尾崎行雄

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尾崎行雄
尾崎行雄
生年月日 1858年12月24日
安政5年11月20日
没年月日 1954年昭和29年)10月6日
出身校 慶應義塾中退
帝国大学工科大学中退
(現・東京大学工学部)
所属政党 憲政党革新倶楽部 ほか
配偶者 尾崎テオドラ

日本の旗 第14代文部大臣
内閣 第1次大隈内閣
任期 1898年6月30日 - 1898年10月27日
退任理由 共和演説事件により

日本の旗 第20代司法大臣
内閣 第2次大隈内閣
任期 1914年4月16日 - 1916年10月9日
  

尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年[1]11月20日1858年12月24日) - 昭和29年(1954年10月6日)は、日本政治家。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。

号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。称号は衆議院名誉議員東京都名誉都民

目次

[編集] 略歴

相模国津久井郡又野村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、明治元年(1868年)に番町の平田塾にて学び、一家も明治4年(1871年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。その後、明治5年(1872年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。明治7年(1874年)に弟と共に上京し慶應義塾童児局に入学するが、塾長の福澤諭吉に反抗する論文を執筆して退学、明治9年(1876年)に工学寮(のちの工部大学校。現・東京大学工学部)に再入学するも「東京の四大新聞」、などに投書を始め、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三田演説館で演壇に立つなどした[2]

明治15年(1882年大隈重信立憲改進党の創立に参加。明治20年(1887年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)[3]

明治23年(1890年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。その後、進歩党憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正義が対立するとともに辞任した。明治31年(1898年)、第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分裂、大隈内閣も総辞職した。その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文立憲政友会結成に呼応して憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後伊藤とも対立して離党、その後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。

明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで東京市長大正元年(1912年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後中正会憲政会革新倶楽部と移る。第2次大隈内閣では司法大臣となる。

当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第一次世界大戦後のヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、一貫した軍縮論者となった。また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢や、西尾末広反軍演説を行った斎藤隆夫の除名に反対の意思を示す(棄権など)など議会制民主主義を擁護する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった[4]

昭和17年(1942年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。

昭和18年(1943年)、前年の総選挙の際に田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙批判を行った中に引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(尾崎不敬事件。一審で有罪、1944年(昭和19年)大審院で無罪確定)。

戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、昭和28年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。95歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録である(アメリカではストロム・サーモンドが連邦上院議員を100歳まで務めている)。1950年には英語国語化論を提唱したこともある。 世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)初代会長

昭和29年(1954年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため死去。96歳(満95歳)。墓所は鎌倉円覚寺

[編集] 人物

永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。

相模原市津久井町伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。伊勢神宮に隣接する合格神社に神として祀られている。また、国会前庭の敷地内にある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものであり、銅像も建立されている。

東京市長在任中にアメリカ合衆国ソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマック川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されてしまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。

難民を助ける会創立者の相馬雪香は、英国育ちの妻テオドラとの間に生まれた三女で相馬藩第三十二代当主・相馬恵胤の妻。

金銭的にも清廉潔白で有名であった。もっとも戸川猪佐武によると、犬養毅に「そりゃ確かに君は清廉潔白で献金をもらわんかもしらんが、その代わり、我々に借金をするじゃないか。そしてその金を返さないじゃないか。借りた金を返さんのも清廉潔白のうちか。」とやりこめられて、さすがにグーの音も出なかったという。戸川によると、尾崎は「原敬は金が欲しい議員には金をやって、ポストが欲しい議員にはポストをまわして、それで子分を増やしたのだ。」と言っていたということで、田中角栄シンパとして有名だった戸川は「そんなことを言っているから尾崎は政界で孤立したのだ。」と書いている。

[編集] 著書

『日本憲政史を語る』

[編集] 脚注

  1. ^ 戸籍上は翌6年の旧暦11月20日
  2. ^ 慶應義塾の伝統②憲政の神様尾崎行雄
  3. ^ なお、明治21年(1888年)7月、滞在先のロンドンで、ドイツ留学を終えて帰国の途についていた森鴎外と会っており、鴎外から詩を4首おくられた。山﨑(2007)。
  4. ^ 『牧野伸顕日記』昭和6年(1931年2月17日条によると、内大臣牧野伸顕大久保利通の息子)が尾崎と会ったときにその口から「我々は青年時代に薩長政府を悪み英国流の議会政治に如くものはなしと思込、多年奮闘し来りたるが、事志と違ひ今日の現状に直面して慙愧に堪へず抔、薩長政府は国家を念頭に置き働きたるが、今日は議会抔に国家を思ふもの一人もなし」という言葉を聞いて深刻に受け止めた事を書き記している。この時期の尾崎の失意の心情を伺わせる。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』朝日ソノラマ、1993年。
  • 相馬雪香/富田信男/青木一能編著『咢堂尾崎行雄』UP選書慶應義塾大学出版会、2000年。
  • 伊佐秀雄『尾崎行雄』新装版人物叢書・吉川弘文館1987年。
  • 山﨑國紀『評伝 森鴎外』大修館書店、2007年。

[編集] 外部リンク

ウィキクォート
ウィキクォート尾崎行雄に関する引用句集があります。
先代:
松田秀雄
東京市長
第2-3代: 1903年-1912年
次代:
阪谷芳郎
先代:
外山正一
文部大臣
第14代:1898年 - 1898年
次代:
犬養毅
先代:
奥田義人
司法大臣
第20代:1914年 - 1916年
次代:
松室致

最終更新 2009年11月20日 (金) 15:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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