子・人足の供出、土手の補修を行い、野付村とも呼ばれた。動員時には村名と人数等を記した幟を掲げた。集落付近には牧の馬と多くはその子孫に当る馬の供養のための馬頭観音の石碑が今でも各所に見られる。 牧内には道もあり、出入口部分の土手の切れ目・道の乗越え部分には木戸が設けられ、街道の場合は木戸番がおり、原則として日中のみ通行でき、関所としての機能も果たした。
残存する遺構の見学等については私有地の場合もあり、自己責任で行動する必要がある。
以下、各牧について記す。 一本椚牧は中野牧に含め、上野牧は江戸時代初期には高田台牧と一つだったため、上野牧を先に記す。
佐原の清宮秀堅著、正文堂発行の『下総国旧事考』には若干の公文書との相違が見られ、牧の異字(土偏に同、東葛飾郡史のみ土偏に回)を用いているが、古文書には字の違いはよくあり、俗称等についての記述は詳細である。
牧士は文化財指定の墓と子孫が住んでいない住居のみ記す。 土手の位置等は明治13年陸軍迅速測図、国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧システム[1](国土地理院)、国土交通省、各自治体・教委等の資料、現地調査による。
[編集] 庄内牧
荘内牧との表記もある。名称は庄内藩領地だったことに因む。
途中で廃止されたため、小金五牧には数えない。小金牧の初期の七つの牧の一つである。
現・野田市内にあった。同地には延喜式の長洲牧があったとされる。享保年間(6年・8年の2説がある。)には廃止されたので、牧としての正式な遺構はそれ以前のものである。ただし、その後も野馬が残り、田畑を荒らすこともあり、存続した牧への引き渡しが完了したのは少し後のやめ、牧の廃止後も野馬土手の補修・構築がなされた。街道の並木があったため牧の廃止後、さらに今日残る土手もあるが、一部は、その所在地から、並木敷または街道と村との境界の土塁との混同とする説もある。
利根運河の北には、野田市花井字上野馬込、下三ヶ尾字木戸前、南には馬場の地名が残る。
[編集] 上野牧
『旧事考』に、俗称が蛇沢野で、捕込が篠籠田にある事、別に府士騎乗の馬場、いわゆる高田台の御囲があり、寛政期に設けられたとある。蛇沢は後述捕込近くの篠籠田に続く沢の支流で、俗称と捕込の記述は概ね正しい。
ほぼ、豊上町を除く後述、柏市豊四季に相当する。耕作の適地、あるいはすでに新田となっていた土地が請願等により流山の住民のものとなり、同市野々下・長崎等の一部となった。流山には江戸時代の記録は多いが明治期の開墾に関する記述は少ない。
脇街道の水戸街道と当牧内で分岐する日光東往還が通り、当時としては江戸からの交通の便も良く、よく知られていた。柏第二小学校創立記念誌によれば、徳川家治の乗馬を放った記録、篠籠田での水戸候鹿狩、老中の馬捕獲見学の記録がある(原典不詳、著作権上詳細略)。
流山に度々滞在した小林一茶は『七番日記』に「文化7年6月14日晴 小金原 下陰をさがして呼ぶや親の馬」の後、布施村での昼食を記しており、当牧での句である。また、旅程・天候の関係から牧内での禁煙を示す「時雨るや煙草法度の小金原」「永き日や煙草法度の小金原」と「母馬が番して呑ます清水かな」も当牧か高田台牧での句である。
村尾嘉陵原著『江戸近郊道しるべ』に、文化14年、著者が江戸から馬を見に当牧を訪れ、現流山市の香取神社にあった水戸街道の一里塚近くの草鞋を売る家で、地元の大工「和泉や弥五郎」の話として、牧は水戸街道より北を上の牧と言い、へいび沢原、高田台、大田前から成り、へいび沢原に馬とり場がある事、街道より南を下の牧と言い、日ぐらし山、五助原、平塚、白子から成る事等が記されている。幕府の公文書との違いもあるが、牧士や野付村の分担地域等の細分を反映した地元での認識と考えられる。「へいび沢」は別の写本を明治期に活字化した『嘉陵紀行』に、最初「へくご沢」とあるが、土人の訛から聞き取り難く、後日、人に確認、「蛇沢」が正しいとある。柏市大青田は今でもオオタ・オオウタと発音される事がある。下の牧の地名は中・下野牧参照。また、牧入口の木戸、向かって左の番屋、竹が「うえられた」野馬土手、牧内の松並木、水戸街道から約一里北の馬が集まる山の記述がある。なお、著者は他所に行くため、「追込の升」と書いた捕込は見ていない。香取神社には前述「下陰を」の句と一里塚跡を示す碑がある。 『江戸近郊道しるべ』には馬橋の所々に、『小金紀行』には流山市名都借に、水戸殿御鷹場である事を示す傍示の杭の記述がある。
文政3年、高田与清『鹿島日記』に、臙脂鹿毛(フリガナはベニカゲ)というどうしても捕まえられない不思議な馬の記述がある。赤松宗旦は『利根川図誌』でこの件と松並木(後述)について記している。
品種改良用に輸入されたペルシャ馬が当牧に放たれた後、死亡した事に因むオランダ観音が流山市東初石5丁目にある。観音は2体あり、1676年に一基が、1868年にもう一基作られたとのこと[5]。11月第一日曜日に「オランダ観音祭り」が行われている。
捕込跡は柏市立柏第二小学校(柏二小・二小)となっている。同校は当初「捕込学校」とも呼ばれ、また、1985年まで捕込の形を模したという池があった。裏手に捕込の土手に続いていた土手が少し残る。日光東往還(地元では日光街道)まで続いていた捕込の土手は1965年を最後に失われたが、同往還側の校庭に土手の基礎部分の埋蔵の可能性がある。捕込には同往還側に2箇所、南に1箇所の開口部があったが、うち、往還側北の開口部と同小学校の正門の位置が一致する。往還側の開口部を1箇所とした資料もあるが、その場合も開口部と正門の位置は一致する。
南柏駅改札口に風除けがあった程、当地域には強風が吹き、農地の風除けにもなった土手がある一方、明治以降に築かれた風除け・土地の境界・土止めの土塁もある。該当する迅速測図の歪みも大きく、全ての土手の位置の確定はできていない。
柏二小そばの稲荷神社前交叉点から日光東往還上、約300メートル南、字捕込(とりこめ)に以前鳥込バス停があり、西に捕込南の囲い土手の一部と見られる土手が少し残る。付近では「とりごめ」と発音されることも多い。近くの稲荷神社境内に開拓記念碑、岩倉具定が土地を地元民に売却した事への報恩碑、明治以降の収入源となった木釘の碑がある。
取込跡南方の柏市弁天谷と流山市松が谷の境界から国道6号にかけて、牧の西縁は市境にほぼ一致する。弁財天から南東に約400メートルは堀が残っており、その一部には大土手も残されている。同国道から約100メートル北の地点から更に北500メートルほどにかけての区間では、市境沿いに野馬堀をはさむ二重構造の野馬土手が残り、緑地公園として残されている。上野牧の中では一二を争う保存状況の良いエリアである。
国道北約100メートルの地点から、北東へ、国道とほぼ平行に勢子土手が分岐、大半が現存する。日光東往還東、旧字中土手に残る土手は、往還西の土手より少し南にある食い違い構造で、馬捕獲時、東往還を北に進んだ捕込(柏二小)へ誘導していた。先にはスバル裏でT字形に南東へ直角に分岐、国道を越え、ゴミ出し場の後、ホンダカーズ西-別の食い違い構造-常磐線近くに土手が残る。水戸街道まであったこの土手は、東往還の所で誘導を漏れた馬を止め、すぐ東、元字吉野沢の一部の新富町の小川への進入も防いだ。国立東京博物館蔵、文化3年の関宿多功道分間延絵図では、小川が池または湿地状で、土手が湿地手前で南東に折れている。南東の土手から北西に分岐する土手が戦後まであった。小川は土手北側の住宅地造成に伴い、土手の間をクランク状に抜ける形となった。小川は現存し、1960年代末まで農業用水にも使われた。
T字形分岐直進方向の土手の先は、前世紀末から今世紀初頭に大部分が消失、家屋の列となっているが、レクサス・飲食店(元幸楽苑)裏手等に少し残り、先の駐車場のコンクリート壁に痕跡がある。レクサスの所は1976年頃まで牛が飼育され土手が牧の境となっていた。 土手は柏市立旭東小学校付近で柏神社隣(国道6号南の質屋裏、サンキ本館新館間の小道等)と北に分岐-分岐後-直進気象大学校(気象大)付近にあった。一部は1974年頃まで残存した。迅速測図には小学校・気象大間で分岐―柏神社隣の土手がある。昭和4年の松井天山の鳥瞰図に旧字乗馬ヶ谷の千葉県立東葛飾高等学校(東葛)の通用門付近に樹木の列がある。気象大正門手前で土手はさらに折れ―東葛正門付近の交差点へ一部曲線状にあったため、同交差点は、ずれた構造となった。土手跡に両側に道のある細長い家屋、踏切付近に僅かな痕跡がある。通称流山街道側の東葛高校内に残る土塁は土手跡の可能性と同校創立時の構築の可能性がある。 旧豊四季村・柏村間にはかつて確執があり、旧豊四季村にある旧制東葛中~東葛飾高の校章は当初の「三つ柏」から次第に「三つ葛葉」になった。
国道6号の南、柏流山市境を南下、水戸街道へ達した土手は、1960年前後に失われたが、跡が土手構築時に他から持ち込んだ土の分、周囲より僅かに土地が高い両側に小道のある家屋の列として残る。市境の数メートル程度の微細な凹凸は購入者の住所等、土地購入時の経緯によるが二列の土手の位置を反映している。
同街道北、詳細な地図で確認できる流山市の突出部は、南柏駅西口前にも掲示されている『小金原勝景図』の木戸を管理する番屋兼茶店か牧関係の施設跡と見られ、大土手も市境の形に流山市が突出していた。同図の茶屋は明らかに木戸より江戸側にあるため、『江戸近郊道しるべ』の番屋とは異なる可能性もある。同所のマンション建設前の航空写真で突出部の土壌の違いが判る。大土手は市境から水戸街道に沿いに続いていたため、突出部がなければL字になるところ、己字状であった。己字の大土手に対し、小土手は突出部から水戸街道へショートカットしており、柏市の街道沿いではここだけ町境は大土手の位置にある。戦前からの住民の話では、他の街道沿いの大土手は明治~戦前に水没しがちな街道等のかさ上げに用いられた。該当場所だけ同街道と脇の土地が僅かに高い事、町境が小土手の位置になった事からも裏付けられる。茨城県立図書館蔵の『駅路鞭影記』に、牧内の目印ともなるよう徳川光圀が命じて(令して)牧士頭が松並木を植えたという伝承がある。水戸街道参照。牧内の水戸街道沿いに字並木がある。
市境から北東、同街道沿いにあった土手が折れ(微細な町境と一致)、同街道に突出した所、字新木戸に新木戸と呼ぶ木戸があった。日光東往還との分岐やバス停新木戸より西である。木戸の土手は2003年まで残っていた。木戸には関所の役割もあり、幕末期、近くの刑場で処刑が行われた記録がある。市境より西、水戸街道にバス停「堀込」があるが捕馬との関係は不明である。 新木戸近くの別雷神社は1870年創建、茨城県から勧請されたもので、前述「とりごめ」の発音は入植者により訛が持ち込まれた可能性が高い。柏市内に多い姓には近隣の市に少なく茨城県に多い姓もある。
前述の分間延絵図に市境と水戸街道沿いの土手、新木戸、東往還付近の勢子土手、捕込南の土手、捕込が描かれている。
木戸の江戸側から土手は南南東に伸び、SDAキリスト教柏教会のところで屈曲して北東に針路を変えていた。しかしこの一帯には家屋の列以外ほとんど痕跡は残されていない。東武野田線との交点には豊住歩道橋と名づけられた跨線橋がかけられており、そこには馬の絵が描かれている。東武野田線の北東側には、ローソン前にかけて湾曲した形状の土手が残る。ここが谷津の始点、谷津頭であり、土手の終点であった。付近の道はかつての急傾斜を反映し、S字状である。 『千代田村史』は新土手の多くが一重で低いとした上で、市境から続いていたこの野馬土手は「新土手ながら二重」と記している。
ローソン前の土手末端から東方向は、谷津の縁が牧の縁であった。柏レイソル日立台グランド前、旧名戸ヶ谷の谷津から野馬土手が、緑ヶ丘交番まで残る。東側は谷津の斜面と一体となった構造が残るが、西側は埋め立てにより大土手だけが残る。旧ラーメン店の所にあった谷津頭は馬の水飲み場として牧に入れるが、谷津の斜面を利用し、馬を牧外に出さない巧妙な構造である。交番から北の土手跡に僅かに高く両側に小道のある家屋の列がある。
土手は柏市立柏第三小学校裏へ続き、ここで道が土手跡を斜断、土手の痕跡が残る。柏神社西隣へ土手跡に沿った道が続き、水戸街道を横切る所に木戸があった。木戸付近の小金牧境界沿いには、水戸藩の江戸往来の休憩所としても使われていた茶屋が「水戸屋」として残り、水戸屋が水戸藩主の命で建立した櫻株稲荷神社も残されている[6]。 柏神社にある柏市教育委員会の解説によると、この木戸は柏木戸と称した。近くで前述の市境からの勢子土手と旭東小付近で接続する土手、柏駅北の土手に分かれ、後者は柏市立柏第一小学校正門付近でさらに同校敷地内の土手と、西北西への土手に分岐していた。同正門前の交差点がずれた構造である。西北西の土手は国道6号北―柏高島屋第二駐車場前―柏駅付近―あさひ通り沿い―乗馬谷の谷津と折れて続いていた。柏市教委によると、岬状に谷津に突出していたあけぼの町赤城神社付近まであった。柏神社―柏一小の土手沿い牧外側の道がマクドナルド前の道、旧柏・豊四季の境で、土手が牧の東縁であった。この道は柏駅周辺最古の道の一つであり、現ヨドバシカメラ裏に、利用者の少ない歩道橋が設置された。
明治になっても現柏駅構内と付近の開墾は遅れ、駅・線路への用地転用が容易だった。青木更吉はホーム構築時、土手の土がその一部になった可能性を指摘している。柏駅近くに土手について、大正12年の『千代田村史』には柏一小裏から名戸ヶ谷まで、自然に崩れた所もあるが、二重の旧土堤が残ると記している。柏駅付近では、前述鳥瞰図に該当位置の密生した林、土塁のある医院が描かれ、昭和初期のかなりの残存、1955年の航空写真で駅前通り付近での残存が確認できる。周辺の家の建築時、土手の土を使い昭和初期までに完全に破壊されたという話は一部で行われた可能性はあるが正確ではない。土手構築時に土を取った堀を埋めれば他から持ってきた土以外は余らない。鳥瞰図には柏駅近くの「小松園」に小山が描かれ、後の同園の写真に土塁がある。開発の経緯から旧柏村には駅と県立高校がない。
赤城神社から西、柏市豊四季・篠籠田境=旧篠籠村南縁が牧の北の縁にほぼ一致、断続的に間の離れた二列の土手が篠籠田市民緑地等に残る。北の縁は豊上町の谷津が入り込んだ後(柏市立柏第七小学校西に土手残存)、豊四季駅付近で流山市との境に達していた。前述の市境からの土手は千葉県道278号柏流山線北にも続いていたが、この部分は現流山市になり、四重の土手が同市野々下(野下とも表記された。字土手内・土手外、元木戸・木戸本の地名が残る。)に残る一方、日光東往還西側が、すぐ近くの柏二小の学区外になった。付近は、牧内の新田開発、入り組んだ谷津、流山市野々下と長崎が江戸時代初期まで一つだったことにより、牧の境界と野馬土手が入り組んでいた。ほぼ、牧の西端は野々下と長崎を抜け、柏市が西に突出した所までであった。ここの谷津の縁の土手が残り、付近に前述、牧士を務めた花野井家住宅があったが、野田市に移築された。 前述、水戸街道より南の柏・流山市境にも牧の縮小前の土手が残る。流山市による麗澤大学構内の発掘調査の記録がある(同大学関係のHPには未記載)。
江戸時代にはすでに前述の呼塚は牧の外であったが、南に字駒込、さらに南に柏市立柏第五小学校のある字野馬木戸があり、広範囲の土手等の存在が伺える。
石田寛(岡山大学)GEOGRAPHICAL STUDIES ON PASTURAGE AND PASTRAL AREA IN JAPANに『小金原勝景図』からの当牧の捕込の図、安田初雄(福島大学)「本邦における近代置付放牧に関する地理的研究」に当牧と高田台牧を中心とした詳細な記述がある。
牧内には祠等を除き寺社を置かないのが原則であり、豊四季駅近く、馬の銅像が建つ諏訪神社は野馬堀に接してはいるが牧外にあたる流山市駒木にある。源義家および付近の鞍掛の伝説については同神社の項参照。『小金紀行』に駒木の集落前の木戸の記述がある。近くの古間木(フルマキ)は駒木または古牧の変化の可能性がある。
牧内の神社の多くは明治の入植時に立てられ、その由来が入植者の出身地の手がかりともなる。 現豊四季台団地の地に柏競馬場があった。 柏市郷土資料室に、三井の管理人市岡晋一郎、住民の指導者石塚与兵衛等、牧に関する企画展の資料がある。
[編集] 高田台牧
高田牧・高田原牧ともいう。『旧事考』の大青田牧と考えられる。
柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる。江戸時代初期には上野牧と一緒で、その後も上野牧とは大堀川のある篠籠田の谷津をはさんで近接、現豊四季駅北で接続していたが、土地開発の違いから土手等の遺構が上野牧より近年までよく残っていた。大半が大日本帝国陸軍飛行場[7]高射砲陣地、アメリカ合衆国の接収、朝鮮戦争時の再接収を経て、冷戦期の通信所設置等で返還が遅れたためである。ただし、陸軍施設構築時、そのまま利用された土手・堀と新たに構築されたものがあり、明確に判別できない遺構もある。最後に返還された土地が柏の葉である。 柏市庭球場の池の周囲でも判るが、地下水位が低く農業用水が不足した場所が多い。
柏市庭球場の池の東、三井不動産系の旧ゴルフ場西縁、十余二と正連寺の境に土手が残る。 マルエツ・交番間の陸軍東部百五連隊の営門に跡が残る土塁は千葉県道47号守谷流山線から見て少し奥にあったと見られる土手とは別のものである。奥の土手の東西延長線上に断続的に土手が残り、県道南に残る土手とさらに東で連絡していた。民芸駐車場の一隅に後述厳島神社があり、小道の反対側、高田原ふるさと会館と消防団の裏に土手が残る。小道は土手を切った所だけ幅が広い。
当牧において特に明治の開墾後、三井組が直接土地を所有し入植者が小作農となる事が多かった。三井不動産に引き継がれた土地が多く、ららぽーと柏の葉・柏の葉の三井住宅等の例がある。
法廷闘争や土地所有を有利に進めるため三井は十余二出張所の建物・一部の土地を有力者に渡した。明治12年、大蔵卿大隈重信が「流山庄十余二」の土地を三井より市岡晋一郎を経て取得した記録が、早稲田大学史資料センターに残る。翌年の迅速測図の現柏特別支援学校付近に、土塁内の敷地だけで100メートル四方を超え、L字型の大家屋と3個の家屋を含む「大隈邸」[8]の記載があり、出張所の特徴と大体一致する。迅速測図の測量点にもなり、1970年代の航空写真でも堀と土塁を有した約120 メートル四方の敷地跡が確認できる。一部勢子土手を利用した大隈邸と同校の敷地とは若干のずれがある。大隈が東京まで通勤した記録はなく言わば別荘・領地であった。三井文庫に、明治8年~10年、大隈や青木周蔵の見分、岩倉具視への土地献納の記録がある(柏市史)。鍋島藩主の側近が土地を所有していた事を示す資料も千葉県文書館[9]にある。 十余二の厳島神社の千葉県知事筆の開墾記念碑の裏面に「大隈及鍋島等」が土地を所有し戦後まで入植者の物とならなかった事が記され、明治期の馬頭観音がある。
「大隈邸」から南、柏流山市境付近にかつて勢子土手があり、その先付近に捕込があった。つくばエクスプレス際の墓地に当るが南東の一部は道路によって削られた。
こんぶくろ池は馬の水飲み場でもあり、付近には全体としてL字型の土手、国道16号東に旧正蓮寺集落西縁の土手が残る。 良好な状態の流通経済大付属高等学校裏のほか、柏インター西に複数列、江戸川台駅東・柏市の半飛び地状の市境、大山台の町界、大堀川北旧高田村集落北縁等に土手が残る。
柏市では同市花野井、牧士の吉田家住宅を2009年より公開しており、付近に花野井木戸の地名が残る。
[編集] 中野牧
現在の松戸・柏・鎌ケ谷・白井の各市にまたがり、上野牧が一度の開墾でほぼ豊四季だけとなったのに対し、中野牧は初富・五香・六実と三期に渡って開墾されたこと、一本椚牧を吸収したことでも判るように広大な牧であった。
幕府は当中野牧の馬を将軍の乗馬に用い、将軍が鹿狩(ししがり、共に後述)を行うほど、当牧を最重視した。また、当牧の一部に当たる小金原から全体の呼称が生じ小金牧を代表する牧であった。今も松戸市に「小金」を冠した地名が残るが、北小金駅は牧の北、流山市向小金は上野牧との間で、いずれも牧外に当たる。同駅前が野馬奉行屋敷のあった所である。
同じ台地上にあり、水戸街道の宿場で知名度が高かった小金宿が小金牧の名の基となった(前述)。江戸時代前には小金原と記した文献は未確認で、小金牧の名は牧士頭が小金宿在住のためとする説と矛盾はないが、牧士頭が小金在住のため当牧が小金牧の中核になったという説は、小金宿から捕込まで上野牧の約2倍の距離がある上、牧の反対側にあり、享保期に当牧が金ヶ作陣屋(後述)に移管された事と矛盾し、奉行宅に幕府の政策を合わせた可能性も低い。
松戸市陣ヶ前は諸説あるが、将軍の狩の際の休憩所=陣に因むとされる。徳川将軍の鹿狩は享保10年(1725年)から、吉宗2回、家斉・慶喜同行の家慶各1回が行われた。慶喜は猪の出現も考え、馬を豚になれさせ、豚を見ると駆け寄るようになるまで準備をしたと、渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』で述べている。寛永期の家光の鹿狩の伝承は、記録が定かではない。狩には新田開発の視察、軍事演習、害獣捕獲の側面もあった。狩の前に馬は下志津の六方野に集められた。下野牧東方に下志津、六方、木戸場の地名がある。
現常盤平を含む金ヶ作には、将軍の乗用馬等優良馬確保のための囲い「御囲場」「御放馬囲」が設けられた。金ヶ作は金原とも書いた小金の柵の意とされ、また、享保期、中野牧・下野牧を管轄する金ヶ作陣屋が設けられ、言わば直轄中の直轄となった。八柱日暮近くに陣屋前の地名が残る。五香駅南、松飛台に将軍が鹿狩を指揮見物した御立場(おたつば)が陸軍飛行場の障害として撤去されるまで残り、五香公園に碑があり、少し離れてバス停御立場がある。御立場は明治期の地図では猪見塚(ししみづか)の表記もある。
当時の将軍鹿狩の絵図や庶民向けの読み物も残され、御立場・街道・谷津・土手の形状を正確に描いた図がある。狩の約一年前に、頼朝の富士の裾野での狩りとして出版された錦絵もある。船橋市西図書館等に明治期、下野牧に当る習志野での軍事演習を描いたとして、御立場と酷似した土台、近くの谷津と酷似した雲、多数の鹿や猪とそれらを追う兵士を描いた錦絵、 豊島区役所に同区駒込にある鹿狩随行の武士が獲物を下賜された事を記した鹿碑の紹介がある。
金ヶ作北、現小金原の殿内交差点・バス停付近に水戸家御鷹場役所跡があり、一帯は一時期手賀沼まで及ぶ水戸徳川家の鷹狩場(前述)であった。北に同役所表門に因むバス停表門がある。武田信吉が封じられ、付近に徳川光圀関係の話・物がある。上野牧と並び水戸家との縁も深いが、徳川昭武屋敷戸定館は牧外に当る。
松戸市和名ヶ谷・日暮・河原塚から南は天領小金領で将軍家の御鷹場葛西筋に属した。将軍・水戸両家の鷹場の境には杭があった(『東葛飾郡史』)。
迅速測図も上野牧等に比べ正確で、広大な牧でありながら存在した土手の位置・形状がよく判る。土手が現旧市町村境界となった所が多く、土手沿いに鉄道連隊線路が敷かれ後に新京成線になった所もある。
元禄期までに栗ヶ沢・千駄堀・金ヶ作等の集落が存在し、牧の北端は水戸家役所より南、栗ヶ沢・金ヶ作境界から現常盤平付近と考えられる。金ヶ作西端には共に天明年間創建の熊野神社と祖光院があり、すでに新田集落となっていた事が判る。千葉県立松戸特別支援学校前のローソン裏のコンクリート壁の所にかつて土塁があり、西の延長線上に大作、北に横作、木戸前の地名がある。旧高木村の道路元票は金ヶ作小作台にあった。
柏市南増尾クリーンプラザ裏から西、南増尾・逆井境沿いに土手が断続的に残る。逆井駅東から西の増尾台にかけて逆井木戸、木戸尻、木戸前、増尾木戸の地名が残り、柏市教委によれば馬を捕えた「とったり庄兵衛」の伝説があることから、木戸付近でも小規模な捕獲が行われたとも考えられる。千葉県立柏南高等学校仮校舎は字増尾木戸前にあった[2]。当牧東部、南増尾地区は享保期に増尾新田となった。同名のバス停がある。なお、旧土村中心地近くの野馬土手・堀に似た構築物は中世の城館に伴う遺構である。付近の古木戸または小木戸、馬場等の地名は増尾城に関連した可能性もある。
土手を貫いて作られた東武野田線高柳駅北西の車両基地近くに、一部の土手が残る。
六実・六高台の高お(雨冠に龍)神社に開拓百年碑と香実会所跡の碑がある。六実は土手に囲まれ五香と分けられていた。籠益の地名が残る。コモルの訓がある籠、升と同じ訓の益は囲や捕込の意であり、御囲と捕込の存在が示唆される。
五香駅東、五香十字路はかつて北の千葉県道51号市川柏線が西にずれていた(旧道残存)が、付近の鮮魚街道(千葉県道281号松戸鎌ケ谷線)上、字五助・現金ヶ作字新木戸に現地の名主五助管理の五助木戸があった。真景累ヶ淵速記本に、小金牧・生街道・五助街道の記述がある。土手が同十字路北東の道の東側=五香・常盤平境界(一部残存)―北―柏・松戸市境に沿い鋭角に東の位置にあり、市境とその延長線上、ベルクス五香店北、旧ダイエー五香店・現オウル駐車場北に良好に残る。同駐車場北西端近くに木戸跡があり、土手を斜めに乗り越える北東高柳新田への道があった。近くにバス停元木戸、北に高柳新田通小屋の地名がある。オウル駐車場東端から失われた土手は同店前の交差点で僅かに北へ屈曲、さらに北東へ屈曲―松戸六実高西にあった谷津頭―南東―松戸市立六実小学校東―北東―ほぼ市境沿い―佐津間北の大津川の谷津にあった。 オウル前交差点から南へ分岐ー高お神社西-市境の谷津-後述の松戸駐屯地内の土手と接続の土手があった(一部残)。 松戸六実高西の谷津頭で谷津の両側に土手が分岐、谷津の北西に延びていた。この西隣の谷津にある松戸市クリーンセンター脇に土手が残り、サラブレッド様の馬のレリーフがある。土手は千葉県立柏陵高等学校方向へ続いていた。
土手は五香十字路―西―県道松戸鎌ケ谷線の北の旧鮮魚街道南側(金毘羅神社等に残存)―常盤平子和清水―南の谷津に続いた。近くに三井不動産系のユニディがある。子和清水の養老の滝様の伝説は、酒々井にもあり、「子和」に因み後に移入された話と考えられる。大正期まで古和の表記が多く、強=枯れないの意と考えられ、小金牧には串崎新田等にも古和清水・子者清水、船橋に古和釜がある。子和清水には前述「母馬が」の句碑があるが、一茶がここを訪れた記録はなく、流山から市川に行く途中に寄るには回り道である上、季節が異なる。
常磐平一帯は新京成線の南・八柱霊園との間・西の3つの谷津に囲まれた台地で、金比羅神社東から北西の谷津まであった土手、五助木戸から南の谷津までの短い土手と共に、前述の御囲場を構成していた。谷津の北が当牧の北端に当たる。
南では、二つの平行した谷津をつなぐ畑作新田の田中新田東縁の土手が東京都立八柱霊園の東縁となり、わずかな痕跡が残る。霊園北に字矢深作、南東角に字茨作がある。
霊園南西の千葉県立松戸秋山高等学校西に字馬乗場、北に字木戸場、紙敷には字馬原作がある。
五香十字路から南、県道57号西沿いに両側に堀のある一重の土手(船橋市西図書館所蔵の絵図に描写)があり、一部、松戸駐屯地内に残る。新京成線の踏切の南東、県道の僅かな屈曲点でオウル脇の木戸からの土手に合流、くぬぎ山駅中央へ折れていた。同屈曲点南にごく短い土手跡が残り、先は駐屯地内の「さくら通り」である。西側の駐屯地内の松戸・鎌ケ谷市境は道跡、付近の新京成線もほぼ道跡だが、多少ずれた跡が踏切西の駐屯地の形に残る。くぬぎ山駅西口階段の所で東からの土手に合流し、西―南西と折れ、松戸・鎌ヶ谷市境が鋭角をなす地点で、松飛台西の谷津―松飛台十字路で僅かに折れたほぼ直線状の土手に接続していた。松飛台の土手は航空写真から終戦直後にすでに無かった事と、土壌の違いによる痕跡から位置が判る。くぬぎ山駅付近の土手は「と」に下線をつけたような形であった。駅西口の土手は1974年には残存したが、新京成電鉄本社が建ち、他も個人の土地の境以外の痕跡はない。 土手の接点から東(比較的良好に残存)―本線の南=市境=車両基地―南へ曲折―市境角で西の市境からの土手と接続、串崎新田の外枠となった後、東へV字をなし谷津をつないでいた。 松飛台字御囲の地名の中心は駐屯地内で、西に同名のバス停があった。
初富駅西、北西を上にした一辺400 メートル程のK字形の土手(Kの縦線跡は道、斜線の一部残存)があり、縦線の南、V字の北東角との間に捕込があった。小金牧では唯一、比較的良好に残る捕込の遺構で、牧関係の遺構としては初めて「下総小金中野牧跡(しもうさこがねなかのまきあと)」として、勢子土手一条とともに2007年(平成19年)国の史跡に指定された。白子の捕込とも呼ばれ、付近には「白子」がつく公園がいくつかある。
K字の北東、旧粟野村集落は北の谷津と南の土手で囲まれた典型的な野付村で、今も土手を境とした古くからの村落と新規の再開発地の町並みの違いが判る。消防署前、県道両側に土手が残る。 旧道野辺村は西を谷津、北東を野馬土手に囲まれた集落、南北に長い現南佐津間はほぼ現市境の西の土手と東の谷津にはさまれた集落だった。佐津間、字南木戸に鮮魚街道が通っていた。
K字の南東―少し屈曲―国道464号の所で分岐―鎌ケ谷市立鎌ケ谷小学校・南西の谷津の土手のうち、鎌ヶ谷駅南側の部分が残っている。
道野辺中央から、北と東へ鎌ヶ谷市丸山・同市鎌ヶ谷町境沿い鎌ヶ谷大仏北に三重の野馬土手があった。後者には南へ二重の土手が分岐し、当牧と木下街道が通る旧鎌ヶ谷村を分けていた。
鎌ヶ谷市市制記念公園東―東南東―白井市―南西の土手の一部が鎌ケ谷市立初富小学校西に残り、前述の史跡に指定された。分岐の一部が同校やや東の白井市富士に残る。小学校西の土手は南へ曲折、鎌ヶ谷大仏北の池の南まであった。
当牧の南の部分、ほぼ初富に当る部分が一本椚牧であった。 『旧事考』の付図には、旧粟野村付近に一本椚の地名があり、現在の三本椚近くにあった一本椚の地名に起因した名称と考えられる。同図には近くに瓢箪サクの地名もあり、白井市冨士のすぐ北の鎌ヶ谷市瓢箪付近と考えられる。鎌ヶ谷村道路元標は延命寺前付近に当る字一本椚に置かれ(千葉県・法令集)、一本椚を冠する公園が鎌ヶ谷五~七丁目にあり(鎌ヶ谷市・統計かまがや)、木下街道の東南に一本椚、北西に二本椚と記した昭和期の地形図もあるが、厳密には一本椚新田に因むと見られる。
松戸市秋山牧之内、八柱村道路元票設置の紙敷木戸場、高塚新田木戸前、同隣接地の市川市に木戸口遺跡等、白井市に白井木戸・中木戸の地名が残る。 牧士の三橋家と清田家の墓が鎌ヶ谷市の文化財に指定されている。 清田家と駒形大明神(鎌ヶ谷市)については該当項目参照。 白井市の牧士川上家の資料は県の文化財に指定されている。中野牧・下野牧の牧士は両牧を担当していた。
鎌ヶ谷市下総小金中野牧跡保存計画書には牧跡のほか、牧全体に関する詳細な資料がある。
[編集] 下野牧
牧の区域は、船橋市二和・三咲のほか東の習志野地域等も含み、現、鎌ケ谷・船橋・八千代・習志野・千葉の各市に及ぶ。習志野を含むことでも判るように、東京湾に近く明治期に開墾されず早くから軍用地となった土地が多い。
捕込は鎌ヶ谷大仏駅前、鎌ヶ谷大仏交差点東、字大込、中野牧のすぐ南にあった。ここに置かれた理由として、地形的な要因と馬の移送も含め、金ヶ作陣屋との交通の便が考えられる。捕込の土手跡は小道等となったが、県道横に一部の痕跡が残る。捕込に続く土手が、付近の鎌ヶ谷・船橋市境、船橋市の突出部分を分ける位置にあった。
『木曽路名所図会』には鎌ヶ谷大仏と、近くの野馬土手とも見られる地形の高まりが多少描かれている。
『旧事考』によると神保に御囲があった。神保町に字牛ヶ作、南、船橋市立大穴中学校付近字海老ヶ作がある。 享保の改革に伴い、成田街道沿い牧の入口、後述船橋市郷土資料館西に土地を得て丹羽正伯と薬種商桐山太左衛門により薬草園が設けられた。詳細は薬園台参照。脚注[10]のような記述もあるが、長崎大学薬学部によると、薬園は幕府直轄ではない。「御」をつけない事とも一致する。薬草園はやがて廃止、正伯新田となった。『旧事考』の付図には西側に薬園台、東側に正伯の地名がある。旧馬加村の幕張駅近くには青木昆陽がサツマイモを栽培した地があり、享保期の当牧西部の土地利用の様子が伺える。
千葉市作新台の春日神社の石碑に「開有富」とあり、請願等の運動で以前からの住民が開墾できるようになった事を示している。
捕込から鎌ケ谷・船橋市境の形に土手が、南西の市境の形の谷津まであった。両側に道のある家屋の列がある。 この谷津から-東-御滝不動尊金蔵寺-ごみ出し場-船橋市立二和小学校南に勢子土手が残る。同校南のアスファルト舗装の道路中央に、良好に保存された部分~ガードレールに痕跡を留めるだけの部分がある。ここでは二和と三咲の境界だが、少し東では現境界より東で北に折れ、三咲駅は土手跡より二和側にある。さらに西に折れ、捕込に続いていた。
千葉県立船橋豊富高等学校は、字ハンノキ作にあり、南に稲荷ヶ作・鶴作台・大作の字がある。
当牧の西縁を成す土手は、滝不動南の船橋市立御滝中学校―南三咲・金杉町境、南の谷津と、谷津の南、高根木戸駅西、さらに南の谷津まであった。
ここより南、新京成線西側は、入り組んだ谷津が牧の西縁であった。
土手は谷津の南、船橋市立飯山満小学校校門前―東の道沿い―合流した道沿い―習志野駅西で南へ屈曲―二度屈曲―船橋市郷土資料館敷地西の斜めの小道(一部残存)にあった。土手が成田街道を横切る所に正伯木戸・薬園木戸という木戸が、前述の薬園は木戸の江戸側にあった。 同資料館近くに牧内で五角形をなしていた土手の一部が残る。五角形は明治期の土塁にしては後の地形図にはなく、街道・木戸・牧内の土手の構造が上野牧と類似する。土手は街道南の陸上・航空自衛隊駐屯地内でZ形に屈曲、同駐屯地南東に抜けていた。県道西の町境部分には、一時期鉄道連隊線路があった。南、習志野市立習志野高等学校前までの県道沿いに両側に道のある家屋の列が複数ある。
その先、京成実籾駅に向かう途中に、かつて「実籾木戸」と呼ばれた三叉路があり、東の道―谷津頭を北に迂回―千葉市立花見川小学校前交差点と続いた土手は、同交差点で十字に分岐、北東の土手が、千葉・八千代市境に達した(花見川区柏井の道灌堀に一部残存)後、後述、陸上自衛隊習志野演習場を通った土手に続いていた。
陸上自衛隊習志野演習場内に船橋・八千代市境沿いの土手を含め、比較的良好な状態で複数列の土手が残るが、弾薬庫の周囲にあった土塁との混同に注意を要する。船橋・八千代市境・同演習場北端に成田街道の木戸があった。バス停ほか新木戸の地名が残り、ここから西が縮小後の牧だったことが判る。北に中木戸の地名が残る。
前述、薬園木戸から新木戸間は明治4年5月の兵部省の要望後、陸軍演習場となり習志野と命名された。現在も、土地利用の違いから牧の境界が判る所がある。明治期の陸軍士官学校生徒が当牧を佐倉牧と誤記する一方、周囲を囲む土手を記録している。
新木戸の土手は牧の東縁を成し、北西へ谷津をはさんで船橋日大前駅西に続いていた。同駅付近に土手が残る。
八千代市島田台字木戸場の地名が残る。
馬込沢駅・馬込沢・馬込町は、近くに明治期まで短い土手があったが、牧の縮小前かさらに前の地名と考えられる。金杉参照。 字古作の中山競馬場北に瓜作がある。
習志野市の広報習志野連載記事には牧の土地利用状況が判る実籾村の原風景のほか、野馬土手等に関する資料がある。
[編集] 印西牧
現白井市から印西市、印旛村に及ぶ広大な牧であったが、享保以降の縮小・自然の地形の巧みな利用のため、現存する遺構は少ない。 江戸時代初期には印西市東部にまで達し、同市小林牧場北西に馬込、馬込塚、印旛村吉田には馬見台、馬々台、木戸口の小字が残る。佐倉牧と佐倉市が一致しないこと、当時の広大な印旛沼については該当項目及び香取海参照のこと。
享保の改革により、牧の約3分の2が新田になった。 現印西牧の原駅付近は享保・延宝に新田となり、新田地名として残る。ただし、印旛沼近くの新田は埋め立てによるもので元から牧ではない。 東部では千葉ニュータウン中央駅東まで牧は縮小された。付近に馬場、木戸、大木戸の地名、木戸、天王脇野馬土手の遺構がある。 少し北、印西市字木戸には土手・木戸の遺構がある。 泉字大木戸、和泉字大木戸根、多々羅田字木戸の地名から牧の縁が伺える。
西部では北から、白井市平塚字馬場堤下、船橋市神保の同名の字とは別の牛ヶ作、河原子字木戸場、根字木戸前、白井木戸の地名がある。 白井市鮮魚街道のバス停神々廻木戸付近の交差点の北に「く」の字形の土手があり痕跡が残る。南東方向にも谷津間をつなぐように現ゴルフ場を抜け、数個の土手が連なり牧の南西の縁を形成していた。 少し東、旧十余一村北の土手とさらに木刈の谷津に続く土手が牧の北の縁であった。
牧の西、旧沼南町には大木戸の地名があり、近くに明治期まで土手があった。馬洗井戸の地名が残る。
平塚に捕込があり(旧事考)、十余一字捕込付(とりごめづき)、捕込場(とっこみば)の地名が残る。
[編集] 脚注
- ^ 浮世絵「下総小金原」『富士三十六景』-- 節「文献」「外部リンク」を参照。
- ^ 俳句「下陰を さがして呼ぶや 親の馬」「永き日や 煙草法度の 小金原」「母馬が 番して呑ます 清水かな」--〈野馬の放牧場だった小金牧〉「特集 松戸あれこれ物語」『WEB版 Hello! まつど』Vol.27 2002年7月号より。節「外部リンク」を参照。句の多くが現柏市に関する事は本文参照。
- ^ 中村哲夫『千葉の建築探訪』崙書房出版、2004年、40頁、ISBN 4-8455-1100-2
- ^ 東京新田と俗に総称されたこともある。
- ^ 千葉県商工労働部観光課のWebページ
- ^ 柏市役所サイト内「水戸屋稲荷物語」
- ^ 秋水参照。
- ^ 相原正義の著作にも記載。
- ^ 一次資料である綿貫家文書も所有しているがインターネット上では未公開。
- ^ 江戸、駿河、嶺岡牧、京都、佐渡、長崎とともに幕府直営の御薬園があった。(大石学「御薬園と養生所」竹内誠監修『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』小学館、2002年12月。ISBN 4-09-623021-9
[編集] 関連項目
[編集] 文献
- 青木更吉『小金牧 野馬土手は泣いている』崙書房、2001年5月。ISBN 978-4845510795
- 青木更吉『小金牧を歩く』崙書房、2003年8月。ISBN 978-4845510948
- 相原正義『柏-その歴史と地理』崙書房、ISBN 978-4845511099、南柏駅近辺の土手消失について詳述。
- 小高昭一〈小金牧と御鹿狩〉「町場と村」『改訂版 常設展示目録』(p62 - 64)、松戸市立博物館、1994年3月31日 初刷発行、2004年8月31日 改訂1刷発行
- 広重「下総小金原」『富士三十六景』版元 蔦屋吉蔵(紅英堂)、1859年(安政6年)9月 刊行。※「小金牧」を描いた浮世絵。
[編集] 外部リンク
- 京葉ガス地名町名の解説
- 〈野馬の放牧場だった小金牧〉「特集 松戸あれこれ物語」『WEB版 Hello! まつど』Vol.27 2002年7月号、(株)エムズジャパン、(株)ラビーズ
- 〔下総小金原〕〈歌川広重 富士三十六景〉「博物館資料のなかの『富士山』」山梨県立博物館
- 野田市立図書館ウェブサイト「1 小金牧」「2 将軍と鹿狩」「3 下総牧のその後」「4 庄内牧(野田の小金牧)」「5 庄内牧(野田の小金牧)2」「参考文献」『野田と小金牧』野田市立図書館
- 白井市「小金牧の牧士資料(県指定文化財)」白井市文化課文化班文化センター 図書館 棟2階
- 東葛人的サイト「野馬土手 - 小金牧の残光」。野馬土手等の写真があり、小金牧に関する最高水準のサイトの一つ。




