山下大輔
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 静岡県静岡市清水区(旧清水市) |
| 生年月日 | 1952年3月5日(57歳) |
| 身長 体重 |
176cm 78kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 遊撃手、二塁手 |
| プロ入り | 1973年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1974年 |
| 最終出場 | 1987年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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山下 大輔(やました だいすけ、1952年3月5日 - )は、元プロ野球選手(内野手)・監督。愛称は「大ちゃん」。
現在はMLBロサンゼルス・ドジャース傘下ルーキーリーグ、アリゾナリーグ・ドジャースのチームコーチを務めている。
目次 |
[編集] 来歴・人物
静岡県清水市(現静岡市)出身。清水東高校から、一般入試で慶應義塾大学商学部に進学。東京六大学野球でプレーし、1971年秋からのリーグ3連覇に3番・遊撃手で貢献、「慶應のプリンス」と呼ばれた。4年時には主将を務める。リーグ通算88試合に出場し314打数102安打、11本塁打、50打点、打率.325、首位打者1回(1973年春季)、ベストナイン4回。
[編集] プロ時代
1973年のドラフトでは「巨人が第一志望。在京球団でも構わない」としていたが、1番クジを引いた大洋ホエールズが1位指名をして大洋に入団。当初は打撃を売り物にしていたが、当時大洋に所属していたクリート・ボイヤーの教えを受け、守備の名手に成長。打球に対する反応が早く、1球ごとに球種や打者の特性を考慮し守備位置を変えるなど工夫をこらした。並の遊撃手には難しい打球にも、正面に回り込み難なく捕球してみせた。「ファインプレーを普通のプレーに見せる」と評されたゆえんである。
特徴的な一塁への送球は山下を山下たらしめている伝説の技といえる。打球に近づき、グラブの中でボールをふわりとさばきサイドハンドから山なりの送球を一塁に送ると、ボールは計ったように打者走者が一塁に駆け込む寸前に一塁手のミットに収まった。打球の速さ、捕球位置、打者走者の足の速さなどを瞬時にとらえなければできない技であり、山下の守備技術の高さを物語っている。
全盛期には遊撃手の連続無失策リーグ新記録を打ち立て、後に自ら更新した。当時のダイヤモンドグラブ賞の遊撃手部門は山下の指定席で、球団史上最高の遊撃手として打撃で山下に勝る石井琢朗よりも山下の名を挙げるファンは少なくない。
遊撃手としての連続守備機会無失策記録(322, 1977年 - 1978年)は、山下の後の大洋の遊撃手として活躍した高橋雅裕に更新(353, 1988年 - 1989年)され、後にはヤクルトの池山隆寛と宮本慎也、中日の井端弘和が更新を重ねた。記録から山下の名は失われたが、打球が安定する人工芝が普及する以前から名手として名をはせた山下独特の技術は、往時を知るプロ野球ファンの語り草である。
[編集] 引退後
引退は1988年のシーズン開幕の前日に突然発表され、大洋はその年背番号1を欠いたままシーズンを送った。1989年~1992年までTBSで野球解説者を務めた。一方、大洋では1989年に谷繁元信捕手が1を引き継いだが、1993年に近藤昭仁が監督に就任すると「捕手のイメージに合わない」として谷繁を8番に変更、内野手の進藤達哉(1992年まで36番)に1番を与えた。また、山下の前に大洋で1を背負っていたのは当の近藤であった。同時に山下も守備走塁コーチとして復帰している。
現役引退後はコーチ業で実績をあげ、1998年の横浜優勝時にはヘッドコーチを務めた。2003年には生え抜きOBとして大きな期待の中、監督に就任する。しかし期待に比べて球団からの後方支援は手厚いとは言えなかった。慢性的な戦力不足を解消する糸口は与えられないまま迎えたシーズン――。
頼みの綱の主力は不振にあえいだ。投手陣は早々と崩壊し、守備のほころびも目立った。自らの采配ミスまでもが重なり、チームは開幕早々に最下位に沈み、以後閉幕まで最下位を独走した。最終成績は45勝94敗。同年のリーグを制した阪神タイガースには途中16連敗も喫したとあっては最下位も当然であった。勝率は僅か.324と、ドラフト制度導入後のホエールズおよびベイスターズにとっての最低勝率であった。
古巣横浜の監督として迎えた2シーズン目、2004年は4月に単独首位に立つなど健闘したものの、徐々に調子を落とし最終戦で最下位が決定した。同年オフ、山下は任期満了で退任した。在任2年間が連続最下位と振るわなかったが、権藤博監督時代末期から森祇晶監督時代にかけて生じた球団内の不協和音を克服、若手育成といった成果も一方では残した。
横浜ベイスターズ監督を退いた後には、東北楽天ゴールデンイーグルスで一軍ヘッドコーチ、二軍監督、球団編成本部長を務め、新興球団の基礎作りに手腕を発揮している。
2009年よりアメリカ合衆国大リーグのロサンゼルス・ドジャース傘下ルーキーリーグチームの守備コーチに就任した[1]。
[編集] 家庭環境
静岡に本社を置く病院・社会福祉施設向けリネンサプライ、介護用具レンタル・販売会社「ヤマシタコーポレーション」の創業家一族(兄が現社長)であり、山下自身も主要株主の一人である。
その関係で2007年に東北楽天ゴールデンイーグルスが静岡の草薙球場でオープン戦を行った際には同社がメインスポンサーも務めている。
妻との間に子が3人(長男・長女・二男)いる。
[編集] 略歴
- 1974年 前年秋のドラフト1位指名(江川卓を回避)で大洋に入団。当初の背番号は20。中部謙吉オーナーは山下の入団を大変喜び、秋山登ヘッドコーチの提案もあってユニフォームの色を出身地の静岡の名産にちなんだオレンジ(みかん)と緑(お茶)に変えた(これは親会社が食品会社なので食品にちなんだユニフォームにしてイメージアップを図る意味もあった)。なお、この配色は湘南電車の色としても広く知られている。
- 1975年 背番号を1に変更。遊撃のレギュラーに定着。
- 1976年 ダイアモンドグラブ賞を初受賞。以後1983年まで8シーズン連続で受賞(遊撃手としての受賞回数は現在も最多記録)。
- 1977年~ 急速に頭髪が後退。1982年頃には現在のような後頭部にわずかに毛が残るだけの状態になってしまった。カツラメーカーからCM出演を打診されたが断る。代わりに出演したのが衣笠祥雄である。
- 1985年 二塁へコンバート。
- 1988年 キャンプ終了後、シーズン開始直前に突如現役引退。体力の限界、特に動体視力の低下が理由だった。引退後はTBS解説者・日刊スポーツ評論家を務めたほか、雑誌「Number」(文藝春秋)にコラムを連載。
- 1993年 近藤昭仁監督に招聘され、横浜ベイスターズの初代内野守備コーチに就任。
- 1996年 ファーム(現・湘南シーレックス)ヘッドコーチ就任。
- 1998年 権藤博監督就任に伴い、ヘッドコーチとして一軍に復帰。チームのリーグ優勝および日本一に貢献。
- 2000年 権藤監督とともに退団。
- 2001年 NHK解説者となり、おもにMLB中継を担当。日刊スポーツ評論家も兼務。
- 2003年 横浜ベイスターズ監督就任。チームの打線に「大ちゃんス打線」というニックネームが付く(名付け親はセルジオ越後)。
- 2004年 シーズン最終戦まで広島東洋カープと5位を争ったが、結局2年連続最下位に終わり監督を退任。
- 2005年 東北楽天ゴールデンイーグルスのヘッドコーチに就任も、開幕からわずか1ヶ月強で2軍監督へ配置転換。フェニックスリーグでは、楽天球団初の優勝を飾る。シーズン終了後、同球団の編成本部長に転身。
- 2007年 シーズン終了と共に退団。
- 2008年 再び日刊スポーツ評論家に就任。TBSニュースバード、tvkでも野球解説を務めた。
- 2009年 アメリカ大リーグのロサンゼルス・ドジャース傘下のルーキーリーグチームの守備コーチに就任。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
チ | ム |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 死 球 |
三 振 |
打 率 |
順 位 |
長 打 率 |
出 塁 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1974 | 大 洋 |
92 | 166 | 15 | 30 | 1 | 1 | 4 | 45 | 9 | 1 | 1 | 0 | 19 | 37 | .181 | - | .271 | .265 | .536 |
| 1975 | 103 | 222 | 28 | 55 | 12 | 2 | 3 | 80 | 10 | 6 | 7 | 2 | 26 | 37 | .248 | - | .360 | .327 | .687 | |
| 1976 | 113 | 380 | 47 | 105 | 19 | 2 | 7 | 149 | 21 | 14 | 4 | 1 | 43 | 43 | .276 | 23 | .392 | .350 | .742 | |
| 1977 | 105 | 423 | 77 | 110 | 17 | 3 | 18 | 187 | 48 | 6 | 12 | 2 | 51 | 68 | .260 | 31 | .442 | .340 | .782 | |
| 1978 | 129 | 466 | 55 | 118 | 22 | 8 | 9 | 183 | 41 | 8 | 14 | 2 | 64 | 77 | .253 | 34 | .393 | .343 | .736 | |
| 1979 | 129 | 458 | 59 | 129 | 24 | 3 | 12 | 195 | 53 | 6 | 11 | 6 | 55 | 63 | .282 | 21 | .426 | .359 | .785 | |
| 1980 | 121 | 419 | 50 | 111 | 21 | 4 | 9 | 167 | 41 | 15 | 9 | 3 | 30 | 52 | .265 | 26 | .399 | .314 | .713 | |
| 1981 | 130 | 490 | 68 | 136 | 31 | 1 | 16 | 217 | 52 | 6 | 9 | 2 | 53 | 38 | .278 | 20 | .443 | .427 | .870 | |
| 1982 | 130 | 519 | 79 | 144 | 23 | 2 | 18 | 225 | 42 | 3 | 12 | 2 | 59 | 50 | .277 | 18 | .434 | .351 | .785 | |
| 1983 | 130 | 495 | 73 | 133 | 33 | 2 | 11 | 203 | 36 | 11 | 9 | 2 | 69 | 42 | .269 | 30 | .410 | .358 | .768 | |
| 1984 | 116 | 413 | 38 | 102 | 6 | 0 | 6 | 126 | 33 | 4 | 14 | 5 | 36 | 36 | .247 | 35 | .305 | .307 | .612 | |
| 1985 | 99 | 293 | 25 | 82 | 17 | 0 | 6 | 117 | 25 | 3 | 8 | 1 | 27 | 32 | .280 | - | .399 | .341 | .740 | |
| 1986 | 118 | 343 | 31 | 91 | 14 | 0 | 7 | 126 | 33 | 9 | 10 | 4 | 24 | 52 | .265 | - | .367 | .313 | .680 | |
| 1987 | 94 | 172 | 12 | 32 | 5 | 0 | 3 | 46 | 11 | 3 | 11 | 1 | 12 | 15 | .186 | - | .267 | .239 | .506 | |
| 通算:14年 | 1609 | 5259 | 657 | 1378 | 245 | 28 | 129 | 2066 | 455 | 95 | 131 | 33 | 568 | 642 | .262 | - | .393 | .334 | .727 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 背番号
- 20(1974年)
- 1(1975年 - 1988年)
- 80(1993年 - 2000年)
- 86(2003年 - 2004年)
- 77(2005年)
[編集] タイトル・記録
- ベストナイン:1回 (1981年)
- ダイヤモンドグラブ賞:8回 (1976年~1983年)
- オールスターゲーム出場:4回 (1974年、1975年、1978年、1981年)
- 遊撃手最高守備率 .988(1976、当時セ・リーグ最高)
- 遊撃手連続守備機会無失策 205(1976/7/11~1977/4/5、当時セ・リーグ記録)
- 遊撃手連続守備機会無失策 322(1977/8/28~1978/5/6、当時日本記録)
- 通算1000試合出場 1982年7月22日(230人目)
[編集] 監督としてのチーム成績
| 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム 差 |
チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | 球団 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2003年 | 6位 | 140 | 45 | 94 | 1 | .324 | 42.5 | 192 | .258 | 4.80 | 51歳 | 横浜 |
| 2004年 | 6位 | 138 | 59 | 76 | 3 | .437 | 20.0 | 194 | .279 | 4.47 | 52歳 |
[編集] 監督通算成績
- 278試合 104勝170敗4分 勝率.380
[編集] エピソード
- 大洋に入団して寮に入るときに兄が自分の車で山下を寮まで送った。だが、それが高級外車であったために、寮にいた関係者はあぜんとしたという。
- 「ヤマシタコーポレーション」の社長であった父親は、山下が早く野球界から足を洗って後継者である兄を助けて会社を守り立ててくれる事を2002年に亡くなるまで望んでいた。だが、父の死から半年後に古巣・横浜からの監督就任要請があると、山下はこれを引き受けてしまい、父親との約束を果たす事が出来なかった。
- ただし、山下自身はこうした「金持ちの息子」という出自から来る様々な先入観に悩んでいた時期があるようである。横浜監督時代に親しい記者からそうした面で損をしているのでは?と問われた時に「生まれだけは自分ではどうしようもない」と嘆息したという。
- 英語が堪能で、日本ハムとのオープン戦でトレイ・ヒルマン監督に英語で挨拶すると、ヒルマン監督に日本語で挨拶された。
- 1981年に渋谷にある自宅(斜め向かいは五月みどり邸)の庭を拡張するため1坪40万円で土地を買ったが、4年後に1坪800万円に高騰した。
- 監督退任後すぐに新設球団楽天のヘッドコーチに就任した。優勝を含む3年連続Aクラスの横浜ヘッドコーチ時代の実績が評価されての招請だった(監督は田尾安志)が、翌2005年、チームは開幕から1か月たっても10勝に届かなかった。山下は不振の責任を負う形で2軍監督に降格させられた。同年のシーズン終了後は現場を離れてフロントに迎えられ、2006年からは編成本部長、後にスカウト部長も兼任。2007年で退団することがシーズン終了後に発表された。
- 監督就任以前はテレビ解説者を務めていた。NHKのメジャーリーグ中継時は、7回裏に球場に流れる『私を野球に連れてって』に合わせて歌っていた。風貌や人柄も相まって、以前ほど表舞台に出ることは無い今でも根強い人気を持っている。
- 明るく誠実な人柄が持ち味。現在では煌々と光る自らの頭部をもアピールポイントにするユーモア(例:テレビカメラに向かって帽子を取り「はげましておめでとう」、選手たちに対する訓話で「僕の頭のように怪我(毛が)無く、明るく、輝いてほしい」、風が強い日に「僕のヘアスタイルも乱れがちで…」など)も持ち合わせプロ野球ファンの人気を得ている。1980年代にアニメ映画化された『プロ野球を10倍楽しく見る方法』では、山下はあごひも付きの帽子・ヘルメット姿で描かれていた。
- 楽天ヘッドコーチ就任時には「チームを(自分の頭で)明るくしたい」、また「私は(スキン)ヘッドコーチ」「昔はノーエラーの山下。今はノーヘアーの山下です」などとシャレネタを披露している。編成部長に転進してからも2007年に頭を剃り上げたケビン・ウィットが入団会見を行った際、「彼とはセイムヘッド(同じ頭)ですが息子ではありません」と発言し、笑いを誘っていた。夫人いわく「主人が人の悪口を言っているのを聞いたことがない」という。
- 横浜が日本一になった権藤博監督時代には「深夜に呼び出しても山下は必ず来てくれて、よく愚痴を聴いてくれた」と言っている(永谷脩の著作より)。また駒田徳広が権藤に造反した際は駒田をフォローし、後日のインタビューで駒田に感謝されるなど人格者であった。(駒田の項も参照)
[編集] 監督時代の采配
横浜監督時代の采配はファンを唖然とさせることが多かった。ただし、必ずしも不可解とは言い切れないものもある。
- 2003年は、防御率4点台と決して好調ではなかったデニー友利を、勝ち負けの状況に関わらず徹底してリリーフ起用。「ピッチャーデニー」は山下の代名詞となっていた。後述する「レフトライト交代事件」も、本来はしっかりした根拠がある采配ながら、デニーが打たれたことにより無駄骨に終わっている。
- 2003年に開幕投手に指名するなど吉見祐治を先発ローテーションにする事にこだわり、絶不調にも関わらずシーズン最後まで先発させ続けた。最終戦直前には「最後くらいは吉見くんで締めたい」と語っており、彼に対する期待の高さが窺えた。ちなみに吉見は好投したが、リリーフ登板したデニーが打たれて結局敗戦。
- 2003年4月29日の対ヤクルト戦(神宮)で同点の延長10回裏。山下はベンチを出るとレフトの鈴木尚典とライトの多村仁の入れ替えを球審に告げた。その後ライトの鈴木とレフトの多村を元に戻した。一見無意味に見えたこのシーンは「謎采配"レフトライト交代事件"」として語られることが多い。実際のところは、山下はすでに1度マウンドに行っており、もう一度行けば「同一イニングに同一投手の下へ2度行けば自動的に投手交代になる」と定めた公認野球規則8.06(b)に抵触するため、デニーに落ち着く間を与えるため機転を利かせたベンチワークの賜物だった。しかしデニーは古田敦也にサヨナラ死球を与えてしまい、チームは負けてしまった。
- 2003年6月25日の対巨人戦(東京ドーム)で、1点リードの9回裏にリリーフにデニーを投入したが、ヒット2本と死球でノーアウト満塁のピンチを招いた。ここでも山下はベンチを出るとレフト鈴木とライト多村の入れ替えを球審に告げた。しかしデニーは直後に同点タイムリーヒットを打たれ森中聖雄に交代。森中もサヨナラ死球を与える最悪の結果になってしまい、謎だけがクローズアップされ、真相は省みられなくなってしまった。地上波ではTVKのみの中継であった前述のヤクルト戦よりも、日本テレビ系列で全国中継があったこちらの試合のほうが知名度が高い。
- 消化試合で本塁打王を争っていた4番打者のタイロン・ウッズに、日本で一度もしたことがない送りバントを指示。「とりあえず意表を突こうとした」「ウッズ本人がバントをしたいと申し出た」「ウッズがサインを間違えた」という説がある。ウッズは初球をバントしたが、結果はピッチャーフライだった。
- ウッズの代走河野友軌が二塁に進塁した後、河野の代走として田中一徳を出場させた。河野が怪我でもしたのかと思ったファンは多い。
- 投手の山田博士を代走に起用。通常、投手は打力や走塁技術が低く、打撃の際に手がしびれたり走塁中に疲労・負傷するのを避けるという目的もあって代打・代走に出さないのがセオリーであり、一部ファンの首を傾げさせた。しかし、このときは控え野手が1人しか残っておらず、代走起用してしまうと投手の打順で代打に出す野手がいなくなるため、やむを得ない采配だったといえる。ちなみにその1人の残り野手が下の項の小田嶋である。
- 2003年7月18日の対巨人戦で小田嶋正邦(現巨人)が球団史上初の代打サヨナラ満塁本塁打を放つと、これがあまりに印象的だったためか、以後勝っているときも負けているときも見境なく代打に出し続けた。当時の小田嶋は捕手だったので、ベンチに下げてしまうと控え捕手がいなくなって困る可能性があった。
[編集] 関連項目
- 静岡県出身の人物一覧
- 横浜ベイスターズの選手一覧
- 大ちゃん (アスキーアート) - 匿名掲示板2ちゃんねるにおける山下大輔AA(アスキーアート)
[編集] 外部リンク
[編集] 脚註
- ^ 元横浜監督の山下氏、ドジャースマイナーのコーチに 産経新聞 2008年12月16日閲覧
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最終更新 2009年11月9日 (月) 14:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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